2014.08.18

自由と幸福のリベラルアーツ――「ソルジャー」ではなく「よき市民」を

斉藤淳(『10歳から身につく、問い、考え、表現する力』)×浅羽祐樹

情報 #新刊インタビュー#リベラルアーツ#10歳から身につく、問い、考え、表現する力

7月に刊行されたJ PREP 斉藤塾代表の斉藤淳氏の『10歳から身につく、問い、考え、表現する力 ぼくがイェール大で学び、教えたいこと』(NHK出版新書)。一回限りの人生を後悔しないために、そして自由民主主義社会を支える「よき市民」となるために、いま必要とされる教育とはなにか? 比較政治学者・浅羽祐樹氏によるインタビューをお送りします。(構成/金子昂)

大切なのは「潰さない」こと

浅羽 本って、読み返すたびにグサリとくるところが違いますよね。だから、同じ本を何度でも手にとるわけですけど、今回、この部分がキタんです。

「人間の知的『創造力』には大きな可能性がありますが、同時にひとりの人間がめぐらすことのできる『想像力』には限界もあります。自分が直接経験しなかった痛みや喜びには、人間は恐ろしく鈍感なものです。言葉を学び、知識を身につけることは、文化や空間を超えて共感することのできる感受性を養うことであってほしいと思います」(p.214)(括弧による強調は引用者)

私たちの「そうぞう力」には可能性と限界の両方がある中、なんのために学ぶのか。自分の立身出世のためなのか。それとも、文化や空間、そして時間さえも超えるユニバーサルなコミュニティをつくっていくためなのか。英語教育だけでなく、リベラルアーツとはどういうことなのか、伺えればと思っています。

最初にお聞きしたいのは、タイトルに「10歳から」とありますが、その年代の子どもたちからの反響ってありましたか?

斉藤 10歳を上回る、10+30歳くらいの子どもからは反響をいただいています(笑)。もともと背伸びした10歳を意識して書いたんですよ。あとは、これから思春期に差し掛かって難しい時期を迎える、子育てに悩むことの多いであろう親御さんにも読んで欲しいと思っているんですよね。

浅羽 こう読まれると嬉しいってありますか?

斉藤 うーん、これから中学校に進む子が、何気なく入った図書館の本棚を横切ったときに「10歳」という文字を見て、「なんだろう?」と手に取ってくれることですかね。

浅羽 図書館って時空を超えてつながりますよね。まず空間を超えて、東京から酒田へ、新潟へ届く。そして5年後、10年後、時間も超えて手にする。10歳という身の回りにいる大人が親や学校の先生くらいのときに、図書館や本屋さんでたまたま手にとった本に出てくる人たちって、「あ、こんな人もいるんだ」「こんな考え方や感じ方もあるんだ」「こんなふうに生きてもいいんだ」って、それぞれ自分にとっての「今、ここ」を照らし出してくれます。

斉藤 そうそう。そういう意味では、いまはまだ書店で本を購入する親世代からの反応が一番多いですね。10歳からの反応はこれからだと思います。

浅羽 かつて酒田にいた頃の斉藤少年はどういう反応すると思いますか?「これから君は、アメリカの大学に留学したり、衆議院議員になったり、イェール大学で教えたりするけど、2014年には子どもたちに英語を教えているんだよ」って伝えたら。

斉藤 ありがた迷惑な気がしますねえ(笑)。やっぱり成果が出ることがわかっていなかったからこそ打ち込めたんだと思うんです。先のことを教えて欲しいような、欲しくないような気持ちがありました。だから子どもには、読んで欲しいような、欲しくないような気持ちがあるんですよ。

教育で難しいのは、「全部教えてしまうのはダメな先生」という性質があるところですよねえ。方向性を示すことすら、実は悪いことなのかもしれない。だからこの本には、自立のためのサバイバルスキルは書いたけれど、その後のヒントは、全部は書かないようにしました。

いま日本でも、教育についていろいろ議論されていますが、教育は人を育てるものと考えるのって傲慢だと思うんですよね。子どもは勝手に伸びていくものなんですよ。時間を忘れて熱中できるものがある子どもはたくさんいる。それを潰さないほうが大切なんです。ぼくがイェール大学で見てきた学生たちは、きっと世界各国で教育に潰されなかった子どもたちなんだと思いますね。

『10歳から身につく問い、考え、表現する力』書影

しなやかに学ぶ力

浅羽 なにが子どもたちを潰してしまっていると思いますか?

