2013.03.21

何のために学ぶのか、何のために考えるのか?

飯田泰之×finalvent(『考える生き方』著者)

情報 #新刊インタビュー

『考える生き方 空しさを希望に変えるために』(ダイヤモンド社)は、月間30万PVのアクセスを誇る「極東ブログ」と「finalventの日記」を主宰するアルファブロガーで、1日1冊の読書を30年以上もつづけているfinalvent氏の第1作。シノドス・マネジングディレクターで経済学者の飯田泰之が、大きな話題を呼んでいる処女作への想いを聞いた。(構成/乙丸益伸・編集集団 WawW ! Publishing、宮崎康二)

人生が与えてくれるものそのものを空っぽになって受け止めていい

飯田 『極東ブログ』で色々ぼくの本を取り上げていただきありがとうございます。いまでこそアベノミクスが盛り上がっていていますが、かつてはリフレ派の論客の議論を正面切って取り上げて下さる方はかなりかぎられていました。そんななかで、すでに3年前からリフレ政策に注目していたという点で、finalventさんにはとても興味を持っていたんですよ。

『考える生き方』はfinalventさんの処女作なわけですが、内容はかなり意外でした。もう少し理屈っぽい話が中心なのかと思ってましたから。読んでみたらほぼ正面切って人生論。もともとどういったきっかけで、こういった本を書こうと思われたのですか?

finalvent とくにブログで若い人の世界を見ていると、自分と似ているんじゃなかろうかという人を沢山見るんです。職が見つからないとか、派遣になったとか、会社でひどい目にあわされたとか。ぼくも皆さんと同じように、10年前か15年前かにそうした道を歩んできました。また、皆さん、なかなか結婚できないなといった悩みにも直面されています。ぼくもそうでした。現在の20代、30代の人が自分と似ている共通項部分があるだろうなと思ったのです。

そんなふうに、色々悩んできた人生だったんですが、自分はなんとかやってきたし、結婚もしたんです。これは多分偶然の出来事にすぎませんでしたし、偉いことでもなんでもないと思うんですけど、「アレっ」という感じがあったんですよ。その突然訪れた「アレっ」によって、今の自分は大きく変わってしまった。

なんていうんでしょう。ちょっと言い方をかえると、自分のように職が見つからずふらふらしていて、結婚もできないと思っている人であっても、「人生はこうあるべきだ」という世間の常識にあわせて、自らを縛り、必要以上に悲観する必要はないんじゃないか。もっと言えば、「人生が与えてくれるものそのものを空っぽになって受け止めていいんじゃないかな」ということを、40歳ぐらいになってから考えるようになりました。

自分の人生を振り返ると「なんか平凡だな、おれ」と思うんですけど、「平凡だな、おれ」というのは、多くの人が同じような経験をしているだろうなということです。そのなかで、30年くらいかけて見えてきたこと、考えてきたことを、ありのままに自分の内側から書いてみようかなと思いました。それによって本を読んでくれる方に、普通の人生って思いがけないことがあるし、考えればなんとか生きられる、ということを感じてもらえるのではないかと考えました。

自分の人生を見失ってしまわないために

飯田 この本の特徴は全部の章が断絶されているところ。全部の章が完全に繋がりを持っているわけではなく、各章それぞれに、それぞれの読み方もできる本だと思ったんですね。ぼくは「極東ブログ」や「finalventの日記」の熱心な読者とは決して言えないのですが、そんなこと全然問題じゃなくて、すーっと心のなかに文章が流れ込んできたという印象でした。Twitter上で「涙が止まらなくなった」という感想も数多く見ました。

そう考えた場合に、この本は各章それぞれに、それぞれの想いを込めてお書きになられた本だと思うのですが、あえて言っていただくとしたら、各章はどういった目的でお書きになられたものなのでしょうか。

finalvent そこまで深く読み取っていただきありがとうございます。たとえば最初の「社会に出て考えた」については、職を得るとはどういうことかというのを、この55年の人生を振り返って、自分が考えてきたことを書いてみたという部分になります。

社会人というのは職を得るわけですから、職を得るというのはどういうことかがこの章のテーマです。「職を得る」ということこそ、人生に非常に大きな影響を与えるものなのに、これこそ相当偶然的要素が高いものです。

