2017.02.10

「直観」で見る「美」――『柳宗悦と民藝運動の作家たち』展

日本民藝館職員、月森俊文氏インタビュー

文化 #柳宗悦#民藝運動

民衆の実用品として、名もなき工人たちにより作られた日用品の中に「美」を見出した柳宗悦。その「民藝」という美に感銘を受けた作家たちの作品展『柳宗悦と民藝運動の作家たち』が3月26日まで日本民藝館で開催中だ。無銘の職人が作る日用品が、天才芸術家の作品に勝るとも劣らぬ美しさを備えることがある、それは何故なのか。柳の美の思想、そしてその「民藝」の美に影響を受けた作家たちの挑戦に迫った。(取材・構成/増田穂)

先入観に囚われずものを観る

――今回展示を見てまず驚いたのですが、民藝館の展覧会にはルートや作品の説明がほとんどないんですね。

そうなんです。普通の美術館だと、まず挨拶文があって、趣旨の説明があって、作品に細かい解説がついていて、順路通りに進んでいくと展覧会のコンセプトがわかるようになっています。しかし、民藝館ではそういったことはしていません。順路はなく、説明書きも最低限です。説明がなくて不親切だと怒られることもあるのですが、これが民藝館開館以来の方針です。

――こうした方針をとっていらっしゃる理由はなんなのでしょうか。

説明書きがあると、お客様はそちらばかり読んで、あまりものを見て下さらない。文章を見て、チラッとものを見て次に行く。そして次の品ものも解説を読んで…という繰り返しです。ものにまつわる事柄や意図、その作家の人生を言葉にして押し付けてしまって、作品自体の美しさや価値が置き去りにされてしまっている傾向があると思います。

たとえば天才作家の展覧会があるとします。そうすると展覧会では作家の苦悩とか挫折とか出会いとか、そういうストーリーを説明します。そして観覧者はそのストーリーに感動する。しかしそれでは、その作品自体に本当に人を感動させる力があるのかという疑問が残ります。世の中の全てに共通するかもしれませんが、肩書きとか作品にまつわる事柄でそのものの価値判断をしているように見えてしまう。

そういった価値判断に疑問を呈したのが、当館の創設者であり、思想家でもあった柳宗悦です。柳は「直観」で見ることがとても大切だ、と言っていますが、肩書きもストーリーも、あらゆるものを取り去ってものだけを直に観て、そのもの自体に備わっている「美」や価値を見出そうとしたんです。ですから民藝館では、なるべく来館者の方が余計な先入観を持たずに作品を見て下さるように説明は最小限にしています。

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展示風景(写真提供:日本民藝館)

――柳宗悦はどういった経緯で芸術品と関わるようになったのですか?

柳は学習院在籍時代、『白樺』という文芸雑誌の出版に携わっていました。大学では宗教哲学を学んでおり、『白樺』での論考は主に宗教哲学者として執筆していたのです。『白樺』では西洋近代美術を紹介する記事も掲載しており、以前から美しいものに関心を持っていた柳が記事も書いていました。こうした活動を経て「美」と深く関わっていくことになります。

――『白樺』といえばヨーロッパの自由主義的な思想の影響を受けていることで有名ですが、民藝館の収蔵品は東洋的なものが多いですよね。柳宗悦の視点が西洋美術から東洋の芸術に移ったきっかけは何だったのでしょうか。

当時白樺派の中では、西洋美術を紹介する場として美術館を建てようという動きがありました。柳たちはそのための作品蒐集をしており、その過程でロダンと手紙のやり取りをして、彼の彫刻と日本の浮世絵を交換します。柳はしばらくその彫刻を自宅で預かっていたのですが、ある時、浅川伯教という、当時朝鮮の小学校で教鞭をとっていた人が、その彫刻を見に柳の家を訪ねます。その時、浅川氏が朝鮮時代の焼物を手土産に持ってきたのですが、それを見て柳はその美しさに感銘を受けるんです。

手土産は染付秋草文面取壺という壺でした。有名な作家が作ったようなものではなく、普通の職人が作った実用品です。ここは想像なのですが、柳はその美しい染付を見て、ロダンやセザンヌといった芸術家の作品に勝るとも劣らぬ美しさを感じたのだと思います。そして、その何の変哲もない民衆のための日用品の美に驚愕した。以来、柳は朝鮮の工芸品に魅せられて、その調査や蒐集、公開などに携わっていきます。

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染付秋草文面取壺(瓢形瓶部分) 朝鮮時代 18世紀前半(写真提供:日本民藝館)