斉藤 東京に限って言えば、やっぱり中学入試は功罪両方みなければなりませんね。受験勉強も、漢字を覚えるなど基礎学力を付ける意味では重要な役割はあると思いますが、学習意欲をそぐような勉強をさせるのはよくないです。とはいえ、すべての子どもを学校に受け入れるわけにはいきませんから、試験で選別をしなくちゃいけないわけで、そういう意味では必要悪なところはあるんでしょうけどね。

浅羽 中学受験をしないような地方の場合はどうでしょうか?

斉藤 地方では別のかたちで問題はありますよね。例えば中学生だったら、部活動のせいで自由に放課後を使うことができなくて、特殊な才能や意欲があっても、それを伸ばす機会が奪われてしまう、とかね。

中学入試にせよ、部活動にせよ、なにか必要なスキルを限定して、集中して伸ばすという発想が問題なんだと思います。イェール大や東大など、教養教育を重視する大学は自分がなにをやりたいのかを模索する時期を設けていますが、小中学生なんて、なにが好きなのか自分でもまだわからない時期ですよね。そんなときに、内発的な学習意欲を信頼しないで、大人たちが特定の教科や競技を押し付け過ぎてしまうのはよくないと思いますよ。

浅羽 なんで今のような方法がとられているんでしょうね。

斉藤 最低限の能力を平均的につけるのであれば、今のやり方が合理的ではありますよね。

浅羽 途上国マインドで、全体を平均的に伸ばしていくスタイルが成功したせいで、もはやまったく違うステージに入っているにもかかわらず、あいかわらず成功体験を引きずってしまっている?

斉藤 それはあるでしょうね。Googleが自動車の自動操縦を開発したり、3Dプリンターが発明されたりすると、人間と機械の分業形態が変わっていくでしょう。今までは、想定している仕事に必要とされる体力や知識を最低限身に着けられる教育を行っていればよかったけれど、タクシーの運転手も、場合によっては学校の先生もいらなくなるような社会では、そんな教育は立ち行かなくなっていく。

浅羽 でも、次世代の教育プログラムを決めるのはシニア世代ですから、どうしたって時差が生じてしまいますし、そもそも30年後に適するプログラムを今全部完璧に組めるというのは傲慢ですよね。

斉藤 そうそう、予測しようとしてもできないでしょうね。だからこそ、自分で学んでいくたくましさや柔軟さ、しなやかさが必要になってくるんですよ。その基礎教育を培うのが教養教育なのだと思ってこの本を書いたんですね。

「平均的にデキる子」を育てる日本

浅羽 斉藤さんはコメ農家の長男ですけど、教育政策だけでなく、日本の公共政策全般に共通するダメな部分として、あらゆるものを「減反」してしまっているというのが持論ですよね。とりわけもっとも減反してはいけない頭脳を減反してしまったというのがこの本の教育行政学的なキモです(「教育は誰が統治しているんだろう?――教育を構造的に眺める 教育行政学者・村上祐介氏インタビュー」)。

斉藤 ええ、日本は伸びる子の能力や意欲を刈り取ってきてしまったんですよね。もうちょっと放置していたらいい感じに伸びたはずなのに……という子がたくさんいる。小学生に算数を教えている塾講師が言っていたのですが、「才能のある子が有名進学校に受験したら、ただ解法パターンを吸い込むだけの、普通の秀才で終わっちゃった」と話していて、そうだよな、と思いましたよ。

浅羽 そもそもなぜ減反政策を選んでしまったんですかね。平均的にならした総合点で順序づけるのではなくて、ひとつ尖ったものがあればいいと、なぜならなかったのか。性格は破たんしているけど、天才的なプログラマーである、とか。やはり途上国マインドが続いている?

