2012.07.13

日本財団の笹川陽平会長(73)が6月11日、外務省からの委嘱を受ける形で「ミャンマー少数民族福祉向上大使」に就任した(http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/24/6/0611_05.html)。 日本財団はこれまで、ペルー、カンボジア、スリランカ、ベトナムなどで少数民族が多く居住する紛争地域での支援を実施してきた。ミャンマーにおいては、軍政時代から「辺境」のシャン州やアラカン(ラカイン)州などで、学校建設やマイクロファイナンスなどの援助プログラムを続けてきた。今後は教育・医療・農業の3分野を中心に、日本政府(外務省)と連携してミャンマー国民の生活向上と民族和解に向けた取り組みを展開していく予定だ。

2011年3月にミャンマーは民政に移管し、長きにわたる軍事政権統治は歴史的な「変化」の局面をむかえた。テインセイン大統領が率いる新政権、そして民主化運動のリーダーであるアウンサンスーチー氏の動向は、国際的な注目を集めている。一方で、中央政府の括弧つきの「変化」のゆくえに、少数民族問題や紛争の傷が大きな影を落としている。(構成/宮崎直子)

笹川陽平氏(左)と大野更紗氏(右)

構造化されるミャンマーの「宗教紛争」

大野 ミャンマーの人口は約5500万人ですが、その70%近くは最大多数派のビルマ族が占めます。そのほかの約30%は、カチン、カレン、シャン、ラカインなどの非ビルマ族である少数民族の人びとです。

宗教的には、ビルマの人口の約85%は上座仏教を信仰しているとされ、日本のメディアで紹介される際も「ミャンマーは仏教国」であるというような切り口が多いように思います。実情は多様で、それぞれ5%ほどのキリスト教徒、ムスリム、精霊信仰など、複雑な様相を呈しています。長期の軍政下、正確な国勢調査が行われなかったため、実態把握はほとんどできていない地域もあります。

「宗教」は紛争の要因の1つであり、すべてではありません。「宗教の対立」であるという一面的な言説は、現在進行形の民族紛争の要因を単純化し、対立を構造化し、更なる出口のない泥仕合へと人びとを巻き込んでしまうパワーがあります。

ASEAN地域は、戦後における旧植民地としての自己像からの脱却という苦闘を経つつ、国内政治では、権威的な体制が直近まで維持されてきました。「開発独裁」と呼ばれるような状況は、現地の住民にとっては、いまだ生傷癒えぬ「最近の出来事」です。ミャンマーの民族紛争が、歴史として整理されるには今後長い時間がかかります。

急激な「変化」

大野 「民政移管」をすることは、その成立が「弾圧」である軍事政権にとり、自らの正当性を確保するきわめて重要な政治的課題でした。

今ミャンマーは、民主化にむけた「変化」のただ中にあります。アウンサンスーチーさんが軍事政権と戦略的な和解をしています。和解は、歴史的な連続性の中では、政治的妥協の産物です。

1988年に、1962年から26年間にわたったネウィン独裁体制に対する国民の不満が爆発します。アウンサンスーチーさんは偶然その時、実母の看病を目的に英国からミャンマーに帰国していました。ミャンマー独立の父、アウンサン将軍の娘である彼女が民主化運動の指導者として颯爽と登場したのは、この年です。しかし同年に民主化は弾圧され、クーデターにより国軍統治体制が発足します。

この際、ヤンゴンの街頭では、国軍が民主化を求める市民に向けて無差別発砲と水平射撃を行いました。1988年の武力弾圧だけでも、犠牲者は数千人とも言われます。これまで国軍は、実弾を自国民に向け続けてきました。それは揺るぎない事実であり、ミャンマーの街中の、一見すると穏やかで何事もない生活風景の背後には、何層にもわたる深い相互不信や恐怖感があります。

つい先日、アウンサンスーチーさんが1988年以来ぶりに、ミャンマーから出国して、イギリス生活時代の母校であるオックスフォードを再訪している報道を目にしました。ほんの1年半ほど前まで、ミャンマーに関わる者にとり、このような光景は想像もし難いことでした。