だから、普通の人が、自分を社会的に実現しようとすると失敗する可能性が非常に高くなる。そうである以上は、自分の理想とする職業に就けなかったとしても、その誰もが抱えて生きているであろう、失敗した空しさというものを、市民倫理で補うかたちでもってやってっいったほうが、人生に納得できるというのがぼくの考え方です。この章では読者に職業を通した普通の市民の生き方ということを感じてもらえればと思って書いた部分です。

全体を通しては、本の副題にしている ――これは後からつけたのですが―― 「空しさを希望に変えるために」というテーマは念頭にありました。

普通の平凡な人生を55年間送ってきた自分が、何をどう考えて生きてきたかを描くことで、読んで下さる方に、「自分の人生を自分で了解し、どう自分の人生に希望の火を灯すか」「自分の人生を自分で理解しよう」と、あるいは「生きるということの使命」について考える場合のひとつのヒントにしていただけるのではないかと考えました。

自由七技芸 ――リベラル・アーツ―― を人生に取り込むということ

飯田 この本全体に通底しているテーマとしては、リベラルアーツ(一般教養)の重要性ということになるのでしょうか。

「リベラル・アーツ」は、奴隷の芸妓である「メカニカル・アーツ」(機械的技芸)の対義語で、自由市民の技芸だ。欧米の知識人は、「自由七学芸」として次のラテン語のフレーズで覚えさせられる。

 

Gram. loquitur, Dia. vera docet, Rhet. verba colorat. Mus. cadit, Ar. numerat, Geo. ponderat, Ast. colit astra(文法は語り、弁証は真理を教え、修辞は言葉を飾る 音楽は歌い、算術は数え、幾何は測り、天文は星を学ぶ)

 

リベラル・アーツを学んでも、仕事の面では一銭の得にならないかもしれない。しかし、人生や宇宙が見せる壮大なドラマを可能な限り堪能できるようになる。それが、自由に生きるということだ。どのような貧困も、若い日に培ったリベラル・アーツを奪うことはできない。

と書かれてのがすごく興味深かったです。

finalvent リベラル・アーツ ――一般教養―― というものの、世間での一番簡単な受け止め方ですが、とくに大学生に求めれているもので言えば、現代は、即効的な能力を求めすぎているように思います。伊賀泰代さんの『採用基準』(ダイヤモンド社)という本がよく読まれているようですが、その採用基準を満たすよう人材 ――human resources―― を生み出そうと。そのための育成期間が大学であるという面は当然必要で、各人それぞれがそういった能力を伸ばすのも当然に必要なことですが、それが通用するのはせいぜい40歳までだと思います。

この本にも書いたのですが、「後生畏るべし」と孔子が言っています。あれは古代人ですから現在の年齢の感じとはちょっと違うかもしれないですが、40歳くらいになると、自分より若い20代や30代に、ものすごい優れたやつがいるなというのが見えてきて、自分が追いやられていく。誰にもそういう時期がくると思うんですね。

そのころには大学で勉強したような知識や能力のようなものが、自分の人生のなかで、いわば賞味期限切れになる時期がきます。「後生畏るべし」という状況が必ず自分の人生に訪れるわけです。

そういう事態に直面したときに、それから生きていくにあたっての原動力というのが、リベラル・アーツであろうと思うのです。だから若い日の人生の基礎固めで必要なのは、老いを迎えて行くなかで、真の意味で、自分の意志で、自分の人生をかたちづくっていくときの、一番のつるはしを貰うのがリベラル・アーツであるという風に考えています。

飯田 たしかに、大学で学ぶことが役に立つか立たないかとか言い始めると、大学自体がいらないという話になりかねない。たとえばプログラマーをされていたからお分かりになると思うんですけど、プログラマーを即戦力として養成すれば、専門学校2年間でほどほどのところまではいけると思います。

finalvent できます。

飯田 そうやって促成栽培されてなったプログラマーさんって、30歳限界説が完全に当てはまる人になってしまうんじゃないかな。

finalvent そこが、30代、40代の、ちょうどロスジェネとよばれている人たちが現在直面している危機じゃないのかと思います。恐らく今、ロスジェネと呼ばれている人たちは、 ――日本経済自体はこれから持ちかえすかもしれないんですけど―― 、現状では成功というヴィジョンを思い描きづらい世の中になっていると思うんです。