――そうした日用品に存在する美を見つめる中で、「民藝」という言葉が生まれてきたわけですね。

ええ。「民藝」とは「民衆的工芸」のことなのですが、それは「雑器」「下手物」などと軽んじられてきたものです。それで、当時、一緒に活動をしていた陶芸家の河井寛次郎や濱田庄司などと共に「民藝」という名称をつけてその価値を世に広めようとしたわけです。ただ誤解されると困るのですが、柳は民藝品だけが美しいと言ったことはありません。美しいものを蒐めてそれを調べてみたら民衆の工芸品が多くあったということです。ですから民藝館には、同様の美しさを宿す、民衆の工芸品以外のものもたくさん収蔵されています。

――当時なりの大量生産品の中に美を見つけたわけですね。

そうです。機械による大量生産とは違いますが、あくまで一般向けの実用品ですから、「美しいものを作ろう」という意識で作られているわけではありません。こうした「下手物」の中に美を見つけられたのも、柳が「直観」でものを見ることを大切にしていたからだと思います。当時の朝鮮は日本の植民地でしたし、日用品を作る工人も社会的地位の低い人びとでした。そういった人びとの作る品ものに「美しい」と感動できたのは、彼の先入観に囚われないものの見方があったからだと思います。

――民藝館もそうした美を広めるための活動の一環として作られたのですね。

ええ。蒐集を通じて民藝の調査を行い、同時に民藝の美しさを多くの人に見てもらうための試みを続けてきました。1926年(大正15)に「民藝」という言葉ができて以来、民藝館設立の構想はありましたが、財政的な問題でなかなか進みませんでした。1935年(昭和10)に、柳の志に共感した大原孫三郎氏が寄付をしてくださり、その他多くの賛同者の援助によって1936年(昭和11)にようやく設立が実現します。ですから今展は創設80周年の特別展となっています。

民藝館の活動はいくつかあります。まずは過去の民藝品の美しさを紹介すること。現存する民藝の伝統を守っていくこと。そして個人作家、つまり民藝品に触発されて自分も美しいものを作りたいと志す作家の作品を展示すること。他にも民藝品の研究、保管などを行っており、そうした活動の拠点として民藝館は運営されてきました。

柳宗悦と民藝運動の作家たち

展示風景(写真提供:日本民藝館)

制作者への深い尊敬の念

――柳宗悦が日本の民藝に関心を持ったきっかけはなんだったのでしょうか。

木喰仏との出会いがきっかけだと言われています。木喰仏とは、木喰戒を積んだ江戸時代の修行僧が民衆のために仏像を作ることを発願して、全国を歩き回りながら造像した木彫仏のことです。木喰は今でこそ木喰仏の作者として知られていますが、もとは無名の修行僧で、その仏像も特に注目を集めていたものではありませんでした。

しかし柳はこの木喰仏の中にすばらしい美が存在することを発見し、日本全国で木喰仏を徹底的に調査します。その過程で今度は日本の民藝品にも触れるようになり、その魅力に惹かれていきました。

――朝鮮や沖縄、アイヌなどのマイノリティやその生活文化の保護に積極的で、政治的にも発言をされていたそうですね。

当時、日本が朝鮮でおこなった植民地政策に対する柳の活動は有名ですね。朝鮮の工芸品に魅せられて以来、柳は足繁く朝鮮に赴きました。ちょうどその時、三・一独立運動が起こり、朝鮮は日本政府からの激しい弾圧を受けます。こうした政策には批判文を寄せています。また、朝鮮総督府を建てるために光化門が取り壊されそうになった時は、新聞に批判の文章を掲載し、その結果として移築され、取り壊しが回避されました。

沖縄での調査の過程では、近代化の中、自然と強い繋がりを持ち続けている沖縄の生活文化の豊かさに感嘆し、その文化の保護を訴えます。当時、日本政府は沖縄の学校で標準語励行運動を行っていました。もちろん賛同する沖縄の人もいましたが、かなり強制的な側面がありました。柳も標準語を覚えること自体は否定しませんでしたが、標準語においては失われてしまった言葉や表現が息づく沖縄方言を捨ててしまうのはもったいないと、一方的な励行をすすめる政府の政策を批判しました。他にもアイヌや台湾先住民族に対する発言も行っています。

――柳宗悦のマイノリティ擁護の原動力はなんだったのでしょうか。

自由主義や人道主義を思想的な背景にしていた白樺派以来、個の尊重や社会的弱者への偏見のない眼差し、武力に対する嫌悪感があったと思います。しかし、柳がマイノリティを擁護した具体的な動機は、何よりも美しいものを作っている人への尊敬の念があったからでしょう。調査や蒐集を行っている時に、国家が彼らに対して行っている抑圧を目の当たりにした。そしてその事実に直面したときに、黙っていることは許されないと感じたのだと思います。朝鮮時代に生まれた茶器などに対しては高い評価をしながら、それを作った人々を蔑むという矛盾に疑問を抱かずにいられなかったのでしょうね。