斉藤 うーん、芝刈り機みたいになってしまった理由は今まで考えたことなかったですね……。

ただ、先に断っておきたいんですけど、別に日本の教育がすべて駄目で、アメリカが全部正しいみたいなことは思っていませんよ。

浅羽 識字率がほぼ100%で、誰もが字を読める国だってことがほとんど奇跡ですからね。

斉藤 そうなんですよ。新書というマーケットがあるのは、新書を読める人が一定数いるということで、そうじゃない国はたくさんあります。

浅羽 音楽室にはピアノがあって、鍵盤ハーモニカやリコーダーが弾けて、ヴィヴァルディの「春」を必ず一回は聴いている。こんな教育、世界中でも珍しいですよね。

斉藤 体育も素晴らしいです。基礎体力もつくし、いろいろな球技に触れることだってできる。

浅羽 韓国だと水泳も音楽も、大学受験に必要ないので、事実上教えていません。

斉藤 あとは掃除の時間もすごいことですよ。イェール大学で、掃除のやり方を知らない学生なんてざらにいますからね。雑巾の絞り方からガラスの吹き方まで、なんでも学べる日本の教育の素晴らしさもある。

とはいえ、芝刈り機のようにただ平均をそろえるという発想は、落ちこぼれを防ぐという意味では成果をあげてきたのだと思いますが、やっぱり弊害がかなりありますよね。もっと伸ばすべき才能を伸ばしてあげたり、家庭の裁量を認めてもいいんじゃないですかねえ。とはいっても、家庭の教育力について問題が指摘されるようになって久しい現実はありますけどね。

photo1

「違っててもいいよ」と言ってくれる大人がいてほしかった

斉藤 たぶん「受験は必要悪だよね」と割り切って真剣に取り組まなかった時代には、まだ好きなことを極める余裕があったんだと思うんですよね。例えば、ぼくのひとつ上の学年で、東大理三に現役合格した先輩は、学校の教科書は全部独学で先回りしてやってました。残った時間で好きなことをしていたという印象です。

浅羽 そういう中高生の家には、読む、読まないは別にして、大学で使われているようなテキストが何気なく本棚に置かれていて、手にとってパラパラめくってみたりしたんですか。

斉藤 うーん、どうなんだろう。

浅羽 斉藤さんは、山形県酒田市と自由が丘の両方で塾を開いているじゃないですか。ぼくも地方で少年時代を過ごしましたが、やっぱり都会に比べると、多様性といってもせいぜいボリュームの違いで、スケールそのものは同じだったりするわけですよ。そんな環境だと、手元にある度量衡だと想像もできないような世界に触れられるチャンスってなかなかありませんでした。

7歳のときに、大阪から金沢に引っ越したんですが、80年代当時、吉本興業もまだ東京に進出していなくって、大阪弁で本読みするとそれだけで笑われました。勉強しなくてもテストはいつも満点だし、家にはファミコンソフトが揃っていて、同級生が鍵盤ハーモニカをドから数えて演奏しているときにサラサラッと音符を読めたりして、かなりイジメられました。「男のくせにピアノかよ」とか。

その声に耐えられなくなって、結局、3歳から始めたピアノを10歳でやめてしまいました。今でも、あのまま続けていればよかったと引きずっているんですよね。親でも学校の先生でも塾の先生でも本の中の誰かでも、「別の小学校になら同じような男の子がいる」とか「高校では楽器ができる男子はむしろモテる」とか、別の参照項に出会っていれば、こっそり続けることができたと思うんです。でも、当時のぼくには、ピアノに関してはそういう大人が周りにいませんでした。

