2019.04.01

「進化論」論争に見るアメリカの基盤――トランプ政策に煽られる文化戦争

藤本龍児 社会哲学、宗教社会学

国際 #文化戦争#進化論

二つの顔/二つの勢力

進化論をめぐる論争

今年は、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』(1959)が出版されてから160年目にあたる。よく知られているように、ここで提唱された「進化論」は、世界に大きな衝撃を与え、現在でも論争が続いている。

ダーウィンは、「自然選択」によって生物は進化する、と説いた。生物は時間をかけて変異し、環境に対して有利な変異をした種は保存され、不利な変異をした種は絶滅する、というのである。この自然選択説とグレゴール・メンデルの遺伝学説があわさり、そこにいくつかのアイディアが加わって、現在は「ネオダーウィニズム」として進化生物学の標準理論となっている。

とはいえ、まだネオダーウィニズムでは説明できない現象も少なくない。生物が進化してきたことは確かだとしても、いまだに、進化のプロセスを合理的に説明する科学的な理論は存在していないのである。こうした点をめぐる科学的論争は、DNAやゲノム編集、あるいはSTAP細胞などの問題もからんで、難しいながらも面白い(注1)。

(注1)池田清彦『進化論の最前線』集英社、2017年

しかし「進化論」は、そうした「科学における論争」だけでなく「社会における論争」をも巻き起こしている。とりわけアメリカでは、大統領選のトピックになるほど、社会的に大きな問題となっている。

近年では日本でも、アメリカ社会のなかの「進化論」論争を紹介する報道が増えてきた。そこには、よく知っているはずアメリカの意外な顔が見えてくる。それは、進化論と対立する創造論を、ひいては世界や人間を創った神を信じる信仰者の顔である。アメリカは「科学大国」という顔とともに「宗教大国」をいう別の顔をもっているのである。

この論争や二つの顔は、アメリカ社会の分裂を示すものとして紹介されることが多い。二つの顔というよりは二つの勢力の抗争として理解されるのである。これまでも、進化論をめぐる社会的論争は「文化戦争」 の一つとして捉えられてきた。文化戦争とは一般に、妊娠中絶、同性愛、公立学校における祈り、移民、銃規制などをめぐって、保守派とリベラル派が対立することをいう。とくに2016年以降、ドナルド・トランプの登場で、アメリカ社会内部の対立や分断が顕わになり、進化論もその主要な要素の一つとして理解される傾向にある。

たしかに文化戦争は、アメリカの分裂を表しており、根深い問題であることは間違いない。しかし、そのなかでも進化論は、少し違った見方をする必要がある。進化論をめぐる報道が増え、事実を知る機会が増えたことは、アメリカを理解するうえで一つ前進したと言えるかもしれない。しかし、事実は偏見を打ち破ることもあるが、逆に偏見を強くすることもある。事実がそれまでの見方に回収されて、むしろ偏見を補強する材料になってしまうのである。

進化論のばあい、アメリカ社会を二分する問題として理解したり、科学と宗教の対立と捉えたり、あるいは世俗派と信仰派の対決とみなしたりすると、肝腎な点を見落としてしまう。そうした見方では、論争における課題を見誤り、文化戦争を煽ることになりかねない。

しかしでは、アメリカ社会における「進化論」論争は、どのよう捉えればよいのだろうか。

創造論への熱い眼差し/冷たい視線

まず、「進化論」論争を示す事例からみておこう。例えば、近年よく紹介されるものとしては、ケンタッキー州ピーターズバーグで2007年にオープンした創造博物館(Creation Museum)がある。

宇宙の成立や生物の誕生を旧約聖書の『創世記』にもとづいて説明する博物館である。創造博物館には、社会における論争の基本図式、すなわち「進化論vs.創造論」という対立が如実に表れている。

ここでは、一般的に約45億年前とされる地球誕生は6000年前とされ、アダムとイヴは恐竜とともにエデンの園で暮らし、4300年前のノアの洪水によってグランドキャニオンが造られた、とされている。そうした地球と人類の歴史が、「若い地球説young earth creationism」などの理論によって科学的に説明され、それを示すための展示物が並ぶのである。創造博物館を建てたのは「アンサーズ・イン・ジェネシス(AiG:答えは創世記に)」というキリスト教団体にほかならない。