恐らく、このままいけば、その大半がぼくと同じような生き方になる。そうすると自分の人生のなかで生きる意味を見つけていくには、遠回りのようだけど教養みたいなものがあるといいだろうなと。ただ教養というとちょっと上から目線のようで鼻につく感じがするかもしれませんが。

 大学で学ぶべきリベラル・アーツというものの真の姿

finalvent より具体的には、飯田先生のお話からすると ――学生の期間の話であれば―― 、まずは「『知』や『真理』に近いものに到達する手順」というものを大学で覚えておくといいと思いました。それが大学でまず学んでおくべきリベラル・アーツの真の姿であろうと。

簡単に言うと、分野は何でもいいんでしょうけど、現在の大学でひとつの分野の論文を徹底的に読む訓練をやっているのかなという疑問があります。論文やレポートには、レファレンス(=参考文献一覧)がありますよね。そのレファレンスを徹底して読むとか、レファレンスを自分で作成するとか、専門の辞書を引くとか、そういうなんか徒弟訓練みたいのを一分野でもいいからやっておけば、基本的に「学の構造」はどの分野も同じです。なのでその後も自分で勉強ができるわけです。とくにレファレンスを探っていけば、ちゃんとした知識に到達できる。

飯田 たしかに、何かの分野について勉強する場合に、参考文献をたどって、「この論文がこれの元だからこれを読んで……」という感覚で泥縄で知識をつけていくと、意外とその先の知識というものがわかったりしますよね。逆に経済学の教科書を丸暗記しても何の役にも立たない。もちろん公務員試験には受かるけど。

finalvent 「人生を豊かにする教養」というものと、「知に到達する基礎力」っていう意味での教養をぼくはわけて考えているのですが、「人生を豊かにする教養」という意味ではなく、いざというときに「知に到達する基礎力」という意味での教養も、大学のうちに身につけておくといいのではないかと思います。

いざというときというのは、たとえば司法に訴える事態が起きたから裁判をしなきゃいけないという場面や、難病にかかったから専門医を探さなきゃいけないという問題に直面したときに、学問の基礎でかなり対応できるということです。

文学の本当の力

finalvent 一方の「人生を豊かにする教養」という意味では、自分の専門分野だけに教養を縛るのではなく、literatures ――文学―― から得られる教養というものは、誰もが基礎としてもっておく必要があると思いますね。

飯田 それはなぜでしょうか。

finalvent ちょっと大げさですけど、人間的な苦悩というのを、30歳を過ぎたあたりから誰もが抱き出すものです。その人間的な苦悩っていうものに、人類はみんな直面してきて、なんらかのソリューション(解決法)を見だしてきたわけです。それが文学というかたちになってきたんで、古くさくて決して現代人にとって役立たないものではない。

文学というものは、30歳、40歳、さらに50歳になったときに、君が生きるのに必要なモノだよ、と先人が残してくれたものに違いない。そんな印象がありますね。

ですから若いときに分からなくても、なんとなく、「あっそっか。ここの道、こっちの道あったな」みたいに一定の年齢で思い出すといいです。今回の本も、ひとつの側面として、そういうもののひとつとして読んでいただきたいとも思いました。

現代だと、結局ぼくも含めてなのですが、皆さん、文学に対して、自分の人生に対する即物的な答えや楽しみを求めているケースが多いように思います。でも本来、文学というのはそういうものではない。もっとお腹にギリギリとくるものだし、本当に文学って面白いですよ。あなたがいつかトンでもない不倫を犯して友達を自殺に追い込むかもしれませんよ。そういう局面に追い込むことがあるかもしれませんよ。そういうものを描いているものが文学です。

そういう意味では、文学から得られる教養というものは、人生へのヒントにはたしかになりえるものです。が、もちろん、エンターテイメントというかたちでも読めるものです。それによって楽しむこともできますよと。

教養を得れば「世界の構造すら完全に可視になる」

飯田 さっきのお話で面白かったのが、「人生を豊かにする教養」と「知に到達する基礎力としての教養」は違うという話です。その「知に到達する基礎力」という意味での教養というのは何のことなのでしょう。

finalvent  こういう言い方していいのかわからないんですけど、知識・知というものは、ある程度のレベルに達すれば、アメリカの学会が握っているということが見えてくるようになります。

