2018.02.15

最新の演劇シーンに密着――第62回岸田國士戯曲賞予想対談

山﨑健太(演劇研究・批評)×落雅季子(劇評家)

文化 #SYNODOS演劇事始#岸田國士戯曲賞

去る1月、第62回岸田國士戯曲賞(白水社主催)の候補作8作品が発表されました。一昨年、昨年に引き続き、演劇研究・批評の山崎健太さんと、劇評家の落雅季子さんによる対談をお届けします。

若手劇作家の奨励と育成を目的とし、新人の登竜門とされることから「演劇界の芥川賞」とも呼ばれる岸田戯曲賞。今年は複数回ノミネートされている作家も多く、たしかな力量を持つ8人が選ばれています。選考会および受賞作の発表は2月16日です。(構成/長瀬千雅)

演劇メディアを創刊

山﨑 昨年、『紙背』という演劇批評誌を個人で創刊しました。今回、岸田賞の最終候補作品の中にも『紙背』に掲載された作品が入っていて、西尾佳織『ヨブ呼んでるよ』が創刊号に、山本卓卓『その夜と友達』が三号に掲載されています。

 私も『ヨブ呼んでるよ』の批評を寄稿させていただきました。

山﨑 『紙背』は戯曲と批評を併催する雑誌で、現在、三号まで刊行されています。実は、刊行を思い立ったきっかけの一つがこの対談なんです。おととし、昨年とこの対談をして、複数の人から「戯曲を読んでいろいろ話す機会がもっとあってもいいよね」という反応をもらって。 

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山﨑健太さん

 はい、私もそのような声を聞きました。

山﨑 でも、そもそも戯曲を読むことのできる機会自体がそれほどない。

 賞を主催する白水社が、最終候補作品を期間限定でウェブ上で公開する取り組みをされていますが。

山﨑 読めるのはごく短い期間だし、そもそも候補になっていない戯曲はそこでは読めない。でも、演劇を見る人たちは最終候補作品のラインナップを見て「なんであの作品が入ってないんだ」「今年は絶対この作品だと思ったのに」とかいろいろ言うわけじゃないですか。俺だって思う。それで、批評家として自分が面白いと思っている作家の戯曲を集めた雑誌を作ることにしたんです。

 戯曲が掲載される媒体がないわけではないけれど、ごく限られていますからね。

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落雅季子さん

山﨑 劇団が自前で戯曲を販売していることはけっこうあるけど、そうすると基本的には公演会場に足を運んだ人しか戯曲を手に入れることができないし。戯曲というのは上演を見ていない人も読める状態にあってこそ意味のあるものだと思うんです。

 私も、昨年、『ガーデン・パーティ』という演劇人による文芸メールマガジンを創刊しました。それは、劇作家や演出家の言葉は戯曲、もしくは当日パンフレットでしか触れることができない場合がほとんどだから。演劇人に、作品以外のことを語ってもらう場をつくりたかった。

形は違えど、多様性が保たれていないとすぐれた作品は生まれないと思うので、時期を同じくしてお互いにプロジェクトを始めたというのは、似たような思いを持っていたのかなと思います。

山﨑 作家のチョイスは重なる部分もけっこうあって、その意味では、同じ対象に対して全く違う方向からアプローチしているということもできるかもしれません。

選考委員とノミネート作品

選考委員:岩松了、岡田利規、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、野田秀樹、平田オリザ、宮沢章夫(50音順)

第62回岸田國士戯曲賞最終候補作品一覧

http://www.hakusuisha.co.jp/news/n23242.html

糸井幸之介(いとい・ゆきのすけ)『瞬間光年』(上演台本)

神里雄大(かみさと・ゆうだい)『バルパライソの長い坂をくだる話』(上演台本)

サリngROCK(さりんぐろっく)『少年はニワトリと夢を見る』(上演台本)

西尾佳織(にしお・かおり)『ヨブ呼んでるよ』(『紙背』創刊号[二〇一七年五月]初出)

福原充則(ふくはら・みつのり)『あたらしいエクスプロージョン』(上演台本)

松村翔子(まつむら・しょうこ)『こしらえる』(上演台本)

山田由梨(やまだ・ゆり)『フィクション・シティー』(上演台本)

山本卓卓(やまもと・すぐる)『その夜と友達』(上演台本)

白水社による候補作品期間限定公開ページ https://yondemill.jp/labels/167
『バルパライソの長い坂道をくだる話』期間限定公開ページ https://note.mu/kamisatoy/n/na47dc93a9faf

受賞作を予想してみる

山﨑 昨年は二人とも上田誠さんの『来てけつかるべき新世界』を予想して、的中しました。

 選評を読んでも、異論はなかったようでしたね。

山﨑 今年もまずは予想からいってみましょう。せーの。

山﨑 山本卓卓さん/神里雄大さん。

 ……割れましたね。

山﨑 対抗は? 決まってる?

 決まってます。

山﨑 じゃあ対抗も発表しましょう。せーの。

山﨑 神里雄大さん/山本卓卓さん。

 あれ。

山﨑 そうなると思ってたけど、でも本命と対抗ではやはり違いますよね。神里さんを本命に予想したのは、戯曲そのものへの評価? それとも賞の予想として?

