2016.10.24

政権交代なき二大政党制は最悪の組み合わせである

『「野党」論』著者、吉田徹氏インタビュー

情報 #新刊インタビュー#「新しいリベラル」を構想するために

小選挙区―二大政党制のもとで、野党の重要性はかつてなく高まっている。だが現実には、野党へのまなざしはきわめてシニカルだ。いま野党に求められている役割は何なのか? そしてそれは、どうすれば実現されるのか。『「野党」論――何のためにあるのか』(ちくま新書)を上梓した吉田徹氏にお話を伺った。(聞き手・構成 / 芹沢一也)

野党とは存在でなく機能である

――なぜいま、野党をテーマにしようと考えたのでしょうか?

2009年の政権交代選挙があり、自民党が下野して、これからは政権交代をめぐる政党政治が日本でも生じることになると思ったのがきっかけです。自民党が下野したなら、民主党が下野する時も来るだろう、すなわち、政権交代を語ることは野党を語ることにほかなりません。もっとも、「野党」を主語にした政治分析は、すでに政権交代が常態化した先進国で、世界的には流行らなくなっているという欠落がありました。

そんな話を全国紙のオピニオン欄担当とも話をして、そこで「野党特集」をしましょうという話にもなっていました。この企画は2010年の参院選での民主党の敗退もあって立ち消えになったのですが、同年の日本政治学会では「野党改革の比較政治」と題した分科会として結実しました。この時の分科会をベースに、他の研究者にも寄稿してもらってできあがったのが『野党とは何か』(ミネルヴァ書房、2015年)でした。

野党が活躍するのは選挙の時だけではありませんが、意識されることが多いのはやはり選挙の時でしょう。そこで今年6月の参院選を前に、『野党とは何か』の「普及版」として出版したのが『「野党」論』ということになります。

――しかし、「政権交代をめぐる政党政治」になり損ねてしまいましたね?

どうでしょう、確かに現実として政権交代は2012年以降起きていません。ただ野党自身もメディアも、そして有権者も「政権交代」をひとつの参照基準として政党政治をみて、語るようになってきたのは事実です。今でも民進党はだめだ、このままでは政権も任せられないという風に論じられる。これは55年体制下で、「自民党政治」を前提とした政治とは隔日の感があります。

そうした意味で、2009年の政権交代は日本政治の大きなフェイズ転換であったことは間違いないでしょう。本では野党の機能は政権交代を果たすことに解消されるわけではないといっていますが、野党に期待される役割として、それが当然のように含まれるようになったのは、新しい現象です。それゆえ、「野党」が何であるのか、その目的と機能は何かなのかが問われているということになります。

――野党とは存在であるより、むしろ機能と役割なんだと強調されていますね。

「野党」は英語・仏語などで「オポジション」、つまり「抵抗/対抗勢力」という意味を持っています。本の中では他国の事例を参照したり、類型化などもしていますが、民主政体での野党は、統治権力(=政府・与党)に対するオルタナティブを準備したり、政策を修正したりする、あるいは政治的多数派によって代表しきれない政治的な意見を表出することをその機能としています。

重要なのは、民主政体にあって、その国の野党が果たしうる機能は、総体としては、その政体がどうデザインされるかに規定されるということです。アメリカの最高裁判所やドイツの上院や州議会は、権力に対する抑制や政策の修正という意味で、いま述べた「野党的」な役割をかなりの程度、果たしています。つまり、その国の民主主義がどうデザインされているかという中で、野党が果たすことのできる機能も変化してくるということになります。

例えば、今の日本の国会制度は、野党はどうしてもスタンドプレーに傾きがちで、実質的な審議をしにくいような構造になっています。もし野党がふがいなく、だらしなく見えるとしたら、それは制度にも原因があります。話は違いますが、よく委員会で居眠りしている政治家が問題になるでしょう。あれは、逆にいうと居眠りしても審議の結果には何の影響もないからです。つまり、野党がどうあるかは、制度的にも制約されています。そうした制度的な議論も、本では言及しています。

――日本の場合は、政体と野党との関係をどう考えればよいでしょうか?