ここまで言うと割り切りすぎなんですけど ――アメリカの学会が学問の動向を握っていて―― 、主流のスクール(=学)が存在していて、そのスクールのなかでどういう構造になっているかがわかるようになる。で、そこから生まれた知から権力が発生している。その「知」というものがちゃんと世界を支配しているんです。もう少し分かりやすく言えば、知識が世界を方向づけているということです。

これを陰謀論としてとらえられると困るのですけど、たとえば軍事という側面で見ても、知のスクールのなかから系統立てて戦略が組み立てられています。それは知識が世界を方向づけているという意味です。

経済学も医学の世界でもちゃんとそうなっています。そして一定の学問の手順を踏めば、その「知」に誰でも、可能性としては到達できるようになっている。きちんと大学レベルの知識があれば、世界の成り立ちを裏づける知識が見える。その知識が公開されているというのが、民主主義なんですよ。

民主主義というのはあなたに基礎知識があれば、ちゃんと最高峰の学識の上に登れますよと。いや、そこまで登れないのならば、登った人を信頼できますよということです。

学問が信頼できるというのは、まさに大学レベルの知識の成果ということです。民主主義国の知識というのは、そういう構造になっている。これは誰にも知っておいて欲しいんです。ちょっと偉そうになるんですが、この基礎感覚をもっていない人が多いように思える。

飯田 自分の教養を高めることによって、世界の構造は見えるようになると。

finalvent はい、世界の構造は可視です。非常に明瞭に視ることができる。

そして、その基礎は、学問に対する信頼が市民にあるということです。たとえば、アメリカがすごいなと思うのは、リーマン・ショックの後、バーナンキ(アメリカの中央銀行であるFRBの現議長)がちょっと采配を間違えたら、世界経済は吹っ飛んでたと思うんです。あのリーマン・ショックの後 ――この件に関してニューズウィークで論評を読んだんですけど―― 、バーナンキはQE1~QE4(FRBによる大規模量的緩和政策第一弾~第四弾)を実行に移す前ですが、「金融政策でバズーカを打つ」と示唆していました。バーナンキがそれを米国政府に示唆していなければ、次の週が開けたときに世界経済は存在していないかもしれないという状況でした。

そしてバーナンキが「バズーカを打つんだ」と一言言ったら、どんなにそれまでバーナンキに反対してた人たちでも「わかりました」ってなる。わかりましたっていうのは、彼の経済学の知識を信頼するということです。つまり、バーナンキに象徴される経済学の知識に対する信頼が、アメリカには確固たるものとしてあるんですね。だからアメリカはリーマン・ショックで大打撃を受けた後も、今なお力強い回復期を迎えている。

それで今ようやくアベノミクスによって、そういった経済学の知識が日本でも受け入れられつつあるのですが、ではどうしてリーマン・ショック後の、本当に日本経済に対して重要な局面だったときに、「なんで米国の金融政策がきちんと日本で伝えられないんだろうと」不思議に思いながら見ていました。この例は経済に関してなんですけど。

教養を得れば「知」を正しく疑うことができるようになる

finalvent このことは、学問や知識に対する信頼がもてるという言い方をしていいと思います。つまり勉強した人は知識を信頼することができる。逆に言えば、個人でも各種の知識を正しく疑うことができる。ということです。

そのことを強烈に感じたのは、例の3.11で、福1原発の問題が浮上してきたときは、まさにそんな感じでした。日本の情報が錯綜していてほとんど信じられなかった。だから、あのときはワシントンポストとかニューズウィークとかを当たって、「あっ、すごくスッキリしているな」と思ったものです。NRC(=原子力規制委員会)が状況報告や対応指針の資料を出しているんですよね。

そのなかで決定的な資料がリークされていたので、ブログにも載せましたが( http://bit.ly/10VFwvl )、「あっ、すごいや」と思って。ちゃんと壊れた原発の収拾手順まで書いて出してるんですよ。

そういったところから「知」を得ていれば、その「知」を使って、現実がどう動いているかとの距離感を見ることが可能になり、現実がどこに向かっているかがかなり正確に見えるようになってきます。