斉藤 ぼくも英語はそうでしたね。ネイティブほどではないけれど、綺麗な発音で読もうとすると、後ろからくすくす笑われてましたよ。

浅羽 ああ、日本語っぽく発音しなかったんですね。「アイ ドント スピーク イングリッシュ」みたいに。

斉藤 ぼくはやりませんでしたね。中学のときは別格扱いしてくれたので、許容されていたんですよ。むしろ高校にあがった途端に笑われましたねえ。

浅羽 今いるコミュニティでは孤立しているかもしれないし、すぐにはその場から離れられないかもしれないけれど、別の参照項があれば、とりあえずカッコにいれておくことができる。対象化できるだけでも、救われる気がするんです。数年我慢していれば、外のコミュニティに行けばって。悲しいかな、ピアノは……まあ、最近やり直してますけど……。

斉藤 あはは、そういうこともはっきり書けばよかったかなあ(笑)。

浅羽 子どもにとって、半径3メートルが自分の世界ですからね。別の参照項があるだけで希望になるんじゃないでしょうか。

「自由」に研究する楽しみから知性は育つ

浅羽 話を戻すと、気になるのは、どうして酒田から斉藤少年が生まれたのか、なんです。分布の様子や頻度は都会とは違っても、単に確率論的な外れ値なのか、それとも何か理由があったのか。

本書には斉藤さんが小学3年生のときに行った自由研究の話が出てきます。斉藤少年は誰に教えられるわけでもなく、仮説を立て、条件を揃えて比較をし、検証している。こういう手続きを踏めたのはなぜでしょう? 斉藤少年が酒田のラッキーな方の「外れ値」だったからなのではないですか?

斉藤 べつにぼくは普通の子どもだったんですよね。家に本なんてありませんでしたし……。でも今思い返してみると自由研究を頑張っている同級生って結構いませんでした? 浅羽さんも自由研究していますよね、きっと。

浅羽 まさに自由研究の取り組み方は斉藤さんと一緒でしたね。ぼくの場合も、夏に少しでも涼しい服はないのかという実践的な問いを立てて、コップの水にいろんな色をつけて、それぞれ日陰と日向、押し入れの中など条件を変えると温度がどう変化するかを観察しました。今考えてみると、誰に教わったわけでもないのに、なんとかしたい問題や問いがまずあって、その上で条件を変えながら比較するということを実践していました(「比べてみないと、相手も自分も、分からない――物差し同士も照らし合わせて 比較政治学者・浅羽祐樹氏インタビュー」)。

他にも、父が歯科医だからか、虫歯の研究もしました。今も虫歯で苦しんでるんですけど、砂糖をとればとるほど虫歯になりやすいという仮説を立てて、濃度を変えた砂糖水にチキンの骨を浸して腐食していく具合を比較しました。チキンの骨は人間の歯の代わりですけど、もちろん、当時は「代替変数」なんて言葉は知りませんでした。

斉藤 問いを設定して、問題を検証し、解決することの楽しさって特別なことではないと思うんですよね。でもそれを伸ばすような教育が残念ながら今はない。理科教育だって、実験を重視している先生がいるのは知っていますが、入試の主戦場となると暗記詰込み型ですよね。

学校で基礎的なことをやって夏休みは自由に研究する、みたいな余裕があったころはそれでもよかったのかもしれませんが、試験のカルチャーが浸透していくと、時間もキツキツで、自由研究やるくらいならドリルをやれ、と親も先生もいうようになってしまった。

浅羽 生徒にしろ、先生や親にしろ、入試制度に縛り付けられているんでしょうね。大学でも、今ある制度にだけ最適化した先生に教えられた学生が英語の先生になったら、TOEICの点数をあげるだけの授業をしてしまうという再生産が行われる……。生徒以上に先生こそが「小さな研究者」になれば、変わってくると思うんですけどね。

斉藤 イェール大学で教鞭をとっているとき、子どもは近くの公立学校に通っていました。世界各国から様々な子どもが集まる学校で、保護者もいろいろでした。サイエンティストの保護者も多いから授業へのフィードバックもある。そのためかその学校では、夏休みの自由研究のようなことを授業でしょっちゅうやらせるんですよ。子どもたちに仮説を与えて、検証をさせる。