日本の政府与党は、「弱い」という説と、「強い」という説とが、学界では並存しています。その見方も、かなりの程度、その時々の政治情勢にも影響されます。日本の政府与党や首相は結構強力だ、というのは政治改革以降、それも小泉政権を機に出て来た議論のようにみえます。

その何れに立つかでも変わって来ますが、政体としてみると、アメリカとイギリス、そして明治以降の政党政治・議会制度とがハイブリッドにあわさっているのが、日本政治の制度的特徴です。内閣(行政)―与党・野党(立法)―裁判所(司法)の三権が相対的に無媒介なままに並存しているというのも特徴かもしれません。

戦後でみると、日本の野党勢力は中選挙区制という世界的にも珍しい選挙制度の中で、与党との共存を可能としてきました。さらに国会の場では、委員会中心主義であることもあって、与党との様々な交渉と取引によって、自らの利益を実現できていたといえます。

ただ、野党を主語とした場合、社会の多元性は、かつての自民党が派閥―利益政治で吸い上げていたのが、小選挙区主体になってそれが機能しなくなってきました。そうした意味で、小選挙区―二大政党制のもとでの政権交代なき政党政治は、最悪の組み合わせになりかねません。

――「最悪」とは?

小選挙区制は、勝者総取りの選挙制度(=死票が多い)です。簡単にいうと選挙では民意の半分が切り捨てられてしまうわけです。比例制が高い選挙制度(かつての中選挙区制もそうでした)ならば、細かな民意も議席に反映されますが、小選挙区制ではそれが不可能です。細かな民意の吸い上げというより、民意がブロックごとに入れ替わるというのがイメージに近いかもしれません。そのため1回の選挙で反映されなかった民意を再現するには、定期的な政権交代が必要になる、ということになります。

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抵抗型野党から政権交代型野党へ

――55年体制下の野党であった社会党は、政権交代を目指さない野党でした。ご著書で空井護氏のいう「野党化の論理」に言及されていますが、社会党は実現しえない理念を掲げることで、野党としての存在意義を高めつつ、抵抗勢力として自らの生存を図るという姿勢だったわけですね。長い間、こうした野党があったことは、現在に至るまで負の遺産となって、日本の野党のあり方を規定していませんか?

そうですね、少なくとも日本での「野党観」は、社会党的な野党イメージでもって語られることが一般的だと思います。安倍昭恵さんが使って広まった「家庭内野党」という言葉も、これに似ているかもしれませんね。

ただ、読んで頂ければわかるように、もっといえば「野党化の論理」というロジックが内包しているように、この「抵抗型野党」には、戦後政治の対立軸が憲法問題に集約されている限りにおいて、時代的な合理性を有していました。これは歴史的なイフの話になりますが、社会党がいなかったら、改憲は可能になっていたかもしれません。改憲論議がふたたび高まってきたのも、安倍自民党政権の志向性だけでなく、社会党のような抵抗型野党の厚みが薄くなってきたから、という見方すら可能かもしれません。

だから、野党には様々な類型が存在していていいし、存在しているべきなのです。こうした野党イメージの多様性が、野党とは何かということについて明確な一致がみない理由になっていますが、それには理由があるのです。その多様性を大事にした方が、結果的に民主的な政治も可能になるのではないでしょうか。

――そうしたなか、野党の新しいイメージを打ち出したのが、「政策提言型の建設的野党」を目指した民主党ですね。小選挙区制を主体とした選挙制度のもと、二大政党の一翼を担おうとしました。繰り返しになりますが、それは失敗したという印象を多くの人が持っていると思います。

これも何れの野党像を理想とするかによるかもしれません。政権交代を実現したのは確かですから、そうした意味では2009年までの民主党は野党の成功モデルだったといえるでしょう。民主党が抱えた問題はその先の政権与党としてのガバナンスの問題でした。