飯田 それを知れば今、現状がどれだけ悪いか、どのくらい正しいのかというのがわかるから、パニックになる必要はないですね。

finalvent 「ああ、政府はいまめちゃくちゃなことをやっているなー」という姿が淡々と見えるようになる。たしかにおっしゃる通り、「本来あるべきこと」と現実との距離感が可視化されることで、社会がパニックを起こしているときでも、自分の身の振り方を冷静に考えられるようになります。

飯田 原発の例でも経済政策の話でも、たしかに海外の雑誌や情報を読んでいると、日本と世界のモノの見方がいかに違うかということに気づくことができますよね。

finalvent ファイナンシャル・タイムズが日本経済をどう見ているかを8年くらい見ていれば、たとえばアベノミクスの話で言えば、「あっ、やっと日本の現実が世界の金融政策に追いつてきたな」ということを外野から自然に眺めることができます。ファイナンシャル・タイムズは、2008年頃には明確に、「日銀は、Unconventionalな(慣例に囚われない)金融緩和を行え」と言っていました。

でも、なぜか日本のメディアを通すと、そうした主張は消えてしまいます。フィナンシャル・タイムズが日本には規制緩和が必要だというと、それは記事に出てきますが、なぜか金融緩和は出てこない。逆に言うと、日本に入ってくるときに特定の情報が消されているというのが ――こう言ってはいけないのかもしれませんが―― 面白くも見えてくる。

飯田 その意味で、「世界の構造は可視である」とおっしゃられているわけですね。「知に到達する教養」を身につける場合、その「知」がどういう道筋を辿ってそこに登っていったか ――成立しているのか―― という部分まで見えていなければいけない。実際、勉強している人自身がそこに登るかはわからないけど、どうやったら、または何を努力すると登れるのかを知っているというのが、ある意味、知の基礎力であると。

finalvent はい、そういうものを明示的に書いたわけではないのですが、物語のなかから読者それぞれの方が感じ取ってくださればうれしく思います。

人生というものを屏風絵のように描きたかった

飯田 全体を通しての感想で言えば、たとえば、結婚の部分なんかが淡々と描かれているのがすごく面白かった。盛り上がらせる気ゼロだな、と、ある意味山場にもなりうるところなのに、そこはスルーなんだ……という(笑)

しかも突然、お子さんが産まれてというきっかけはあれど、ずっと東京で仕事してきて沖縄に移住するのは大決断ですよね。ここでも「大決断をした!」みたいな書き方ではなくて、なんとなく「フワっと沖縄に住んでしまいました」みたいな書き方がおかしいなと。あれは結構、意識して淡々とお書きになった?

finalvent はい、日本絵の屏風絵ってありますよね。端的に言えば屏風絵のような本を書きたかったんです。屏風絵っていろんなところがあるんですけど、全体としてはひとつの屏風絵というような本にしたいと思っていて。

飯田 たしかに、屏風絵って、どこが中心でどこが盛り上がってるってわけでもないですものね、なんだかペタっとしている。でもそれはなぜですか?

finalvent みなさん読者は読者でそれぞれの年齢でいらっしゃると思うんですよ。その年齢を相対化してほしいなと。つまり20の人、30の人、40の人、55の人が読むその人が、等距離に読めるような感覚にしたかったというのはあります。屏風絵を前にして、あ、ここは面白い、この人は自分に似ている、という風に。あれです、『ウォーリーをさがせ!』みたいに読んでいただきたかったのです。

飯田 ウォーリー(笑) つまり、すべての箇所を予見を持たずに等しく読んでほしいと。

finalvent それがただ読者ターゲットを広くするというのではなくて、人生のかたちのようなものが、それぞれの年齢で、それぞれの年齢の見え方として見え始めてくるわけですよね。歳を重ねれば重ねるほどに、人生が屏風絵のように見えてくる。ですから、人生は屏風絵ですよという感覚のようなものを描き出したかったということになります。

ちょっとどう説明すればいいのか難しいのですけど、そこに描かれているのは普通の人生なんだ……、逆に言うと普通の人生なんてつまらないんじゃいかと言われるんですけど、本当は普通の人生のほうが重要なんだと。