『ビルマVJ』という、デンマーク人のドキュメンタリー監督、アンダース・オステルガルドが作った映画があります。ぜひ予告編だけでも、ウェブサイトで観ていただければと思いますが、この映画が公開されたのは2009年です。2007年の民主化蜂起も、2008年のサイクロンの惨禍も、ミャンマーの市井の人たちにとってはつい最近の出来事です。

2010年11月には民主化運動のシンボルであるアウンサンスーチーさんの3度目の自宅軟禁(自宅軟禁の期間は通算14年9か月)を解除しました。それまで彼女は「政治囚」でした。

笹川さんは昨年末にヤンゴンまで行かれ、スーチーさんと直接お話しておられますね。どのようなお話をされたのですか。

アウンサンスーチーと面談する笹川氏

笹川 私はチェコのハベル前大統領と一緒に、「フォーラム2000」という国際会議をチェコで16年続けて開催してきました。政治家、学者、文化人などが集まって世界的な課題について議論をする会議です。

ご承知のようにハベルは、「ビロード革命」という無血民主革命を成功した、ヨーロッパでは劇作家としても有名な文化人でもあります。政治的な虐待を受けている人びとに対する、ハベルのシンパシーというのは大変強いんですね。スーチーさんについても、毎年、会議への招待状を出し、出席者名簿にも名前をずっと書いてきた。私が「出席しない人を出席者名簿に書くのはおかしいんじゃないですか」とお聞きすると、「いや、彼女を人々に忘れさせないために、出席者としていつも書き続けているんだ」ということをおっしゃっていました。そうしたところに、彼の強い意志を感じましたね。

ハベルは実際に、あらゆる面でスーチーさんの活動をサポートしていました。来年こそは彼女に会議に出席していただこうと、私はハベルから書簡を預かり、スーチーさんにそれを届けるためにヤンゴンに向かったんです。その書簡を渡す前日に、ハベルは亡くなってしまった。

そうした経緯があるものですから、スーチーさんの数ある友人の中でも、ハベルは心の友といいますか。彼女とお会いした時も、ハベルからの激励に対する感謝の言葉を口にされ、またアウンサン将軍のことや、少数民族問題に関してお話をされていました。少数民族の生活レベルを向上させる、あるいは少数民族との民族統一ができなかったらミャンマーの発展はないと。もちろん、このことはスーチーさんだけではなく、ミャンマーのテインセイン大統領も同じように考えています。

大野 個人的に、ミャンマーには思い入れがあります。大学院では、東南アジアの地域研究を専攻する学生でした。院生としては落第点そのもので、「研究していた」と言うのははばかれますが。少数民族と国軍部隊が衝突する前線に近い難民キャンプにも、入っていました。

今ミャンマーは、「最後のフロンティア」のように語られることが多いですね。この「フロンティア」が意味するのは、製造業の拠点として、あるいは新規投資先としてのミャンマーです。

旧首都ヤンゴンや新首都ネーピードー周辺では、長期停滞してきた経済状況が改善されることへの期待は大きい。

ですが、多民族国家としてのミャンマーが抱える課題は、一般的に思われているよりかなり深刻です。軍政時代の公称では少数民族は約130とも言われてきました。日本では信じられないような多様な言語と、人々と、それぞれの歴史があるわけです。イギリスと日本による植民地統治以前からの、土着の文脈もある。

私は少数民族についても、もう少し関心をもってもらえたらいいなと思っています。政治体制の質的変換に、必要不可欠なことであるからです。

テインセイン大統領(左)と談笑する笹川氏

人道支援とファクトファインディング

大野 日本財団のプロジェクトでは、公衆衛生の向上を支援するかたちで、日本が先んじて入っていくとのことですが、これは画期的な試みではないかと思います。支援対象地域にはアラカン(ラカイン)州が含まれていますね。

笹川 もうラカインははじまります。今ちょうど抗争中で報道がありましたが、あそこには小学校を100校作る予定です。

大野 アラカン(ラカイン)州の人たちにとって、この事業は非常に重い意味があるのではないかなと思います。アラカン(ラカイン)州というのはバングラデシュに隣接する国境地域です。