本来はそういった知的変遷も辿らないといけないと思うんですよね。でも入試によって教室の運営スタイルが規定されてしまって、ごく一部のやり方でしか物事を学べなくなっている。ぼくは暗記詰込み型の授業が悪いとは思っていません。でも暗記詰込み型だけの授業はよくないと思う。

多様性に向き合わないリベラルアーツはない

浅羽 保護者のフィードバックで気になるのは、やっぱりどんなコミュニティにいるのか、つくっていくのかって決定的に重要だということです。お互いに「ポジ出し」する親が集まっていれば、コミュニティもメンバー一人ひとりも相乗効果でドンドンよくなっていく一方で、互いにdisり合い、妬みや羨みで足をひっぱるようなところでは負のスパイラルに陥ってしまいます。相互に信頼がベースなのか、不信感でいっぱいなのか、そもそも出発点が違う。

ぼくら二人がよく知っているお母さん編集者さんの話だと、先生に授業の方針などで何か質問するときは、先生を責めているわけじゃないとわかってもらうために、ものの言い方にすごく気を遣うそうなんです。仕事のときみたいに端的に論点を投げかけるような話し方だと、クレームつけられるんじゃないかと先生が身構えてしまうらしい。誰もがイェール大学のあるニューヘイブンにいるわけじゃないですから、なにがそこまで違うんですかね。

斉藤 うーん、日本の場合、学校と塾のダブルスクールが当たり前になってしまって、学校は生活指導の場になってしまっているのかもしれませんね。あと議論をするような文化的な条件がそもそも日本になかったのかもしれません。

というのも、日本って共有している価値観を前提にしてきたために、議論しないですむことが素晴らしいとされてきたように思うんですよね。これまで教育の現場で、なにが重要なのか、なにが幸せなのかという価値観の議論がされずにきたのもそう。

AO(Admissions Office)入試もだいぶ普及してきましたが、今のままでは十分に機能しないだろうと思っています。アメリカのAO入試って、あなたの人生で大切なものはなにかを問いかけ、分析させ、表現させるんですね。受験に必要な教科をただこなしていればいいとされて、価値観の議論をしてこなかった日本にはあわない。なぜ学ぶのか、そしてどういうときに喜びを感じるのか、まったく考えないですよね。

浅羽 日本でも、かつては共有しているとみんなが信じることができたことが崩れつつありますよね?

斉藤 そうですね。といっても「国際化がすすみ価値観が多様になるなかで、〈グローバル人材〉の必要性が声高に訴えられている」って話じゃなくて、日本の地域共同体が崩壊する中で、人々や家族の価値観が多様になっているってことだと思います。

浅羽 まだ移民が大量に入ってきたわけではないけれど、学力、収入、財産、価値観など日本社会が同じスケールでは測れないくらい多様になり、自明とされてきた前提がはがれてきている。そんなときに、いったい社会にとってなにが大切なのかという問いがますます切実になっているのに、そうされていない。

斉藤 そうそう。

浅羽 なのに、人気のテレビドラマとタイアップして道徳教育をするみたいな踏み込み方になってしまっている。価値観が多様であるという前提に立っていないですよね。

斉藤 多様な価値観であることを許したくない人って多いですよね。「きみはぼくと同じ価値観でないといけない」というのは、教養教育とは正反対の考え方です。

リベラルアーツは「自由に生きるための学問」だというのが、ぼくなりの訳です。現代においては、価値観の多様性にどうやって向かい合っていくかという基礎的な課題を経ずして、リベラルアーツ教育が成り立つわけがない。