 戯曲としての評価です。でも予想としても当たってほしい。

山﨑 俺も神里さんの作品も悪くはないとは思ったけど、今回は山本さんが圧倒的だと思いました。ここが本命と対抗で分かれた理由かな。

 じゃあ、この2作品はあとでゆっくり語るとして、他の6作品から。

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糸井幸之介『瞬間光年』

あらすじ:

二人の孤独な宇宙飛行士がいる。彼らは宇宙空間を漂いながら、遥か遠くを目指し旅を続けている。そこへ差し挟まれる地球の人々の情景。ある男の昼下がりの妄想から、泳ぎ続けるスイマーX、親友を待つイギリスのナイスガイ、赤ちゃん型のロボットたち……彼らのひたむきな思いが溢れ出した瞬間、彼らはロケットとなり宇宙へ放たれる。さまざまな背景を持つ人間、生き物、アンドロイドたちはやがて星になり、宇宙で永遠の輝きを得る。だんだん地球から遠ざかる宇宙船の中の飛行士たちの会話が切なさを誘う、詩情に満ちた一作。(落)

■上演記録

FUKAIPRODUCE羽衣『瞬間光年』

作・演出・音楽:糸井幸之介

出演:深井順子、日髙啓介、キムユス、岡本陽介、浅川千絵(以上、FUKAIPRODUCE羽衣)、幸田尚子、石川朝日、飯田一期

2017年8月 東京・こまばアゴラ劇場

山﨑 羽衣/糸井版『わが星』(ままごと/柴幸男)ですよね。冒頭の「作品中、ずっと、秒針のようにリズムが続いている」というト書きもそうだし、上演もラップのようだったと聞きます。

 私は上演を観ていますが、同じように感じました。2009年に初演されてその年の岸田戯曲賞を受賞した『わが星』(http://www.mamagoto.org/drama.html)は、まさに私が、戯曲と上演の関係を考えるようになったきっかけの作品のひとつです。俳優が輪になってダンスのように動きながら、セリフをラップのリズムにのせる。作・演出の柴幸男さんは独自の演劇のかたちを作ったと思いますが、戯曲としては、上演のためのインストラクション(指示)であって他の上演を想定されていないのではないか、つまり戯曲とは言えないのではないか、という議論がありました。

『瞬間光年』も『わが星』と同じく、非常に音楽的な作品でした。糸井さんならではの音楽的節回しがあった。

山﨑 そこを戯曲として評価する?

 私がこの作品を良いと考えたのは、主婦スイマーXがプールで泳いでいたかと思うと、突然ロケットが発射されて宇宙に場面が転換したり、思い切り飛躍しているところ。演劇的想像力をかき立てられます。また、これまでの羽衣の作品だと明確に「歌」を歌う場面が多くありました。糸井さん作詞作曲による「生と死」や「愛」といったテーマの、人間くさくも愛おしい歌が、俳優によって歌われる。今回はそのような明確な「テーマソング」がなかった分、純粋に戯曲としての単独的な普遍性を感じます。

山﨑 愛と孤独を常に両輪で描く糸井さんですが、今回は孤独に比重が置かれています。人間は誰しも自らの人生の主役=スターだけど、広い宇宙から見れば無数の星の一つでしかない。その孤独を書いているところがすごくいいと思った。でも、その孤独を描くことを選んだがために、個々のエピソードがバラバラのままになってしまっている。一つ一つのエピソードが、無数の「孤独」を描くためのパーツでしかないように見えなくもない。戯曲の魅力である孤独の描き方が、そのまま瑕疵にもなってしまっていると感じました。

あと、終盤の徳川家康は……? 上演では突然出てきても気にならないのかもしれないけど。

 確かに上演では深井順子さんがこの役を演じていて、とてもチャーミングでパワフルでしたね。戯曲の中で家康は、江戸に幕府を開いた先の未来を想像しますよね。江戸幕府が終わって150年、人口爆発、大量破壊兵器、ウイルスによるパンデミック。地球で暮らせなくなった人類は宇宙へ!

山﨑 俯瞰する視点が入っているのはいいんですが、他が「主婦スイマー」とか「淀んだ空気」みたいな役名なのに徳川家康だけ固有名詞である必然性はどれくらいあるのかなあ。

 過去から未来へ貫通する視点を一気に魅せようとする時、市井のひとりの観点で語るよりも、歴史上の有名人物の時代から、彼の想像もしえない未来を一本の線で語るという方法は分かりやすかったのではないでしょうか。それを語るのが誰もがその功績を知る徳川家康であったというのは、説得力があったと言って差し支えないと思います。

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福原充則『あたらしいエクスプロージョン』

あらすじ:

時は第二次世界大戦直後。戦争で多くの同僚を失った映画監督・杵山と助監督・今岡は、焼け野原となった日本を立て直すため、また新しい時代の映画を撮るためにあの手この手で奮闘する。彼らが情熱を傾け、撮影しようとしているもの、それは「日本で最初のキスシーン」。娼婦の富美子を女優にスカウトし、貴重なカメラを所有する石王を説得し、撮影は順調に滑り出したかに見えたが、GHQの民間情報教育局、デビット・コンデが難癖をつけ、なかなか撮影の許可が降りない。そこへ月島右蔵という俳優らも日本で最初のキスシーンを撮影しようとしていることがわかり……?(落)

■上演記録

ベッド&メイキングス『あたらしいエクスプロージョン』

作・演出:福原充則

出演:八嶋智人、川島海荷、町田マリー、大鶴佐助、富岡晃一郎、山本亨

2017年8月 東京・浅草九劇

山﨑 残念ながら戯曲としてはあまり面白いとは思えませんでした。上演として観るのは楽しいのかもしれないとは思いましたが。

 私も、やはり面白いとは思えませんでした……。

山﨑 たとえば、この作品には「役者1」から「役者6」までが登場します。「役者1」が「杵山康茂」と「金剛地」を演じるなど、1人につき複数の役が指定されていますが、全てとは言いませんがほとんどの場面で役を兼ねることの意味があるようには思えません。早変わりだったり、場面とともに俳優が演じる人物も転換することの面白さは上演における趣向でしかない。

 この作品の題材は「映画」です。映画は、この作品で用いられている1人が複数の役を演じたり、瞬時に人物が入れ替わるような手法は使われにくいメディアですよね。それを逆手にとって、映画に材をとりつつ、演劇でしかできないことを詰め込んでいるとは思う。

山﨑 でも、映画についての演劇でしょ? そこで観客の目の前にあるのが演劇であることを強調することの意味は?