――当時は言論の規制も厳しかったと思いますが、その時代にそうした眼を持ち、実際に発言したというのはすごいですね。

そう思います。実際にこうした発言をしていた人はごく少数だと聞いています。柳の周囲にも特高が付きまとっていたといいますし、勇気のいる行為だったでしょうね。柳は貴族出身で、政治的影響力の強い血縁もいたから守られた立場だったという人もいますが、自分が守られた立場だから批判したということではないと思います。繰返しになりますが、美しいものを作る人々、自分が最も敬愛する人々が虐げられている様子が許せなかったのだと思います。

美は「生まれる」

――「民藝」という美の概念はかなり新しいものだったと思いますが、社会には広まったのでしょうか。

「民藝」という言葉を造ってから約90年が経ちますが、広がったとは言い難いですね。ただ、だからこそ民藝館の存在意義があると感じています。

民藝はアカデミックな美の世界では異端といえるでしょう。そもそも肩書や先入観で美を捉えることへのアンチテーゼの側面もあった。その捉え方の構造は今でも変わっていないと私は感じています。現在でも博物館や美術館に行けば柳たちが疑問を持った品ものが評価されていますし、制作者とか時代背景とか逸話ばかりが注目されています。美しいものを説明するためにそうした理由付けが必要なんだ、という意識が顕著なのではないでしょうか。結果としてその品ものを観じる契機が失われているように思います。

来館者で由来や用途を聞かれる方はよくいらっしゃいますね。それ自体は悪いことではないですが、「由来が何々だから」「用途が何々だから」そのものが美しいわけではないですし、それを知ったからといって美しさがわかるわけでもない。逆に知ってしまうと、純粋に美しいものとして観る妨げになるかもしれない。美しいものが成り立っている理由はさておき、だた「ああ美しいな」と感心する。それがとても大切だと思います。

――具体的に柳宗悦の美の概念とはどういったものなのでしょうか。

美術品と民藝品を比べますと、前者は天才が苦心して作ったもので、後者は一般の工人が「美しいものをつくろう」なんて意図はなく作ったものです。しかしそうしたものの中には、先に申したように天才の渾身の一作が遠く及ばないような美しい品ものもある。これはどうしたことなのか、という問いが柳の出発点であり、彼は生涯その問いを追及し続けたと言えるでしょう。その答として、晩年には集大成となる仏教美学という思想を展開しました。ご興味があれば、柳の著作『美の法門』などを是非読んでいただきたいと思います。

民藝の「美」とは、たとえれば「生まれた」ものと形容できると思います。あくまで実用品として使うためにただ黙々と作られている。「美」ということを意識せずに作られています。一方の美術品と呼ばれる作品の多くは「作られた」ものといえるでしょう。天才的な個人作家の「美しいものを作りたい」「自分を表現したい」という意図のもとに「作られた」作品。両者には大きな差があります。

柳の思想に共感し、民藝品の美に憧れた作家たちが制作したのが今回展示してある作品です。河井寛次郎や濱田庄司、芹沢銈介、棟方志功といったこれらの作者たちも、あくまで個人作家で、もちろんその作品をつくるにあたって作為はあります。しかし彼らは「作為的な美」が「生まれた美」に劣ることをよく承知していました。彼らにとって重要だったのは、その「美しいものを作りたい」という意識をどう乗り越えるかということだったと思います。

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呉須筒描花文茶碗 河井寛次郎 鐘渓窯 昭和時代 径13.7㎝(写真提供:日本民藝館)

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黄地松竹梅文着物 芹沢銈介 1933年 丈161.0㎝(写真提供:日本民藝館)

――意識を乗り越える、ですか。

一度「生まれた美」の美しさを知ってしまった彼らにとって、美を考える上でそれを意識しないというのは大変なことだったと思います。「自然な呼吸をしてみてください」と言われた途端に無心で呼吸が出来なくなって、不自然な呼吸になりますよね。それくらい人間の意識は行動に制限をかけるんです。もちろん意識は大きな原動力にもなって、すばらしいことを成し遂げる力にもなります。しかしその意識によって縛られ、できなくなることも間違いなくあるんですよ。