タイ側にあるシャン州やカチン州とは異なり、アクセスが難しいためアラカン(ラカイン)の紛争は一般にはこれまでほとんど認識もされてきませんでしたが、ミャンマー国内において、現在最も深刻な民族問題ではないかと思っています。

どのくらい状況が混み入っているかというと、まずミャンマー国内全体でインドやバングラデシュなどの西側から移動してきた人たちに対する反発感情があり、加えて反ムスリム感情があります。

「ラカイン」という呼び方は、かつてのラカイン王国からきており、ラカイン-中央という文脈があります。さらにアラカン(ラカイン)州の中でのラカインと非ラカインの対立軸もある。

よく、ミャンマー問題では地名の呼称が論争になりますが、この地域を「アラカン」と呼ぶか「ラカイン」と呼ぶかということひとつとっても、そこで「どちら側についているのか」という判断が生じてしまうような状況があります。

バングラデシュとの国境沿いの難民キャンプや、ロヒンジャに対する差別の問題もあります(参考記事:synodos journal 対ミャンマーODA再開と二重為替問題——チャット高とアジアの激変 https://synodos.jp/international/1521)。何か事件が一つ起こると、現地から凄惨な映像や写真がどんどん流れてきます。国内の人たち同士だけでは、紛争解決には難しい面があるとずっと感じてきました。

保健衛生向上のようなかたちで外部の人間が入ることによって、同時にファクトファインディングが進むとともに、紛争問題がもたらす緊張が緩和する可能性があるかもしれません。それは、そのNGOや事業体が、長期的視野と問題意識を持っているかどうかにかかっています。

2004年12月末に、スマトラ島沖で大地震と大津波が起きました。インドネシアでは特に、スマトラ島の最西端に位置するアチェ州が甚大な被害を受けました。これ以前のアチェ州は、外国人の立ち入りをインドネシア政府が厳しく制限する紛争地域でした。しかし、被害のあまりの巨大さに、立ち入り制限が解除されて国際援助が流入してきたことで、状況は一変します。

諸外国の国際NGOがどんどん入ってきました。この援助の流入がアチェ州に与えたインパクトは大きく、結果として、それ以前は誰も予想すらしなかった自由アチェ運動(GAM)とインドネシア政府との間での、和平合意が実現しました。

先日、アラカン(ラカイン)州で事件(*1)があり報道もされました。どのような政治的な、あるいは歴史的な文脈にせよ、その人たちの生をどう支えるかという仕事については、誰かが答えなければならない。日本のアクターが政府のオファーを受けてこの地域に入っていくということは、アラカン(ラカイン)州での民族対立にどのようなアプローチを取るのかと言う点で、否応なしに国際的に注目されます。

アラカン(ラカイン)州はバングラデシュとの国境に面しています。ミャンマーとバングラデシュの国境が確定したのは、1966年です。両国の国境沿いにナフ河という川があって、そこに難民キャンプがあります。タイ側と同じように、バングラデシュ側にも難民キャンプがあります。その多くはロヒンジャと呼ばれるムスリムです。この緊張状態をまず緩和する、という問題意識をもった外部者が入っていくことには、ロヒンジャの人たちにとって特に大きな意義があると思います。

(*1)アラカン(ラカイン)州で5月28日、仏教徒の女性がムスリムの3人の男性にレイプ・殺害された事件を契機に、この地域で民族間の衝突が激化している。6月下旬段階で死者は80人以上、避難民は9万人以上と報じられている。

民主化に少数民族支援は不可欠

笹川 日本は「ミャンマーを民主化せよ」と、ずっと声をあげてきました。そう発言する以上は行動をともなわなければいけません。もちろん、ミャンマーが自国でやらなければならないことはたくさんあります。特にこれからは経済援助を各国から求めなければいけないのですから、インフラや外国からの投資を受け入れるための法律の整備など、近代国家、民主的国家に脱皮するためにやらなければならない問題が山積しています。