 登場人物の杵山ら、戦後の映画人たちがGHQの検閲や物不足などさまざまな困難を乗り越えて映画を撮るというストーリーですが、上演では、「劇中で撮られた映画」は実際には演じられず、観客に想像させるような上映シーンとしてつくられていたそうです。つまり映像に頼ることなく、観客の想像にゆだねている。映画がフィルムとして残る一方、演劇は残らない。だけど観客に想像させることができる……という対比をやりたかったのではないかと、読もうと思えば読める。

エピソードとしては、映画に前向きになっていく富美子と自分の身の程に引っ込んでしまうカスミという対照的な女性の友情など、よかったと思うところはいくつかありました。

山﨑 断片的にはたしかにいい場面はあったけど、それもそれぞれがいい場面だということにしかなっていない。映画を作るグループが2組出てくるのも、よくわからないです。作り始めること自体の困難と、作れたとしても検閲が入るという困難。両方を「効率的に」書くための方法でしかないように感じました。

タイトルはどういう意味でしょう? 「古い」エクスプロージョンは戦争だろうけど、「あたらしいエクスプロージョン」って? 映画は、芸術は爆発だということなのかな。

 「戦後の占領下で先が見えない時代に映画を作ろうとした人々の心の爆発」という解釈は?

山﨑 でも映画賛歌、芸術賛歌になっているわけでもない。どちらかと言うと、映画をダシに、人間のしたたかさを描いた作品のように思います。1人の俳優が複数役を演じることの面白みが上演で人間のしたたかさを描くことに寄与した可能性はある。でもやはり戯曲としては評価できません。

 福原さんは演出家でもあり、エンターテインメント性の高い演出をすることで知られています。そのライブ性も醍醐味のひとつではあるけれど、戯曲としてどう評価されるかは審査員の方々の判断も待ってみたいですね。

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松村翔子『こしらえる』

あらすじ:

舞台はフレンチレストラン。新人のアルバイトにシェフに店長、ベテランウェイトレスなど様々な人物が集う。どうやら、夏目というパティシエが数日前から姿を見せていないらしい。そんな中、シェフの磯部とウェイトレスの内山の不倫関係が、磯部の妻・幸枝にばれてしまう。幸枝は飼い猫がいなくなってしまったこともあり、心を病みかかっている。内山に幸枝が持ちかけたある「提案」とは? 詩的な台詞と、リアルな人間模様のコラージュに加え、ひとり舞台上に佇む「N」という存在が、物語にひそむ不穏さを煽る。(落)

■上演記録

無隣館若手自主企画vol.21 松村企画『こしらえる』

作・演出:松村翔子

出演:海津忠、島田桃依(以上、青年団)、岩井由紀子、南波圭、横田僚平、吉田庸(以上、無隣館)、井神沙恵、黒川武彦(以上、モメラス)、山縣太一

2017年2月 横浜・STスポット

山﨑 この作品の面白さはコラージュのような構成にあると思います。サスペンスで始まったものが急にコメディタッチになり、一方では熱血青春ものが始まっていて、不倫相手の女が妻のペットになるというシュールな展開も待っている。次々とジャンルが切り替わり、一人の観客としては次はどこに向かうのかわからないことに大きな快楽を感じました。

ジャンルだけでなく演技体にも同じことが言えます。上演では、現代口語演劇風のナチュラルな発話が急に劇画調になったりという形でもコラージュが形成されていました。

落 私は、山﨑くんの言う「どこに向かうのかわからない」感じに、戯曲を読んだだけでは説得されなかった。何かの問題に収斂してほしいと思ってしまったかな。岸田戯曲賞を受賞した作品は出版されて後世に残るわけなので、何らかのテーマ的な切実さのある作品が選ばれてほしいと思いますが、この作品にそういった切実さは感じられなかった。

山﨑 むしろその集中しないところがこの作品のいいところだと俺は思いました。我々の日常は、岸田賞の話をしている今この瞬間にも夕飯の買い物のことが気になって……というように、複数のことが同時に進行していますよね。その散漫さがきちんと成立する形で、というのは、観客を置いてきぼりにしない形で舞台に乗せられていた。その散漫さ、あるいは、ままならなさを観客の側の快楽へと転換してしまったところがこの作品の発明。読み物としてもそれに成功していると思います。上演と比べるとどうしても戯曲のほうが控えめに見えてしまうということはあるかもしれないけど。

もうひとつ、細かいところですが、上演ではN=男を演じる山縣さんがずっと舞台上にいて、多くの観客は彼をレストランの従業員の会話に登場する夏目さんだと思って見るわけです。ところが、途中からそうではなく、彼はシェフの妻の幸枝に飼われている猫のノラなのではないかという感じになってくる。次々とジャンルが切り替わるのと同じで、観客の側の認識の変化が面白いところだと思うのですが、戯曲で読むと冒頭に「N・・・・男」とはっきり書かれていて、これを読んでしまうとそういう認識の変化のようなものが起きづらい。これはもったいないと思いました。

 私、最後で『人形の家』だと気づきました。ウェイトレスの内山が、不倫相手の磯部の妻である幸枝に向かって、「幸枝さんにとって私はただのお人形だったのよ」「だから、ノラは家を出ます」と言うところ。

山﨑 ハイコンテクストな演劇ギャグに爆笑してしまいました。

 そんなにハイコンテクストかな。フェミニストとしては常識なので……(苦笑)。イプセンのノラは夫を捨てて家を出ていくとき、鍵を置いていくんです。それが女性の自立や主婦という役割からの解放を意味したわけですが、この戯曲で内山が置いていったのは首輪なんですね……。鍵以上に「拘束」の意味を表す小道具だとは思いますがそこからの問題提起を感じられませんでした。問題を提起しないことが目的だとも読めますが。

山﨑 畳みかけるように「ジェリクルキャッツだ!」(※編集注:人間に飼い馴らされることを拒否してしたたかに生きる猫、というミュージカル「CATS」を引用したネタ)というのも笑えます。ノラ=野良で日本語でしか成立しないギャグだけど、意味を考えてもよくできてる。

落 でも、この作品で『人形の家』がモチーフとして使われた理由は私にはわからなかったな。いなくなった飼い猫のノラの代わりに、内山が幸枝に飼われるとか、単なる夫婦間の問題に収めずに、19世紀以上に多様化している人間同士の関係が現代的に描かれているとは思いましたが、内山も幸枝も、女性の自立を獲得するわけではない。しかし、放り出された男たち–磯部、夏目などの寂しさや虚しさにかえって目が行くという点では新しいかもしれません。