しかしだからといって、この博物館は、カルト的な趣味で作られたマイナーな施設とはいえない。床面積はおよそ6000平方メートルあり、総工費は2700万ドル(約33億円)もかかっている。恐竜のレプリカは、うなり声をあげてリアルに動き、4Dシアターでは、立体映像にくわえて座席も動き、ノアの洪水のシーンでは水しぶきがかかってくる。博物館というより、特殊効果を駆使した最新のテーマパークようにみえる。

調べてみれば、それもそのはず、展示物を担当したのは「ユニバーサル・スタジオ(フロリダ)」のアトラクションの担当者なのである。話題になるだけでなく実際に人気もあり、開館から2018年までに350万人が来館したという。

勢いにのったAiGは、続いて2016年に同州のウィリアムズタウンで「アーク・エンカウンター(方舟との遭遇)」を建設した。最近では、こちらが紹介されることが多い。アーク・エンカウンターは「ノアの方舟」を実寸大で「再現」したものである。『旧約聖書』の創世記6章に記録されているとおり、長さは約155メートル、幅は26メートル、高さは16メートルもあり、世界最大級の木造建築物となっている。

方舟の中、つまり館内では、ノアやその家族、収容された動物(恐竜を含む)たちが実際にどのように過ごしたのか、ということが、多彩な展示物やアトラクションによって示されている。

また、世界中の洪水伝説が紹介され、それが事実である証拠として、洪水の爪痕や化石の記録などが、地質学などの見地から説明されている。ここでも、創造博物館と同様に、聖書の記述を基本としながら「ノアの方舟」を事実として科学的に説明しているのである。

総工費は一億ドル(約110億円)を超え、オープン式典には州の副知事や市長をはじめ7000人が参加し、来館者は最初の1年間だけで160万人にのぼった。

創造博物館もアーク・エンカウンターも、日本人の目には異様に映るだろう。いまだに「進化論」を真っ向から否定する「創造論」があること自体、日本人の認識からすれば驚くほかない。まして、科学的知見を当然とし、進化論の最前線を面白いと思う人びとにとっては、創造論と進化論の論争など、まともに受け取るのもばかばかしい、ということになるはずである。

しかし、アメリカ社会における「進化論」論争を、驚いたり、あきれたり、ひややかに眺めたりしてばかりはいられない。なぜなら、アメリカで進化論を信じる人の割合は、先進国のなかでもっとも少ないからである。

たとえば2006年、欧米の32ヶ国を中心として、そこに日本とトルコをくわえた34ヶ国で調査した研究が『サイエンス』誌に載った(注2)。「現在の人類は、より原始的な動物種から進化した」。この見方について「正しい」「分からない」「誤っている」の三択で選んでもらうものである。

(注2)Jon D. Miller, Eugenie C., Shinji Okamoto, “Scott Public Acceptance of Evolution,” Science, vol. 313, 2006 Aug 11.

アメリカで「正しい」としたのは40%しかおらず、先進国のなかでは群を抜いて低かった。というより、アメリカよりも低い国はトルコしかなかった。アイスランド、デンマーク、スウェーデン、フランスでは80%を超え、日本では78%であった。アメリカはそれらの半分でしかない。国際比較の観点からして進化論は、アメリカ独自の性質を表している、と言えるだろう。

ただ、2017年のギャラップの国内調査では、進化論を受け容れている人は57%であった(注3)。他の調査でも、次第に進化論を信じる割合が増えていることが確認されている。こうした数字を根拠にして、アメリカでも世俗化が進んでいる、と考える識者もいる。しかし、同じその2017年の調査では、創造論を信じる割合は38%であった。これは、西洋の先進国のなかではやはり特別に高い数値である(注4)。

(注3)“Belief in Creationist View of Humans at New Low,” Gallup, 2017 May 22.

(注4)2011年の国際比較の調査によると、欧米の先進国のなかで創造論を信じる人は、アメリカで40%、カナダで22%、イタリアで21%、ドイツで12%、イギリスで12%、そして日本では10%であった。Supreme Being(s), the Afterlife and Evolution, Ipsos Global @dvisory(2011/04/25)

進化論と創造論が、アメリカの特徴を表すことは間違いない。とはいえ、それが何を表しているのかということは、両者が入り組み、複雑に絡み合っていて理解が難しい。そこで次に「進化論」論争の歴史的経緯をみて、この内実について社会思想の観点から考えてみよう。