浅羽 立場、主義主張、善悪、美醜、価値観、それぞれ異なるなかで、どちらが優れているかという競争をすると収拾のつかない、不毛な対立になってしまう。そうじゃなくて、バラバラな人たちが集まって社会をつくっていて、様々な課題に取り組んで、未来に繋げていく。そのためには、一定の手続きに基づかないと公の場では議論ができないし、社会がもたない。そのコミットメントを互いにどう了解するのか、ですよね。

その意味で、教育は決して私財ではなく公共財(public goods)そのもので、社会(republic)を成り立たせています。

幸福な生き方と民主主義を支えるもの

斉藤 どの社会にもリベラルアーツを好ましく思わない人はいます。そりゃあ、統治する側からしたら、めんどくさいし、邪魔ですからね。だから自由民主主義を維持するためには市民も理論武装する必要がある。

浅羽 本書の読みどころの一つ、「みんなの前で質問することはコミュニティへの貢献である」という話ですね。これはまさに自由民主主義体制の「自由」を誰がどのように支えるのか、という話です。

斉藤 ええ、そうですね。ぼくはイェール大学の他にも、リベラルアーツ大学と呼ばれるような小規模大学で2年ほど教鞭をとりましたが、そこで教えている先生たちは、問いかける力を重視しているんですね。ぼくも、「問い、考え、表現する力」のうちひとつを選ぶとしたら、「問い」を選びます。

リベラルアーツ大学って、実際には給料もよくないし、授業負担も大きいんです。先生たちは、民主主義社会を担う、よき市民をつくる作業に参加しているという自負があるから務めているんですね。

浅羽 1年前に経済学者の飯田泰之さんも交えて3人でトーク(「地方からの教育イノベーション」)したあとで、前任校の山口県立大学で同僚にこの話をしました。そうしたら、「地方にそのまま残った卒業生がお金を払って能や落語の公演に出かけたり、本を買うようになったとき、自分の教育成果を確認できる」と言っていました。

斉藤 そうそう! よくわかる。

浅羽 それこそNHK出版新書をはじめ教養新書は町の本屋さんにはあまり並んでなかったりするわけですが(苦笑)、本に身銭を切る(pay)よき市民がそこここにいることで、出版業界が持ちこたえて多様な意見が保たれ、それがめぐりめぐって自由な社会を成り立たせるのは、理に適うし、「私たちの」利益にもなる(pay)わけですよね。

斉藤 ええ、経済として循環させていく。講演を単にご高説ご拝聴するのではなく、手を挙げて質問をする。そういう卒業生を、ひとりふたりと増やしていくことが大切なんでしょうね。問いかける力がなければ、行政に対するチェックもできませんし。

浅羽 よき市民はどうすれば育てられる、育っていくと思いますか?

斉藤 イェール大学では、「人材を育てる」って言い方はしないんですよね。「リーダーを育てる」って言うんです。というのも、リーダーを育てようとして、せいぜい人材が育つくらいなんですよ。人材のなかからときどきリーダーが生まれる。最初から人材を育てようとしたら、ソルジャーになってしまう。「グローバル人材の育成」だって、企業にとっては、英語のできる兵隊が育つだけでしょうね。

ぼくの塾では子どもにプログラミングを教えようと思っていますが、プログラミング教育というのは、プログラマーを作りたくて教育するんじゃなくて、プログラマーがどんなプロセスをへてプログラミングするのか、その構造や原理を理解させるためにやるんですよね。プログラマーではなく、プログラムを発注するマネージャーを育てているわけです。民主主義もそうで、統治機構のやり方がわからなければ、よき市民は育たない。民主主義が機能するには、リーダー教育をしなくてはいけないんです。

じつは、ぼくは前著の『世界の非ネイティブ・エリートがやっている英語勉強法』(中経出版)で「エリート」という言葉を使っていますけど、本当は使いたくなかったんですよ。編集者が、「エリート」がつくと本が売れる、というので付けたんです。実際そうなりましたけど、これって手放しでは喜べなくて(苦笑)。エリートの素質を「イェール大学で教えていた」だとか「有名コンサルティング企業で働いてた」といった看板で判断している、浅はかな世の中だってことじゃないですか。