山﨑 それはこの作品では一部でしかないんだよね。イプセンのノラはあくまで素材のひとつだと考えるべきだと思います。

落 じゃあ、いったい「N」とはなんだったのか。「N」のセリフに出てくるメフィストとはなんだったのか。上演を見た山﨑くんに聞きたい。

山﨑 そのわからなさが面白い、というか重要で、強いて言えば、自分が何であるということは決めつけなくていいし、ましてや他人が何であるかなんて一言で言うことは不可能だということなのではないかと思います。未知の面が次から次へと見えてくることはこんなにも面白いことなのだということが戯曲を通して体感される。

 Nは夏目であり、ノラであり、ノワール(黒)であり、”Nobody”であると私は解釈しました。そうした暗喩の鋭さは、今後の松村さんの作品にも期待したい部分です。

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山田由梨『フィクション・シティー』

あらすじ:

落ちぶれかけた小説家・園田は妻の藤子と二人で暮らしている。園田のアシスタント募集の広告を見てやってきた横山という女性は、何とか再び園田に小説を書かせようとする。大学生のカップル、物流会社で鬱屈している会社員たち、そして舞台上で何者にもなれないとある人物を配置することで、多様な人間の暮らしと、彼らにとっての「フィクション」の意味を問うている。(落)

■上演記録

贅沢貧乏『フィクション・シティー』

作・演出:山田由梨

出演:田島ゆみか、大竹このみ、神崎れな、猪俣三四郎、和田瑠子、野口卓磨、森準人、猪瀬青史、山田由梨

2017年8月 東京・東京芸術劇場 シアターイースト

山﨑 この作品は「俳優」と「社会の中で役割を引き受ける人間」とを重ね合わせています。登場人物のほとんどが自分が引き受けている「役」に対する苦しさを覚えている。その中で「役付かず」という「役」が出てきて、彼は社会から排除された存在のように描かれる。役に縛られることの苦しさと役割を与えてもらえないことの苦しさの双方を描いた作品だということが言えると思います。その点では松村翔子『こしらえる』と共通する部分もある。ただ、全体としてはそれに成功していないように感じました。

 冒頭に「観客に事前に配布する資料」と書かれているのは、これまで一軒家やアパートなど実際の建物を舞台にして体験型の演劇を作ってきた山田さんらしいなと思ったのですが、これ、配る必然性がないですよね。配布するまでもなく、映像で投影すれば済みます。観客を劇世界に引きずり込みたかったのだとしても、成功していない。

山﨑 この作品のテーマからすると、事前に観客を劇世界に引きずり込んでしまってはダメでしょう。作品の冒頭で「俳優」が「役」=登場人物になっていく場面があるのに、はじまる前から観客に役を割り振ってしまうのはうまくない。

もう一つ、この作品では平凡な人生の苦しさ、というようなこともテーマになっています。既存のフィクションと似たような人生を歩くしかないということ、それでもフィクションを書くこと、そうして書いたフィクションもそもそも借り物の言葉でしかあり得ないこと。あらゆるものがリサイクルでしかないことの苦しさはたしかに描かれていますが、そのような物語もまた、それ自体凡庸なものに過ぎないという点に最大の問題があるように思います。

落 他人がかつて描いた人生を生きるしかないというのは、泉が小説家の園田のところに、「私たちのことを小説に書いた!」と怒鳴り込んでくるエピソードがありましたね。

山﨑 あの場面の扱いによってはまた別の展開もあっただろうし、展開させるとしたらあそこからしかないとも思うんだけど、展開してしまったら苦しみのもとである凡庸さは失われてしまうかもしれないというアンビバレントがあります。

 確かに、あの場面にしか戯曲の跳躍の可能性はなかった。でも、するっと流してしまったことで失敗してしまいましたね。フィクションは誰かが生み出すものだけど、人は時にはフィクションを超えるような超劇的な体験をするかもしれない。じゃあその現実に追い越されたフィクションとはなんなのか。人生はノンフィクションなのか、ノンフィクションは本当に事実だけでできていてフィクション性はないのか。そうした深みのある問題意識がこの戯曲には見て取れませんでした。とにかく、全編が素朴すぎます。

山﨑 終わり方もよくない。最後に「役付かず」が、「ぼくはこの物語を離脱します。それでもここは壊れも、変わりもしなくて、そのまま続いていくかもしれません。(中略)みなさん、水をさしてしまっていたら、すいません。では失礼します。」と言って去りますが、この終わり方は成立していない。だって「物語を離脱します」と言うからには物語に入っていなければならないけど、物語に入っていないから「役付かず」なわけでしょう。役が付いている役者がこれを言って舞台を去るならわかりますが、そもそも作品の枠組みから外れたところに追いやられてしまった存在であるはずの「役付かず」に「枠組みから逃げ出します」みたいなことを言われても。排除されることと逃げ出すこととの間には明確な線を引くべきだと思います。

 もしかしたら「みなさん」は観客であり、何者でもない観客のみなさん、現実にお帰りくださいということかもしれないですね。

山﨑 観客に対しても、あなたたちも役割に縛られていないで早くそこから逃げ出したほうがいいですよと言っているのだとは思うのですが、一方で行ける場所なんてどこにもないということもこの作品は言っている。フィクションと絡めて複数の問題系を組み込んだ結果、それらが互いにバッティングしてしまっていると感じました。

落 素朴な作風が陳腐なエピソードの羅列に終始してしまった印象で、残念です。山田さんの今後に期待したいですが、より真剣に、演劇の「フィクションであること」「生身の人間が目の前で演じるリアリティがあること」を区別して考えていかないと、厳しいのではないかと感じてしまいます。ただ観客を巻き込んで、体験を共有するというだけでは太刀打ちできない壁があると思います。

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サリngROCK『少年はニワトリと夢を見る』

あらすじ:

幼なじみの村上くんとユキオは、二人で小説家を目指すと誓い合った仲。どこか暗くて狭い場所に閉じこもって小説を書き続ける村上くんを、数年おきに訪ねてくるユキオ。村上くんの話し相手は壁のしみ、そして謎の死神だ。年齢を重ねて、変わらず一心不乱に小説を書き続ける村上くんと、人生のステップを踏んで着実に変わっていくユキオとの対比が印象的な一作。村上くんがいる場所とは果たしてどこなのか? 二人の夢はどのような結末を迎えるのか?(落)