そうした問題はおそらく時間が経てば、徐々に解決していくでしょう。しかし辺境の地に住む少数民族は、ご承知のように、電気も何もないところにいまだに生活しているわけです。民主化されて国がよくなると思っていたけれども、我々のところには何の影響もないということでは問題です。ヤンゴンやネーピードーなどのビルマ族を中心とした地域では、工場ができて人が雇われたり、給料がもらえるようになったりと、大きな変化が出てくる一方で、少数民族が民主化の果実、平和の配当を受けるには相当時間がかかるでしょう。

少数民族を無視した、ビルマ族だけのミャンマーなのかという不満が、民主化によっていろんなかたちで顕在化する恐れがあります。民族統一するからこそミャンマーの発展があるという考え方は、今のテインセイン大統領もアウンサンスーチーさんも基本的には変わらない。しかし、そのためには、少数民族の問題、彼らがため込んでいる不満を解決していかなければなりません。

欧米も今、ミャンマーに対する援助や投資することを考えています。しかし、石油、天然ガスや石炭を掘りたい、発電所や道路を援助したい等々、華やかなことばかりに目がいっています。しかし、民主化のなかで最も注目しなければいけないのは、やはり少数民族問題に対するきちっとした政策を政府が打ち出せるかどうかということなのです。

村人の手で、持続可能な学校づくりを

笹川 そこで何が大切かというと、欧米を含め日本もそうですが、財界人が表に出て投資することは大いに結構です。しかし、それと同時に、少数民族に対して具体的な果実を与えていかないといけません。私たちは少数民族を中心に、まずは教育・人材の養成に力を入れていきます。教育を受けなかったら、工場で働くことすらできないわけですから。反政府であろうがゲリラであろうが、自分の子供の教育現場を破壊したという例は世界にありません。

シャン州では、これまで200の学校の校舎建設を応援してきました。今後はさらにラカイン州を加え、両州でそれぞれ100校を追加、今後5年間で累計400校の校舎建設を計画、他の少数民族地域にも拡大する予定です。

ただ、村人の熱意がないところではつくりません。たとえばシャン州では、村人が協議に参加して、どこに建てるかということをはじめにみんなで決めます。そして、学校経営を維持していくために何ができるか? ということまで、私たちは彼らに問いかけます。学校の先生には給料を与えなければいけませんし、施設を修復するため費用も確保しなければいけません。

彼らは養豚や養鶏を行い、あるいは小さな滝があるので、そこにドラム缶を並べて発電機をつくり村に電気を通します。電気といっても薄暗いんですよ。ぼーっとつく程度ですが、お灯明のかわりになるわけです。そうすると、毎日仏様をおがむために買っていたろうそく代がいらなくなります。それを全部学校に寄付します。

あるいは、湖の近くにある村に学校を建てたときには、ボートを買ってリースし、観光客からのお金で経営を維持していきます。このように200のすべての学校が、村人の協力をえて、彼らのユニークでサステナブルなアイデアと労働でもって、建設・運営されています。従来の西側の援助というのは、地図を広げて、こことここに、という具合に学校つくって、それで終わりでした。でも、我々はそうではなく、学校はあなた方の子供たちのものですよということまできちんと理解させてやっているわけです。

我々はこれまでも、東南アジアの援助はすべてそのやり方でやってきました。大事なのは「学校」ではなく「人」をつくることです。学校は人をつくるための道具にすぎません。人をつくるには、学校をつくったあともずっとフォローしていかなければならないのです。

私は政治も宗教も一切かかわりません。真に「コミュニティの開発」「人道への援助」に焦点をあわせています。ただ、ラカインは現在、民族対立で抗争がはじまっていますが、いずれは指導者同士の対話をきちんと成立させたいと思っています。

小学校建設に関わるミャンマーの子供たち

伝統医薬品を活用

大野 教育の他に、医療・農業分野でも支援を拡大される予定ですね。

笹川 医療については、安価で安全性の高い伝統医薬品を使った富山の「置き薬」事業を実施しています。2014年末までに、全国の医療過疎地域、2万8千カ村に薬箱を配置し、またそのための原材料となる薬草の栽培指導を、カイン州、モン州、シャン州、カチン州などで行い、収穫物の全量をミャンマー保健省が購入する計画です。