ガバナンスの問題を抱えた理由が民主党の野党時代の組織構造にあるとするのは間違いではないと思います(この本では「政策の許容性」と「組織の包括性」のトレードオフという政治学者の木寺元の図式で説明しています)。ただ、民主党が「抵抗型」の野党像を「政権交代型」の野党像に置き換えることに成功したのは事実だと思います。

90年代後半の「金融国会」に象徴的でしたが、与党法案に対してつねに反対するのではなく、是々非々で臨むという姿勢は、当時は新鮮味を持って、もっといって好意的にすらみられていました。あとは、これからの能力と手腕次第ではないでしょうか。少なくとも、次の総選挙では政権を目指すと新代表は宣言しているわけで、そうした意味では過半数の候補者すら立てなかったかつての社会党とはまったく違います。

――失敗の烙印を押すのはまだ早い、ということでしょうか?

民主党政権の3年間が相対的な失敗に終わったというのは間違いないでしょう。だからこそ、選挙で負けたのです。ただ野党というのは存在ではなく機能だとするこの本の立場からすれば、現在の民進党がどうこうというのはあまり関係ない話です。時々の政治権力の修正と均衡が成り立つのであれば、その方途は色々あるべきで、野党第一党だけに期待するのは難があります。

世論調査では、民主党政権は評価しないけれど、政権交代そのものはあってよかったとする意見が依然として多数を占めます。それを埋めることのできる野党がまだ求められているということも確かです。よく言われることですが、今の内閣が支持されているのも、世論調査をみれば「他よりも良さそう」と回答している有権者が多数です。では、現政権に代わるオルタナティブを用意できる政党はどこか。そのための人材、組織、知恵を備えているのが民進党ということになるでしょう。

――民進党はかつての社会党のような抵抗型野党となって、つまり政権交代はあきらめて、与党からなにがしかの妥協や取引を引き出す、という途はとりえないのでしょうか?

98年以降の民主党は、少なくとも政権交代を使命とした政党ですから、政権交代を明示的に目指さないという選択肢は当分ないでしょう。憲法改正のように「何かを変えさせない」のであれば、それでもいいかもしれない。ただ、何か特定の政策を実現することを目指すのであれば、やはり政権交代を掲げないわけにはいかない。

あとは有権者が憲法を変えない自民党なら未来永劫、いつまで政権にいていい、そのためには抵抗型野党さえいてくれればいい、と判断するかどうか。これは自民党内の状況も関係してくるので、何ともいえません。

ただ、もともと再分配に配慮が足りていないと言われていた現政権が、最近になって賃金上昇に前向きになったり、働き方改革を含む労働の問題に取り組むようになったのも、野党の存在と無関係ではありません。民主党などが提唱した「同一労働同一賃金」は、いまでは政権の公約にすらなっています。野党がいるからこそ政権運営に緊張感が生まれ、政策的な革新も生まれていくという良い例ではないでしょうか。

――そうした緊張感を糧にしつつ、自民党さえしっかりしていてくれればよい、と有権者が判断した場合も、やはり政権交代なき二大政党制は最悪となるのでしょうか?

有権者が自民党の政策を総体として評価するのであれば、そしてそれが選挙結果に表れるのだとして、それは否定できるものではありません。ただ、小選挙区と官邸主導型の政権運営と政策形成は、必然的に党の純化路線をもたらす部分が少なからずあります。

簡単にいうと、経済や安保、財政などの政策の大枠では二大政党間では競争が成り立たないほど選択肢が限られるので、その他の家族や労働、歴史観など、価値的で分断論争的な政策で遠心的な競争が起こりやすい。そうすると、民意が元来的に持つ多元性はますます縮減されて議席に転換されるということになりますから、「自民党がしっかりしている」と評価し続けられることは難しいのではないでしょうか。