■上演記録

突劇金魚『少年はニワトリと夢を見る』

作・演出:サリngROCK

出演:山田まさゆき(突劇金魚)<ダブルキャスト>大塚宣幸(大阪バンガー帝国)、竹内宏樹(空間 悠々劇的)

2017年10月 東大阪・突劇金魚アトリエ

 これも小説家の人生が題材になっています。小説家というよりは、小説を書きたい2人の少年が辿る、人生の話。

山﨑 村上くんが置かれている状況が明らかになっていく線と、村上くんとユキオとの関係が明らかになっていく線の二つが並行して進んでいく点が巧いと思いました。村上くんは刑務所にいること、いつ執行されるかわからない刑を待っていることなどが作品が進むにつれて少しずつ明らかになっていく。と言っても、村上くんが殺人を犯してしまったらしいことは最初にはっきりと示されているので、刑務所にいるであろうことはほとんど最初からわかってしまうのですが。この点ははっきりとこの作品の失敗だと思います。ベタと言えばベタですが、そっちの線は囮のようなもので、平行してユキオに対する複雑な感情が見えてくるところが巧い。

同じ言葉を繰り返し使うことで、そのニュアンスが違って聞こえるように作っているところも巧いです。「それ(タバコ)、アカンで多分。」というセリフは、単純に健康に悪いとか、小説を書くのによくないというニュアンスで言っているんだと最初は思ったけど、刑務所の面会だからここで吸うことはできないという意味なんだよね。「生涯かけた作品」「自分で選んでんねんもん」というようななにげない言葉にも「自分が殺したんだ」というニュアンスが入っていることが、はっきりしてくる。

 2人の幼なじみの友情の話はよく描写されていると思います。村上くんにバカにされているように見えていたユキオが後年に小説を書いて賞を取ったという、関係性のひっくり返り方の面白みはうまいと思いました。ただ、村上くんの「小説家になりたい男」としてのキャラの造形がステレオタイプで深みに欠けると思った。体験したことしか書けない、まっとうに生きていく勇気を持てない、よりいっそう過激な体験を求めてしまう人間の話を読むのはつらかったですね。村上くんが人を刺す流れの描写もちょっとチープだと思ったかなあ。

山﨑 でもあの事件は陳腐でなければこの作品は成り立たないよね。特別なものになってしまったら、村上くんの小説は完成してしまう。

 エピソードの特別性というよりは、台詞の単語が安っぽく思えてしまったんです。もちろん、村上くんには最終的には小説の才能はないわけなので、安っぽい意味は成立していますが。

山﨑 ユキオの方はどうでしょう。死刑囚である村上くんに対して「命の危険に直面したときにしか命は輝かないんだって」と平気で言ってしまうところや、小説に全てを賭けている(と思いたい)村上くんに対して、本を出すことになったと屈託なく言ってしまうところなど、無邪気な残酷さを持つ人間として書かれているところはいいなと思いました。

 そう。後半になるにつれてユキオのキャラクターは魅力的になりますね!ブラックバイトにハマるどんくさい若者だったのに、起業して成功して、その会社をやめて友人のバーを手伝う生活に落ち着いて、40歳で作家デビューする。一件冴えないようでいて、きちんと表舞台を歩く人の持つ明るい残酷さが魅力的です。

山﨑 でも、その意味では俺はユキオのほうがベタだと思った。村上くんの変化のなさに対置する以上、ユキオは波瀾万丈な人生を送って変化するキャラクターにするしかないから、仕方がないと言えばそうだけど。

作品としては、誕生日のロウソクが寿命をカウントダウンする死神のそれへと反転して、「願い事を天に届かす」というケーキの上のロウソクから出る煙が、死刑を執行された村上くんの死、火葬の煙のイメージと重なるところに、悲しい希望のようなものが見えるラストにグッときました。「ニワトリ頭」や「文豪」のイメージも面白かったです。

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西尾佳織『ヨブ呼んでるよ』(『紙背』創刊号[二〇一七年五月]初出)

あらすじ:

引きこもりの希帆は、幼少の頃からたびたび夢に現れる謎の人物・たかをちゃんと会話をしている。彼女は働くことも育児も放棄して、ひたすら無気力に生きている。希帆の兄・金田や大家の美和子らはそんな希帆を叱咤激励するが、希帆はかたくなにそれを拒否する。そんなある日、うさんくさい台詞回しが印象的な金田の後輩・弥太郎は金田とたかをちゃんを連れてある場所へ向かう……。語る言葉を持ち、みずからの不幸に対して嘆きつくした旧約聖書の「ヨブ」と対比して、現代における「語る言葉を持たない者」の存在に焦点を当て、思索を深めた戯曲。(落)

■上演記録

鳥公園『ヨブ呼んでるよ』

作・演出:西尾佳織

出演:武井翔子(鳥公園)、浅井浩介、黒岩三佳(キリンバズウカ)、鳥島明(はえぎわ)、山科圭太

2017年3月 東京・こまばアゴラ劇場

 山﨑さん主宰の批評誌『紙背』にも劇評を書きましたので、今回はそこでは触れなかった点を述べたいと思います。これは、タイトルからもわかるように、旧約聖書の中の『ヨブ記』が下敷きになっています。ヨブは信仰心の篤い人ですが、神はさまざまな試練を与えてヨブの信仰を試します。西尾さんは、ヨブ記に題材を取ることで、人間がなぜ苦難に遭うのかという難しいテーマにチャレンジしたのだと理解しました。もっと踏み込める可能性があるので、受賞はしないだろうと感じましたが、大変考えさせられる作品でした。登場人物全員の境目が曖昧になり、誰と誰が重なり合うのかはぐらかされながら進む構成も魅力的でした。