この事業は、10年以上もWHOと協議して小さくはじめてきたものです。西洋の大製薬会社と闘うにはどうしたらいいのかをずっと考えてきました。彼らから、そんな薬は効かないとか、品質の管理ができていないとかいわれてしまうわけです。しかし、ほとんどの病気は熱、下痢などからはじまりますが、その場合は伝統医薬品できちんと治せるんですね。私も日本で風邪を引いたときはルルなんて飲みません、葛根湯です。

また、水田地帯のいいところはみんなビルマ族が押さえてしまっている一方、少数民族は山の中で生活しています。彼らの農業の生産性をあげるためにも薬草の栽培はとても適しているのです。ODA(政府開発援助)は麻薬撲滅のためにソバ栽培事業を進めて、結果大失敗に終わりましたが、当然のことだったと思います。麻薬なら道なき道を買いに来る人はいますけど、ソバをわざわざ買いにくる人はいませんよね。

大野 たしかに、そうです。

笹川 最終的には、置き薬をミャンマーの6万5千のすべての村に配置します。すでに7000カ所以上に配りました。私は現場主義者ですので、必ず現場を見てまわりますが、ミャンマーの村は医者がいないところがほとんどです。その代わり昔看護師やお産婆をしていたという女性がいて、その人たちを集めて我々は講習会を開いています。

彼女たちは村人と話し合いのすえ、貧しい家にはただで薬を配布し、裕福な家が彼らの分を負担するというような管理方法をとることに決めました。私はこれをミャンマー方式と呼んでいますが、それを聞いたとき大変感心しました。まさにサステナブルなやり方だと思うからです。

他にも、ミャンマー医師会や保健省と話し合い、近代的な診療バスを定期的に巡回させるといったような、僻地住民のための医療サービスの実施や、民族紛争で傷を負った、地雷被害者などに対する義足装着の支援事業も準備しています。

ミャンマーの伝統医療支援

ヤンゴンの民主化と同じスピートで

大野 中央政府と辺境地域では、政治的にも物理的にも大きなタイムラグがあります。いまだいわゆる近代的な生活とは程遠い地域もあれば、旧首都ヤンゴンや新首都ネーピードーなどでは凄まじい速度で開発や投資が進みます。

先日、ヤンゴンに100円ショップが進出しているのを見て、隔世の念を覚えました。民政移管前は、アメリカと欧州の経済制裁の影響でクレジットカードは一切使えないようなところでした。

笹川 日本人は想像できないと思いますね。

大野 そんな想像もできないような環境の中に突然、彼らからすれば非常に異質な、外資のマシーンが上からドーンと入ってくる。言わずもがな、コミュニティは分断されてしまいますよね。

笹川 その通りです。しかし、私たちはそれとはまったく異なります。あくまでも持続可能性を重視して、少数民族に対する心づかいを忘れないようにしています。

ヤンゴンの民主化と少数民族との間に時間差がうまれて、少数民族が「自分たちは冷遇されている」という印象をもたないように、私たちは活動していく必要があります。「自分たちの世代はだめだったけれども、子供たちは学校に行けるようになったし、将来はヤンゴンの大学に行けるかもしれない」というような夢と希望を、民主化と同じスピードでもって少数民族に与えていかなければいけないのです。

これをJICA(国際協力機構)がやろうとすれば資金があっても最低2年はかかります。一方、我々は決断すればすぐに実行にうつせます。少数民族の中にも民主化の果実が出てきたということを彼らに実感させることが急務です。私はそこに全力投球したいと考えています。

国際援助の目的は、仕事が「なくなること」

笹川 現場を知らないで、絶対に問題は解決できません。私を知らない人は、赤坂の一等地の冷暖房の効いた部屋で、判子だけついて楽でいいなと思われるかもしれませんが、私は過去30年間で海外に367回行きました。約6年と10カ月は海外に出張していたことになります。そのうちの半分である3年と5カ月は飛行機の中と、飛行場の待ち合い時間です。