民藝運動の作家たちも、作品を作る上で、作為はもっています。「民藝のような美しいものを作りたい」という作為です。作為のない美を目指してものを作ろうとしたとき、すでにそれが作為になってしまうという矛盾。この矛盾をいかに克服するかが大きなテーマだったはずです。彼らにとって大切だったのは、知ってしまった美のあるべき姿、つまり民藝のような作品を作りたいという意識や意図を、いかに工夫して乗り越えていくかだったと思います。

それを行うのはとても難しいでしょう。しかし彼らは、その作為のない美を目指したのです。

――実は展示を見る時、柳宗悦が「直観」を大事にしていると聞いていたので、とても「直観」を意識していました。本当に「直観」でものを観れていたのか、自信がないです……。

本当に直観でものを見れているのかは難しい問題だと思います。私ももちろんそうですが、誰にとっても難しいと思いますよ。ただ、そうやって意識や作為を超えようとすることを意識したわけですよね。それはとても大事なことだと思います。そういう意識をしないと先入観は超えられない。やっぱり事柄で観てしまいますからね。

――民藝館の展示や陳列の構成を考える時も、そうした作為が混じりそうになったりしませんか。

私たちも当然、作為はあります。ですが、極力、作為をそぎ落とせるように努力はしています。何より「作為で展示してはいけない」という認識はしっかり持って構成をするようにしています。

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展示風景

――今後の民藝の役割についてはどうお考えですか?

美は社会の豊かさを測る指標にもなり得ると思います。柳の視点で美を見ると、その美の中には自然や風土や伝統など、人の力の及ばないさまざまな要素が絡み合っているのがわかります。そうした大きな力で「美しくさせられた」ものが生まれてくる。

考えてみればその通りです。たとえば、自分が焼物を作ったといっても、窯で焼く時は酸素や薪が必要です。さらに粘土を作ったのは誰なのか、釉薬を作ったのは誰なのか、そういう素材の起源を考えれば人間が作ったなんていうのはおこがましい話で、自然や風土、時間、環境や民族文化など、人間がどうこうできる範疇を超えた部分で、さまざまな要素が絡み合い、その品ものは美しくなっている。美しくさせられている。

逆に言えば、美しいものが存在しないというのは、そうした外の大きな力から切り離されているということです。

美を生み出す力は時代と共に衰えてきているように私には見えます。現代より江戸時代、江戸より桃山や室町、鎌倉時代に作られたものの方がより美しい。平安時代の作物は鎌倉のものの美しさよりさらに深いと思います。そして時代をさかのぼれば醜いものはあきらかに減少する。この観じ方に誤りがなければ、美しいものが生まれずらくなった現代とはいったい何なのでしょう。近代化という名のもとで飛躍的に便利な世の中になりました。しかし人間の暮らしは本当に豊かなのか。美を失ったのと同様、何か大切なものも失ってしまったように感じます。

東洋には論理ではなく、論理を超えたところで何かと向かい合う、西洋とは異なった文化が存在します。民藝もそうした捉え方のひとつであり、それは東洋だからこそ生まれてきた観点だと思います。柳自身もそうした意識を持っていて、民藝の概念を「西洋への贈り物」と表現しています。確かに論理的に考えることは重要なことですが、それだけでは限界もある。民藝という視点で美を観ることは、現代においてもこうした端緒を持っているのではないでしょうか。

民藝とは、平凡な茶碗や日用品が「美しくさせられている」ことを通じ、自然や外のさまざまな力のおかげで「我々が我々にさせられている」ことを思い返させてくれる存在だと思います。便利になっている現代の生活だからこそ、民藝という見地で我々のあり方を問い直す。そうした示唆を与えてくれる視座として、民藝を知っていただけたらと思っています。

――私も先入観なく「直観」でものを観る力を育てていきたいと思いました。月森さん、お忙しいところありがとうございました。

■展覧会情報

創設80周年特別展 柳宗悦と民藝運動の作家たち

会期:2017年1月8日(日)~3月26日(日)

会場:日本民藝館 全室

開館時:10:00-17:00(入館は16:30まで)

休館日:月曜(祝日の場合は開館し、翌日休館)

観覧料:一般 1,100円 大高生 600円 中小学生 200円

西館公開日(2/11、2/15、2/18、3/8、3/11、 3/15、3/18 入館は16:00まで)には映像「Leach、河井寛次郎、濱田庄司、柳宗悦司会座談会」を上映。

展覧会ホームページ

http://mingeikan.or.jp/events/special/201701.html

プロフィール

月森俊文日本民藝館職員

日本民藝館職員。武蔵野美術大学油絵学科卒業。これまでに「スリップウェアと西洋工芸」、「茶と美-柳宗悦の茶」、「文字の美-工芸的な文字の世界」、「美の法門-柳宗悦の美思想」などの展覧会を担当。

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