山﨑 俺もこの作品が西尾さんのベストだとは思わないので本命にはあげませんでした。

 聖書と並んで参照されているのがハーマン・メルヴィルの短編小説『代書人バートルビー』と、それについてのジョルジョ・アガンベンの論文ですね。希帆が、兄の金田や大家の美和子ら、生活の立て直しを要求してくる人たちの言葉をかたくなに拒否する希帆の言葉は「せずにすめばありがたいのですが(I would prefer not to.)」というバートルビーの有名なセリフを引用しています。

山﨑 でも、この作品でそれを言うのは希帆ですよね。家賃の取り立てにきた大家に対して「そうしない方がいいのですが」と。

落 はい、災難にあっているのは希帆だから。子持ちで風俗嬢で引きこもりで太ってて汚い部屋で酒ばっかり飲んでという状況に対して「本気出せ」「何とかしろ」と周囲に怒られるけど、そうしないほうがいいと言って生きている。彼女は、労働を放棄するバートルビーと同じ姿勢を示します。

山﨑 じゃあ、希帆には本当は能力があるはずだということ?

 そうです。

山﨑 でも戯曲を読むとこういう挿入シーンがある。「劇を上演する者は、このシーンのための言葉(語る言葉を持たない者の言葉)を探すこと」。ここでいう「語る言葉を持たない者」というのは直接的には希帆を指しています。因果関係を指摘することは役には立たないということも言われている。だったら、自己責任論のように読み解くのはおかしいと俺は思います。

 希帆の状況は本人のせいだけではないと私も思っている。自己責任論ではなく、「することができる状態」と同時に「しないことができる状態」に有り続け、移行せずに留まり続けているのが希帆です。

山﨑 メルヴィルのバートルビーはやればできるけど、希帆はたぶんできないのでは?

 そこは疑問が残る。まったくできないとは思わない。育児も部屋を片付けることも、意図的に放棄していると思う。「労働する力」があると同時に「労働しない力」を体現している。

山﨑 でもそうさせているのは周りですよね。俺は「そうしない方がいいんですけど」という言葉は、そうさせられ続けてきたことに対する抵抗だと思う。自己責任と読むのであればこの作品はまったく評価できないです。

落 それに対して、希帆は消極的に抵抗する生き方を選択しているんだよね。

山﨑 あくまで選択させられている、と俺は言いたいです。

戯曲は虐待とか貧困の連鎖のような具体的な社会問題に関するものとしても読めるけど、「他者の言葉」や「語る言葉を持たない者」という方向にテーマを広げることも可能できます。

 本作は戯曲としても魅力があるし、問題意識も切実で興味深いです。希帆が、周囲から責め立てられる様子は、良い行いだけをしていたのに3人の友人たちから「お前は神に背いた報いで罰を受けている」と責められたヨブと同じ構図を感じました。しかし、積極的に神を信仰し続け、最終的に神からの言葉によって正しさを認められたヨブに対して、本作にはそうした大団円のような救いはありません。西尾さんが問いたかった「苦難を受けた時に人はどのような行動を取るのか」ということに答えを与えないという点では、『ヨブ記』の真逆を行くものです。そういう意味では、ひとつの教典である聖書をもとに、思考を深めた作品ではあると思います。

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神里雄大『バルパライソの長い坂をくだる話』(上演台本)

あらすじ:

父の遺骨を撒くために、母を連れて遠い場所へやってきた男1が語り始める。そのモノローグは彼の現在地から、かつて暮らした南米の土地、そこで出会ったヨーロッパ人、あるパラグアイ移民の個人史の回想などへ、なだらかに推移する。男1の母は、車から出てこず閉じこもっている。そこへ散骨の手伝いをすることになっている男2たちが現れ、語られる世界はさらにひろがりを見せる。「父の散骨」というモチーフと、雄弁な男たち、沈黙したまま動かない母の姿から、人類が地球を移動し旅をしてきた意味や、ひとつの場所でささやかに暮らし続ける意義を描写する。(落)

■上演記録

岡崎藝術座『バルパライソの長い坂をくだる話』

作・演出:神里雄大

出演:マルティン・チラ、マルティン・ピロヤンスキー、マリーナ・サルミエント、エドゥアルド・フクシマ

ドラマトゥルク:野村政之

翻訳:ゴンザロ・ロブレド

2017年10月 京都・京都芸術センター 講堂

 2016年10月から、神里さんは文化庁新進芸術家海外研修制度により、アルゼンチン・ブエノスアイレスに滞在されていました。そこでの創作の集大成とも言える戯曲がこの『バルパライソの長い坂をくだる話』です。

山﨑 神里さんも西尾さんとは別の形で「他者の言葉」に関心のある作家です。神里さんは今回のノミネートを受ける形で、「戯曲について考えること」という文章を発表しました。

そこで「演劇のいくつかあるだろう機能のうち、「誰かの言葉(あるいは出来事)を、べつの誰かが、誰かに伝える」という機能に、ぼくは重大な関心を持っている」と言っている。『バルパライソの坂をくだる話』は、多くの部分が他の人から聞いた話によって構成されています。

面白いのは、タイトルは「坂をくだる話」なのに、作中には坂をのぼる話ばかり出てくることです。では「くだる話」はどこからきているかと言えば、世代がくだっていくイメージなのではないでしょうか。坂をのぼった見晴らしのよい場所から景色を一望する、神の視点から歴史を俯瞰するのではなく、両親祖父母と連なる個々人がそれぞれに歴史を語り継いでいくことを描いた作品と読みました。

 この作品は、神里さんの持ち味である語彙の豊かさと、ある種のぞんざいさを損なわずに、うまくまとめられている。たとえば前回ノミネートされた『+51 アビアシオン, サンボルハ』では主人公の役名が「私」でしたが、今回は「男1」という客観的な登場人物が、父親の死という私的なエピソードを語っている。これにより、本作はたんなる私戯曲ではなく、客観性が担保されたものになっていると感じます。

また、一昨年候補になった時は選評でエピソードや言葉の取捨選択の甘さが指摘されていたけれど、この作品はその選択がきちんとなされていると思う。2年前に比べてさらに地球上の多くの場所を巡り、さまざまな土地にゆかりのある人と出会ったことによって、当時の野田秀樹さんの選評の言葉を借りるなら「書き捨てる」ことができるくらい、「他者の言葉」のモチーフがたまったと思うんです。