大野 笹川さんの年代で、これほど社会的地位が確立されている立場の方が、ミャンマーの辺境地域にポンと実際行くようなことは、日本社会においては少ないように思います。例えばアメリカは、対ASEANの外交政策に熱心ですから、戦略的なパフォーマンスとしてタイ側の国境地域や難民キャンプにも、よく国会議員や大きな財団の職員レベルの人たちが視察に来ていました。

笹川 私はハンセン病制圧活動の中で、アフリカのモザンビークまで片道40時間もかかる道を4年間も通い続けました。また来るのかと思うと現地の人たちも動かざるをえません。コンゴのジャングルの奥地まで飛行機を4回乗り継いで、決死の思いでピグミーのジャングルの中に広場をつくってもらって、そこに飛行機を着陸させました。コンゴの政治家も行ったことがないようなところに足を踏み入れてきました。

インドだけでも一番多いときには1年に7回も行っています。結果、ハンセン病の制圧も成功しました。インド人が行ったことのないところに行くんですから。行かなければ問題は解決しません。

大野 一度ではなく、持続的に通うということでしょうか。

笹川 成果が出るまでやるんです。大概の人は仕事を目的化しています。NPOを批判するわけではありませんが、私たちは成果が出ればやめなければならないのです。

私は国際社会で長い間働いてきました。同じくハンセン病と闘ってきた欧米の財団は、私たちに対して、ハンセン病を「なくす」という言葉を使わないでくれといいました。つまり、自分たちの仕事がなくなることを恐れたのです。しかし、本来は仕事がなくなることこそが目的であるはず。ハンセン病がなくなり、私たちの仕事がなくなることが最終地点なのです。

私はチェルノブイリ原発事故のあとも、10年間支援活動をやりますといって、10年できちんと引き上げました。欧米のNGOはびっくりしていましたね。彼らはそこに留まることが仕事になってしまっていた。いつでも成果がすべてです。我々はそのことを忘れてはならないと思います。

大野 ミャンマーに外から人が訪れ、関わりが生じることは、個人的には賛成です。いいことも起こるし、大変なことも起こります。

ただ、「格好の新規投資先」というような、いかにも旧来型の関係性のフェーズは終焉しています。事業が一時的に進出を果たしても、長期的に持続可能な投資ということを考えなくては現地の人びととうまくやってゆけません。特に少数民族の人たちは、進出してくる相手がどのくらい自分たちのことを知っているのかについて非常に敏感です。ミャンマーの人たちの複雑な心境やバックグラウンドについては、少なくとも「知っておいて損することはない」と思います。

(2012年6月18日 日本財団ビルにて収録)

プロフィール

大野更紗医療社会学

専攻は医療社会学。難病の医療政策、難治性疾患のジェネティック・シティズンシップ(遺伝学的市民権)、患者の社会経済的負担に関する研究等が専門。日本学術振興会特別研究員DC1。Website: https://sites.google.com/site/saori1984watanabe/

この執筆者の記事

笹川陽平

1939年1月8日 東京生まれ。明治大学政治経済学部卒。現在、日本財団会長、WHOハンセン病制圧特別大使、ハンセン病人権啓発大使(日本政府)ほか。40年以上にわたるハンセン病との闘いにおいては、世界的な制圧を目前に公衆衛生上だけでなく、人権問題にも目を向け、差別撤廃のための運動に力を注ぐ。ロシア友好勲章(1996)、WHOヘルス・フォア・オール金賞(1998)、ハベル大統領記念栄誉賞(2001)、読売国際協力賞(2004)、国際ガンジー賞(2007)、ノーマン・ボーローグ・メダル(2010)など多数受賞。著書『この国、あの国』(産経新聞社)、『外務省の知らない世界“素顔”』(産経新聞社)、『人間として生きてほしいから』(海竜社)、『若者よ、世界に翔け!』(PHP研究所)、『不可能を可能に 世界のハンセン病との闘い』(明石書店)、『隣人・中国人に言っておきたいこと』(PHP研究所)、『紳士の品格』(PHP研究所)など。

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