政権交代なき二大政党制は最悪の組み合わせである

「連立の作法」を生み出せ

 

――多くの民意が切り捨てられ、政策が純化する傾向があるとなると、それはやはりまずいですね。となると、現状、野党に求められている機能を満たす最適解は連立ということになります。吉田さんは「連立の作法」を生み出さなければならないとしていますね。

 

その通りです。磐石の自公ブロックに対して、野党のブロックが4つも5つにも割れていたら、勝てる選挙も勝てないのは当然です。「一強多弱」を作り出しているのは自民党の強さというより、野党の分裂による弱さであるということを認識すべきです。

 

もっとも、選挙協力という「互助会」ではやはり有権者、それも無党派層にはアピールしづらいでしょう。そうであれば、政権構想を含めた連立についての方策や知恵がないとなりません。旧民主党は、90年代に公明党との連立も考えず、政権をとってからは社民党と旧小沢自由党とも仲たがいしていったように、「仲間作り」が下手なのが致命傷となりました。政治とは仲間作りのことなのだとしたら、その体質をいかに改めることができるのかが課題となってきます。

 

 

――野党共闘という文脈からみたばあい、「社民の極」民進党から「新保守・自由主義の極」自由党への広がりは、民意の多元性をくみ取るという意味でメリットをもつのでしょうか? それとも雑多な野合としてのデメリットの方が大きいのでしょうか?

 

本質的な問いですね。2つ要因があって、ひとつは党内ガバナンス・リーダーシップの問題。政権交代という「共有できる夢」以外の誘因でもって、党内でガバナンスを利かせられるかどうか。

 

もうひとつは政治文化の問題。左派・リベラル政党は、強権的なリーダー・指導者を一般的に嫌う政治文化を持っています。「親分がいうことなら」ということで一致団結するような自民党的な反射神経を持っていません。この政治文化をいかにプラスの方向に変えることができるが鍵でしょう。

 

このジレンマを解決するために、議員個人同士の競争文化を指導者文化に転換することを目標に、野党ブロック統一の公開予備選を提案しています。野党ブロック内の多様な潮流を競争を通じて表出させ、代表を一般有権者が選出することで指導者に正当性を付与する、という手立てです。

 

 

――吉田さんには以前シノドスにも公開予備選挙についてご寄稿いただいていますが(「「分裂」と「統一」のジレンマを克服する――野党勢の「オープン・プライマリ」という選択」)、もう一度ご説明いただけないでしょうか。

 

いま話したように、野党ブロック(非自公)が分裂していては政権交代は遠のくばかりです。ただ、他方で無原則な野党共闘は「野合」と批判されて、透明性を欠く野党共闘も無党派層から支持されないでしょう。それでは、野党ブロックの多様性をいかに統一へと転換して、マイナス要因からプラス要因へと変えるのか。その方途がオープン・プライマリ(公開予備選)です。

 

方法は色々考えられますが、野党各党党首がそれぞれの政策でもって論戦を繰り広げて、最終的にそれを一般有権者の投票で決めるというのが基本です。これに党員でなくとも、民主党サポーター制度のように、有権者であれば投票権を持つようにします。こうして、野党ブロックの代表が選出され、本選挙ではこの野党代表を統一リーダーとして野党ブロックが闘い、議会でこの代表が首班指名を受けるという流れになります。

 

 

――このアイディアの魅力的なところは、野党ブロックの統一首相候補を投票で選べることですよね。小さな野党の党首であっても有権者の心をつかめれば、野党ブロックの代表になれる。しかもそれを「わたしたち」が「選べる」わけです。

 

その通りです。荒唐無稽な話でもありません。かつて諸政党の寄り合い所帯だった新進党でも一般有権者による党首選が行われ(当時、ディスコのヴェルファーレなんかでイヴェントをやっていました)、イタリアやフランスでも野党ブロックの代表が公開予備選で選出されるようになりました。

 

ポイントは、野党間で透明な競争があること、そしてその競争の結果を有権者自らの手でもって決せられることです。機会がある時は各政党の幹部に意見を求めますが、一部を除いて、いまひとつの感触でした。ただ公開予備選というアイディアに賛同を示してくれる市民団体もあって、各党への働きかけなどもあります。

 

これからも実現を訴えていきたいと思っていますが、日本の政治は少なくない部分が公職選挙法という旧態依然とした、民主的なイノヴェーションを妨げる法律に縛られています。オープン・プライマリはそれと異なる回路で、政治参加と政党間競争を促す方途になるはずです。

 

 

野党を使いこなせ!

 

――どうしても他人事としてシニカルな視線を浴びがちな野党共闘ですが、このアイディアが実現すれば「わたしたちの野党代表」という意識が生まれるかもしれない。しかし、各野党の反応は芳しくないんですね。ぼくは吉田さんのことをフランス人だと思っているのですが(笑)、そんな吉田さんの目から見て、いまの日本の政治ってどう映っているのですか?

 

フランス人だとしたら私は何とも中途半端なフランス人ですが(笑)。そういえばフランスの保守政党・共和党(PR)でも、オープン・プライマリが導入されました。

 

仕方がないのですが、日本は政治と社会の分離が著しいという特徴があります。日本は相対的には、社会的な亀裂がそれほどで深くあるわけではない。その分、政治の持つ強度も低いといえるのかもしれない。語弊を恐れずにいうと、世界標準からすれば、沖縄の地方政治くらいの強度があたり前ですが、日本標準からすると沖縄政治こそが異常値だということになっている。

 

 

――ご著書の中で、とても印象的な言葉がありました。「新たな政治的課題を発見し、知らしめ、問題提起するのは、野党の義務であり、権利でもあります。」この文章の「権利」という言葉です。この言葉に込めた思いを教えていただけますか。

 

良い質問ですね。これは野党というより政党全般の話ですが、政党が国家と社会を媒介する組織集団だとして、社会の利益や意見を国家の制度や法に転換できるのは議会に代表を送り込むことのできる政党だけです。

 

確かに、デモやロビーイングもあってもいいでしょう。でも、それはあくまでも政治へのインプットでしかありません。利益の媒介・集約でもって集合行為のジレンマを超えて、政治へのインプットとアウトプットの両方に足をかけることができるのは政党しか、この政治世界では、ほぼありません。そして既存のインプットとアウトプットと異なる回路を用意するのは、野党をおいて他にありません。それゆえに「権利」と表現したのです。

 

 

――最後の質問です。なぜ野党は不可欠なのでしょうか? 読者へのメッセージを込めてお答えいただけますか。

 

「いま目の前にあるこの社会ではなく、まだ見えぬこういう社会にいきたい」という希望があるとして、それを実現できるのは広い意味での「政治」です。この政治を担う主体には色々なものがありますが、その機能がもっとも明確で、法的な地位も与えられている組織が「野党」という存在です。

 

本にあるように、それは民主主主義的な社会を実現するための不可欠なツールです。個々の政党に色々と不満や疑問はあるにせよ、だからといって、野党はいらない、ということにはならないはずです。至らぬものがあるとして、そのためには、自らが野党を使いこなさないとなりません(そうした意味ではリベ懇などの動きはいかに不十分だったにせよ、敬意を表すべきことですし、賛否はともかく、日本会議が政権に影響を持っているのも野党時代に梃入れをしたからです)。

 

野党を自らのものとして使いこなせるかどうか、それはその社会の構成員1人1人にかかっています。そのことに理解が及べば、政治はもっともっとダイナミックなものになっていくはずです。

 

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.276 

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