日本に暮らす私たちが知り得ないものを、神里さんは広く見聞きして、伝聞の形でモノローグを形成している。台詞はモノローグでありながら、観客に語りかけ、内なるダイアローグになりうる射程の広さを持っている。さまざまな大陸に住む人、文化が混じり合い醸成されていく中での人々の生活の中の言葉を挿入することで、七つの海と五つの大陸をつなごうとしていると思いました。

山﨑 俺はそこは逆だと思いました。そういう総合みたいなことはできないということを言っていると思う。さっき「くだる」に引っかけて個人が継ぐ歴史ということを言いましたが、歴史というのは本来、自分が聞き、語れる範囲でしか伝えることはできないという立場に立っているように感じました。

 それらの伝聞を戯曲というかたちで、五大陸を雑多なイメージのまま描くということを彼はやったのでは。それは、セクション2「五つの世界」というタイトルに明示的です。

ちなみにセクション1「青の世界」、セクション3「白の世界」というのは、アルゼンチンの国旗の色を示していると思われ、彼がアルゼンチン・ブエノスアイレスに軸足を置きながらこの戯曲を執筆した証になっていると思います。あちこちに話が飛躍しているようで、作家自身の軸足はブレておらず、それゆえに戯曲としての強靭さが感じられました。

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山﨑 そうすると葬送がモチーフになっていることはどう考える?  肉親の死が中心的なモチーフに置かれているのも、あくまで個人が継ぐ歴史、あるいは物語が作品の主眼だからだと思います。死者の肉体が生者を束縛することはできないしするべきではないけれども、生者が死者を思い出して語ることでそこに存在させることはできる。

平田オリザは『現代口語演劇のために』で、人はその場にいない人の話をするものだと言っていますが、それが違うかたちでリアライズされていると思いました。大きな話にするとすれば、ひとりの個人から遡っていくことでその背後にある人類史みたいなものがずるずると引きずり出される可能性みたいなものは感じました。

 そうですね。そのために神里さんの個人史だけでなく、パラグアイに移民してきたセニョール・ソノダのドイツ移民の話や、沖縄で遺骨の発掘をする男の話など、多様な個人史を連ねているのだと思います。それらを語る時の、人称の推移も巧みです。

山﨑 バルパライソとは天国、楽園ですよね。「楽園とは、きみ、なんだかわかるかね。要するに身売りをするっていうことだよ。自分の根拠を、ほかの人に移してしまう。(中略)死んだも同然だ。しかし、死のようなものこそすべて。ただ、楽園にいればいい。」と言う一方で、タイトルでは「バルパライソからくだる」、つまり「楽園から降りる」と言っているわけです。

登場人物の言葉をそのまま作者の言葉として読むことはできませんが、ここでは自分の根拠を他人に預けないことが必要だと言っているようにも読める。

 確かにそのとおりです。散骨というモチーフは、死後に自分の遺骨を他人に預けるということで、男1と女はその遺骨を結果的に持て余してしまっている。男2はそのことに不満を示す。死んだ父親から預けられた「遺骨」を軸に、もはや自身では語ることのできない死者の「根拠」をどう扱うかを描いていますね。

最終的に、男1は死んだ父の存在した「根拠」……つまり「遺骨」を撒きに行くという行為を、母とともに積極的に引き受けることにします。そこで、「楽園からくだる」、死にどのように向き合うか、私的な物語が完成したと私は読みました。神里さんの、これだけの知見が詰め込まれた作品が受賞して、本として出版されてほしいと私は思います。

山﨑 実は俺はこの作品では受賞してほしくない。野田秀樹は書き捨てろというけど、俺はむしろ作品の荒唐無稽な部分、奔放な言葉に神里さんの面白みを感じます。エネルギーと言ってもいい。もちろん、作家は様々なタイプの作品を書くものですが、好みとしては『イスラ!』や『アビアシオン』、『ブラックコーヒー』のほうが面白かった。大人しさが気に食わないと言ってもいいです。

 これは「戯曲賞」の予想なので、これまであえて上演については言及しない方針を取ってきましたが、本作についてはお伝えしておきたいことがあります。私はこれを京都で拝見しましたが、上演はスペイン語でおこなわれ、日本語の戯曲はスクリーンに投影される形だった。それは演出家として彼の取ったひとつの上演形態で、今後この膨大なモノローグで形成される戯曲が他の演出家によって上演されるのを観てみたいという素直な気持ちがあります。

ちなみにKYOTO EXPERIMENTには、子ども審査員という制度があり、子どもたちが複数演目を観て各作家に何かしらのオリジナルの賞を授与するのですが、今作は非常にユーモア溢れる場面があり、神里さんは子どもたちから「おもしろすぎてみんなで真似してしまったで賞」を授与されていました(笑)。そうした意味では、神里さんの荒唐無稽さは本作でも健在で、演出次第で如何ようにも面白くできる余地もあると私は思い、本命に推しました。

山本卓卓『その夜と友達』(上演台本)

あらすじ::

物語は田町の回想から始まる。夜という名の友人のこと、かつての恋人あんのこと。大学時代に出会い、かけがえのない時間を過ごした親友だったはずの田町と夜が、絶縁状態になるまでの事情が語られる。田町に、夜とあんの存在を思い出させたある「出来事」とは……。彼らが出会った2017年と、現在の田町が生きる2032年をシームレスに往来しながら、夜の不器用な愛と、それを理解しきれない田町の鈍感な感受性が浮き彫りになる。物語の鍵を握るあんの存在も見逃せない。時間と空間を戯曲上で操作しながら、われわれに訪れうる未来の「可能性」を探っている作品。(落)

■上演記録

範宙遊泳『その夜と友達』

作・演出:山本卓卓

出演:大橋一輝(範宙遊泳)、武谷公雄、名児耶ゆり

2017年8月 横浜・STスポット

山﨑 今回の候補作の中では山本さんの作品が圧倒的だと思いました。話の流れはシンプルです。かつて友人がゲイだと気付かず、カミングアウトされたときに傷付けてしまった。その後、疎遠になっていたその友人がある事件を起こします。それをきっかけに連絡をとって再会し、友情が復活する。ただのいい話として読むこともできるかもしれない。しかしこの作品は、傷付ける、傷付けられるという関係がギリギリのラインで書かれています。