普通の人生を生きるのって結構大変なんですよ。そして大変な人生を生きていくなかで、文学や思想の課題といった陰の部分というものがどうしても生まれてくるんですね。自分はどうしてこういう風に生きてきたんだと、人生のほうが自分に問いかけてくる。

いろんな人の生き方のなかに何か普遍的なものがあるに違いない。なにか、人生という道といったニュアンスのようなが、誰の人生にもあるわけです。一見つまらない「自分語り」のようでも、その普遍的なものに近づけたいなと。

だから考えるということは、いろんな人がいろんな生き方があるんだけども、そのなかで普遍を受け取ることだ。でも、そういうと堅くなってしまうので、そこはできるだけくだいて、できるかぎり読みやすく書けたらと思いました。

飲み屋で隣に座っているおじさんのような本

finalvent 「琥珀色の戯言」さんが、「普通の人の普通の人生を読めるって面白いな」って言ってくれて(http://bit.ly/16s1GFQ)、それはうまく言い当ててくれたなと思いました。

現在のメディア、あるいは現在のネットの世界でも、案外、普通の人の普通の人生というのもが見えづらくなっているんじゃないかなと思っています。昔だったら、近所のおじさんやおばさんとかから、人間臭い生の人生の話とか冒険譚みたいな話を濃く聞けたと思うんですけど、今はなかなか聞けなくて。その部分をメディアが補ってしまっているわけですが、メディアはメディアで面白おかしく創り話にしてしまう。ネタをつくるというかですね。

そうしたネタ重視の動向に、「いや違うぞ。人生の味わいというのは、もうちょっと違うぞ」みたいな思いがあります。むしろ、この本は、飲み屋でおっさんが横で語っているような感じで受け取っていただけるとうれしいなと思います。

飯田 あー、飲み屋の隣のおじさんというのは面白いたとえですね。本当にリアルな部分だけを滔々と話してくる人ですよね(笑)。

finalvent そういう風にしたいと思った。もっというと、市民生活に密着した思想というものがあれば、そんな飲み屋のおしゃべりのようなかたちをしているはずだ、という思いがあり、なるべく文章を柔らかくしたいし、酒場の話くらいにしたい。それから女性に通じる話にしたい。実際40代以降の女性にも読んでいただけて、ホッとしています。

飯田 ありがとうございます。大量の読書が背景にあることがよくわかる、含蓄あるお話がすごく興味深かったです。それではつづきはご飯を食べながら聞かせて下さい(笑)。

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今回のインタビューで取り上げた『考える生き方』(ダイヤモンド社)は、その「まえがき」と「(本には書かれなかった)あとがき」が、ダイヤモンドオンライン上で公開されています。ぜひこちらもこのインタビュー記事とあわせてお読み下さい。

『考える生き方』まえがき ―― 空っぽな人生を生きてきた;http://bit.ly/10MnJGE

『考える生き方』(本には書かれなかった)あとがき ―― 空っぽな人生を書いてみた;http://bit.ly/12P0xJg

プロフィール

飯田泰之マクロ経済学

1975年東京生まれ。エコノミスト、明治大学准教授、シノドスマネージング・ディレクター、財務省財務総合政策研究所上席客員研究員。東京大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。著書は『経済は損得で理解しろ!』(エンターブレイン)、『ゼミナール 経済政策入門』(共著、日本経済新聞社)、『歴史が教えるマネーの理論』(ダイヤモンド社)、『ダメな議論』(ちくま新書)、『ゼロから学ぶ経済政策』(角川Oneテーマ21)、『脱貧困の経済学』(共著、ちくま文庫)など多数。

この執筆者の記事

finalvent書評家 / 随筆家 / アルファブロガー

書評家・随筆家・アルファブロガー(2004年アルファブロガー・アワード)。ペンネームの由来は子どもと見ていた仮面ライダーの必殺ワザから。1日1冊のペースで読む読書を30年以上つづけている。関心分野は、哲学・思想・文学・歴史など文系領域から生物学・物理学など理系領域まで。1957年生まれ。国際基督教大学卒業。同大学院進学。専攻・言語学。情報技術や最新医療の解説なども得意とする。デジタルコンテンツのための配信プラットフォーム「cakes(ケイクス)」で、文学書などの書評も連載中。

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