医者になりたいわけじゃないのに、優秀だということを示すためだけに医学部に進む、みたいな。そういうことが多すぎますよね。偏差値ランキングの高い大学に子どもを入れられれば、自分の遺伝子の優秀さが証明されるって考えている、いわば「劣化した優生学」にとらわれている人が多いんじゃないですかね。発想が貧困なんですよ。大切なのは、「子どもにとってどういう人生を送ることが幸せなのか」でしょう。そういう生き方に関する議論がまったくなされていない。これは本当に問題だと思います。

浅羽 偶有性に溢れた一回限りの人生ですから、振り返ってみると分かれ道はたくさんあったわけですよね。無限の「私」がありえた。ピアノを弾き続けているぼくだっていたわけですよ(笑)。それでも、いろいろ参照項を見ながら、自分で選んで決めた以上「それ」にコミットして、この「今、ここ」にいる。

斉藤 ええ、ぼくも小学校4年生のときに、算数につまずいていなかったら、理系の研究者になっていたかもしれない。

浅羽 03年の衆院選で負けていなければ、民主党政権で文部科学大臣になっていたかもしれませんよね(笑)。べつに今の自分を否定する必要はなくて、子どもたちに英語を教えている斉藤さんも正解だし、議員を続けている斉藤さんも、イェール大学で研究している斉藤さんだって、全部正解なんだと思うんです。でも人生における唯一の正解を想定してしまうと、一度つまずいただけで、軌道修正しにくくなってしまう。本当は、「どう転んでも正解だった」って後々で言えるはずです。まさに「正しく学ぶ方法と、自ら問うことを忘れなければ、君は何にだってなれるんだよ」(p.13)ですね。

斉藤 そうそう、子どもには好きなことがたくさんあって、そこには学びの種がいっぱいあると思うんですね。「そんなことをやっても仕方ない。受験には受からない」なんて切り捨てるんじゃなくて、なにが幸せなのかを問い、尊重しながら、学ぶことが大切なんです。それが幸福な生き方だし、民主主義を維持するためになによりも必要なんだということが、この本で伝わればいいですね。

プロフィール

浅羽祐樹比較政治学

新潟県立大学国際地域学部教授。北韓大学院大学校(韓国)招聘教授。早稲田大学韓国学研究所招聘研究員。専門は、比較政治学、韓国政治、国際関係論、日韓関係。1976年大阪府生まれ。立命館大学国際関係学部卒業。ソウル大学校社会科学大学政治学科博士課程修了。Ph. D(政治学)。九州大学韓国研究センター講師(研究機関研究員)、山口県立大学国際文化学部准教授などを経て現職。著書に、『戦後日韓関係史』(有斐閣、2017年、共著)、『だまされないための「韓国」』(講談社、2017年、共著)、『日韓政治制度比較』(慶應義塾大学出版会、2015年、共編著)、Japanese and Korean Politics: Alone and Apart from Each Other(Palgrave Macmillan, 2015, 共著)などがある。

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斉藤淳政治学

J Prep 斉藤塾代表。1969年山形県酒田市生まれ。山形県立酒田東高等学校卒業。上智大学外国語学部英語学科卒業(1993年)。エール大学大学院 政治学専攻博士課程修了、Ph D(2006年)。ウェズリアン大学客員助教授(2006-07年)、フランクリン・マーシャル大学助教授(2007-08年)を経てエール大助教授 (2008-12年)、高麗大学客員助教授(2009-11年)を歴任。これまで「日本政治」「国際政治学入門」「東アジアの国際関係」などの授業を英語 で担当した他、衆議院議員(2002-03年、山形4区)をつとめる。研究者としての専門分野は日本政治、比較政治経済学。主著『自民党長期政権の政治経済学』により第54回日経経済図書文化賞 (2011年)、第2回政策分析ネットワーク賞本賞(2012年)をそれぞれ受賞。近著に『世界の非ネイティブエリートがやっている英語勉強法』など。

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