実際、安倍政権の経済政策はおおむね了承されているとしても、世論やマスコミともっともハレーションを起こしているのは、その他の価値的な領域です。

「連立の作法」を生み出せ

――多くの民意が切り捨てられ、政策が純化する傾向があるとなると、それはやはりまずいですね。となると、現状、野党に求められている機能を満たす最適解は連立ということになります。吉田さんは「連立の作法」を生み出さなければならないとしていますね。

その通りです。磐石の自公ブロックに対して、野党のブロックが4つも5つにも割れていたら、勝てる選挙も勝てないのは当然です。「一強多弱」を作り出しているのは自民党の強さというより、野党の分裂による弱さであるということを認識すべきです。

もっとも、選挙協力という「互助会」ではやはり有権者、それも無党派層にはアピールしづらいでしょう。そうであれば、政権構想を含めた連立についての方策や知恵がないとなりません。旧民主党は、90年代に公明党との連立も考えず、政権をとってからは社民党と旧小沢自由党とも仲たがいしていったように、「仲間作り」が下手なのが致命傷となりました。政治とは仲間作りのことなのだとしたら、その体質をいかに改めることができるのかが課題となってきます。

――野党共闘という文脈からみたばあい、「社民の極」民進党から「新保守・自由主義の極」自由党への広がりは、民意の多元性をくみ取るという意味でメリットをもつのでしょうか? それとも雑多な野合としてのデメリットの方が大きいのでしょうか?

本質的な問いですね。2つ要因があって、ひとつは党内ガバナンス・リーダーシップの問題。政権交代という「共有できる夢」以外の誘因でもって、党内でガバナンスを利かせられるかどうか。

もうひとつは政治文化の問題。左派・リベラル政党は、強権的なリーダー・指導者を一般的に嫌う政治文化を持っています。「親分がいうことなら」ということで一致団結するような自民党的な反射神経を持っていません。この政治文化をいかにプラスの方向に変えることができるが鍵でしょう。

このジレンマを解決するために、議員個人同士の競争文化を指導者文化に転換することを目標に、野党ブロック統一の公開予備選を提案しています。野党ブロック内の多様な潮流を競争を通じて表出させ、代表を一般有権者が選出することで指導者に正当性を付与する、という手立てです。

――吉田さんには以前シノドスにも公開予備選挙についてご寄稿いただいていますが(「「分裂」と「統一」のジレンマを克服する――野党勢の「オープン・プライマリ」という選択」)、もう一度ご説明いただけないでしょうか。

いま話したように、野党ブロック(非自公)が分裂していては政権交代は遠のくばかりです。ただ、他方で無原則な野党共闘は「野合」と批判されて、透明性を欠く野党共闘も無党派層から支持されないでしょう。それでは、野党ブロックの多様性をいかに統一へと転換して、マイナス要因からプラス要因へと変えるのか。その方途がオープン・プライマリ(公開予備選)です。

方法は色々考えられますが、野党各党党首がそれぞれの政策でもって論戦を繰り広げて、最終的にそれを一般有権者の投票で決めるというのが基本です。これに党員でなくとも、民主党サポーター制度のように、有権者であれば投票権を持つようにします。こうして、野党ブロックの代表が選出され、本選挙ではこの野党代表を統一リーダーとして野党ブロックが闘い、議会でこの代表が首班指名を受けるという流れになります。

――このアイディアの魅力的なところは、野党ブロックの統一首相候補を投票で選べることですよね。小さな野党の党首であっても有権者の心をつかめれば、野党ブロックの代表になれる。しかもそれを「わたしたち」が「選べる」わけです。

その通りです。荒唐無稽な話でもありません。かつて諸政党の寄り合い所帯だった新進党でも一般有権者による党首選が行われ(当時、ディスコのヴェルファーレなんかでイヴェントをやっていました)、イタリアやフランスでも野党ブロックの代表が公開予備選で選出されるようになりました。