過去のあやまちについては反省して修復することはできるけれど、未来にあやまちを犯す可能性をなくすことはできない。人を傷付けてしまう側からすると、自分があやまちを犯す可能性を認めつつ、それをよしとしないという引き裂かれた態度が要求される。

 性的マイノリティに限らず、人に対する鈍感さというテーマは一歩間違えれば目もあてられない無神経な戯曲になってしまう。そうではなくてすぐれた戯曲になっていると山﨑くんが評価するのはどういうところですか。

山﨑 鈍感だったことを反省して鈍感じゃなくなるというのはよくある話だと思うんですが、この作品は鈍感であることを引き受けるしかないということが描かれている。

自分が鈍感だということを受け入れるのはしんどいことです。排除の構造を浮き彫りにしたり、排除は良くないということを書く作家はそれなりにいるけれど、望まなくても無意識にそれをしてしまう、してしまっているかもしれないこと、そのときはその罪を受け入れるしかないということを書いている作家は俺の知る限り山本さんしかいません。

物語としては、友人を傷付けてしまった田町は最後まで自分の鈍感さに気づいていないところがあります。それでも、たとえ鈍感であっても田町は夜に寄り添おうとはしている。

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 私は、田町は鈍感だったけれども、夜の特別な友達ではあり続けたと思うんです。夜の側に立ってみると、田町の鈍感さに憧れる部分もあったかもしれない。

山本さんの作劇の特徴のひとつに、複数の時間軸を重ねることがありますが、その時間の単位が山本さんは独特なんです。劇作家が未来のことを考えようとすると人類が滅びた後とか、宇宙空間などに飛躍することが多いのですが、山本さんの未来は15年とか20年先の未来。ひとりの青年が中年になるぐらいのスパンなんです。つまり、ひとりの人間が一生の中でどう変わるのか、変わらないのか。どういう関係があり得たのか、あり得なかったのか。その可能性を描いている。

田町が夜と再会できたかどうか、戯曲はどちらとも受け取れるように書かれています。ただ、田町の「可能性って言葉はポジティブな意味で使われるべき」「あらゆる可能性がここにある」という言葉が伏線になって、作家はポジティブなエンディングに転がしたんだと私は読みました。

山﨑 山本さんは、時間には過去・現在・未来のすべてが同時に内包されているということを繰り返し描いてきました。「あらゆる可能性がここにある」というのはおそらくそういうことです。可能性に開かれた未来ともはや変えられない過去が今ここの現在には含みこまれている。今作では、SF的な設定をほとんど使わずにそのような時間のややこしさを描き切った点も評価したい。

 私もそれには同感です。時間性の不連続を戯曲で描きながら、劇場という空間で俳優と観客がほんの1時間半程度の時間を共有するという演劇ならではの構造を、最大限に生かした作品だと感じます。神里雄大さんの戯曲とは質感が異なるので、比較はしづらいですが、名作であることに疑いの余地はありません。

まとめ

 全作品について語りました。予想は変わりましたか?

山﨑 俺は変わらないです。

 私も、やはり神里さんが本命で変わりません。

山﨑 今年の候補作は比較的自分の守備範囲の作品が多かった印象です。新劇系やストレートプレイが1本もなかった。ただ、対談ということで言うと、知っている作品が多いと面白くないということがわかりました(笑)。普段見ないような作品があったほうが面白い。何が評価されているか考えるのが面白いので。

 他に入れるべき作品があったんじゃないかというのは、毎年思うことですね。

山﨑 ジエン社の『夜組』(作:山本健介)や、Qの派生ユニットであるこqの『地底妖精』(作:市原佐都子)。この二つはあげておきたいと思います。

 複数回ノミネートされている作家が多いのも今回の特徴かもしれません。その過去の作品をすべて見ているわけではないですが、作家たちの筆力が年々上がっているのは間違いないと思います。

▽白水社・岸田戯曲賞 サイト

http://www.hakusuisha.co.jp/news/n12020.html

▽関連サイト

FUKAIPRODUCE羽衣 https://www.fukaiproduce-hagoromo.net/

岡崎藝術座 http://okazaki-art-theatre.com/

突劇金魚 http://kinnngyo.com/

鳥公園 https://www.bird-park.com/

ベッド&メイキングス http://www.bedandmakings.com/

無隣館 https://www.murinkan.com/

贅沢貧乏 http://zeitakubinbou.com/

範宙遊泳 http://www.hanchuyuei.com/

プロフィール

山﨑健太演劇研究・批評

1983年生まれ。批評家、ドラマトゥルク。演劇批評誌『紙背』編集長。WEBマガジンartscapeでショートレビューを連載。他に「現代日本演劇のSF的諸相」(『S-Fマガジン』(早川書房)、2014年2月〜2017年2月)など。2019年からは演出家・俳優の橋本清とともにy/nとして舞台作品を発表。主な作品に『カミングアウトレッスン』(2020)、『セックス/ワーク/アート』(2021)。

artscape: http://artscape.jp/report/review/author/10141637_1838.html

Twitter: @yamakenta

この執筆者の記事

落雅季子劇評家・LittleSophy主宰

LittleSophy主宰。1983年東京生まれ。一橋大学法学部卒業。「CoRich!舞台芸術まつり!」2014、2016審査員。BricolaQ(http://bricolaq.com)にて毎月のおすすめ演劇コーナー(マンスリー・ブリコメンド)やインタビューのシリーズ(セルフ・ナラタージュ)を担当し、ドラマトゥルクとして遊歩型ツアープロジェクト『演劇クエスト』を各地で創作した後に、2017年に独立。演劇人による文芸メールマガジン「ガーデン・パーティ」(http://www.mag2.com/m/0001678567.html)編集長。戯曲と批評誌「紙背」などに寄稿。Twitter:@maki_co

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