ポイントは、野党間で透明な競争があること、そしてその競争の結果を有権者自らの手でもって決せられることです。機会がある時は各政党の幹部に意見を求めますが、一部を除いて、いまひとつの感触でした。ただ公開予備選というアイディアに賛同を示してくれる市民団体もあって、各党への働きかけなどもあります。

これからも実現を訴えていきたいと思っていますが、日本の政治は少なくない部分が公職選挙法という旧態依然とした、民主的なイノヴェーションを妨げる法律に縛られています。オープン・プライマリはそれと異なる回路で、政治参加と政党間競争を促す方途になるはずです。

野党を使いこなせ!

――どうしても他人事としてシニカルな視線を浴びがちな野党共闘ですが、このアイディアが実現すれば「わたしたちの野党代表」という意識が生まれるかもしれない。しかし、各野党の反応は芳しくないんですね。ぼくは吉田さんのことをフランス人だと思っているのですが(笑)、そんな吉田さんの目から見て、いまの日本の政治ってどう映っているのですか?

フランス人だとしたら私は何とも中途半端なフランス人ですが(笑)。そういえばフランスの保守政党・共和党(PR)でも、オープン・プライマリが導入されました。

仕方がないのですが、日本は政治と社会の分離が著しいという特徴があります。日本は相対的には、社会的な亀裂がそれほどで深くあるわけではない。その分、政治の持つ強度も低いといえるのかもしれない。語弊を恐れずにいうと、世界標準からすれば、沖縄の地方政治くらいの強度があたり前ですが、日本標準からすると沖縄政治こそが異常値だということになっている。

――ご著書の中で、とても印象的な言葉がありました。「新たな政治的課題を発見し、知らしめ、問題提起するのは、野党の義務であり、権利でもあります。」この文章の「権利」という言葉です。この言葉に込めた思いを教えていただけますか。

良い質問ですね。これは野党というより政党全般の話ですが、政党が国家と社会を媒介する組織集団だとして、社会の利益や意見を国家の制度や法に転換できるのは議会に代表を送り込むことのできる政党だけです。

確かに、デモやロビーイングもあってもいいでしょう。でも、それはあくまでも政治へのインプットでしかありません。利益の媒介・集約でもって集合行為のジレンマを超えて、政治へのインプットとアウトプットの両方に足をかけることができるのは政党しか、この政治世界では、ほぼありません。そして既存のインプットとアウトプットと異なる回路を用意するのは、野党をおいて他にありません。それゆえに「権利」と表現したのです。

――最後の質問です。なぜ野党は不可欠なのでしょうか? 読者へのメッセージを込めてお答えいただけますか。

「いま目の前にあるこの社会ではなく、まだ見えぬこういう社会にいきたい」という希望があるとして、それを実現できるのは広い意味での「政治」です。この政治を担う主体には色々なものがありますが、その機能がもっとも明確で、法的な地位も与えられている組織が「野党」という存在です。

本にあるように、それは民主主主義的な社会を実現するための不可欠なツールです。個々の政党に色々と不満や疑問はあるにせよ、だからといって、野党はいらない、ということにはならないはずです。至らぬものがあるとして、そのためには、自らが野党を使いこなさないとなりません(そうした意味ではリベ懇などの動きはいかに不十分だったにせよ、敬意を表すべきことですし、賛否はともかく、日本会議が政権に影響を持っているのも野党時代に梃入れをしたからです)。

野党を自らのものとして使いこなせるかどうか、それはその社会の構成員1人1人にかかっています。そのことに理解が及べば、政治はもっともっとダイナミックなものになっていくはずです。

プロフィール

吉田徹ヨーロッパ比較政治

東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程修了、博士(学術)。現在、同志社大学政策学部教授。主著として、『居場所なき革命』(みすず書房・2022年)、『くじ引き民主主義』(光文社新書・2021年)、『アフター・リベラル』(講談社現代新書・2020)など。

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