スコープス裁判とその後

アメリカの「進化論」論争の端緒として挙げられるのは、1925年のスコープス裁判である。20世紀初頭、アメリカの中でもとくに信仰心の篤い南部では、進化論に反対する動きが出てきた。進化論は、聖書に基づく従来の教育を脅かすものとして受けとめられたからである。

1920年代には、進化論教育を禁止しようとする運動が活発化した。そして1925年にテネシー州で、反進化論法として「バトラー法」が成立したのである。それに対してアメリカ公民権連合(ACLU:America Civil Liberties Union)は、新聞で、実際に進化論を公立学校で教えて逮捕される志願者を募集した。裁判を起こし、バトラー法を世に問い、廃止に追い込むためである。

ジョン・スコープスは、二週間ほど教えただけの代用教員であったが、街の宣伝をもくろむ実業家の説得によって、これに応募した。進化論側には、有名な弁護士がつくことにもなった。それに対して検事側、すなわち創造論側に立ったのは、ウィリアム・ジェニングス・ブライアンである。ブライアンは、ウィルソン政権の国務長官を務めた有力な政治家であり、民主党の大統領候補に三度なるようなポピュリズムのリーダーであった。

かくして裁判の話題性は高まり、ちょうどラジオ放送の開始と重なったこともあって、裁判だけでなく、舞台となったテネシー州の田舎町も、当事者のもくろみをはるかに超えて全米中から注目を集めた。

裁判ではスコープスが敗訴し、創造論側が勝利した。しかし、裁判の過程でブライアンは、聖書の記述の矛盾を次々に指摘され、それにうまく答えることができなかった。その過程がラジオを通じて報道され、創造論の弱点が広く知られるようになる。創造論を支持する原理主義者も、偏狭な固定観念に縛られた人びととして認識されるようになった。ブライアンは、心労がたたったのか、判決から5日後に急死している。

反進化論法は、その後も各州で提案されたが、成立したものは少なかった。ただそれでも、教育現場で退いていったのは進化論教育のほうであった、ということに注意しなければならない。1930年までには、全米の教室の70%ほどで進化論が排除され、その後もさらに減っていったと言われている(注5)。

(注5)「進化論」論争の詳細については、Eugenie C.Scott (著)、鵜浦裕・井上徹 (訳)『聖書と科学のカルチャー・ウォー:概説 アメリカの「創造vs.生物進化」論争』東信堂、2017年を参照。なお、この本の原題は、Evolution Vs. Creationism: An Introductionで、出版は2008年である。

ところが1957年、アメリカ社会に「スプートニク・ショック」が走った。ソ連がアメリカより早く、世界で初めての人工衛星、スプートニクの打上げに成功したのである。冷戦の真っ只中、先を越されたアメリカ社会では、科学技術の遅れが懸念され、科学教育を重視する論調が高まった。

これを受けて1960年代初頭には、進化論が、ディベートの時間をはじめ教科書にも復活していく。1968年には、連邦最高裁でアーカンソー州の反進化論法(1928年制定)が憲法違反とされた。反進化論法は、特定の宗教的信念に基づいた立法であり、宗教的中立性を担保していない。ゆえに、国教樹立を禁止した憲法修正第一条に違反している、とされたのである(注6)。この後、南部の州で残っていた反進化論法も、原則的に廃止されていった。

(注6)Epperson v. Arkansas, 393 U.S. 97 (1968).

創造論の「進化」

創造科学

科学は、この頃までには否応なしに認めざるをえない文化的勢力となっており、創造論者も一概にそれを否定できなくなっていく。そこで創造論は、ある種の変異を遂げていった。創造論は、科学を否定するものではなく、科学的に証明できる理論である、と主張されるようになるのである。これを「創造科学」という。科学におおわれた社会環境に適応し、創造論が進化した、とも言えよう。

創造科学の父ヘンリー・モリスは、「水文地質学(hydrogeology)」を専門とし、1961年、神学者とともに『創世記と洪水』を出版した。そこでは例えば、地球が1万年以内に誕生したということは科学的に証明できるし、ゆえに進化もありえない、と説かれていた。著書のタイトルやその内容からも分かるように、これが後に、創造博物館や「アーク・エンカウンター」を生み出すことになる。AiGも、そうした創造科学の運動につらなるキリスト教団体にほかならない。

創造科学には、公教育における論争で利点があると考えられた。宗教であれば違憲だとされても、科学であれば公教育に組み込める、ということである。ゆえに1970年代には「授業時間均等化法」の実現が目指されるようになっていく。科学教育の一環として進化論教育が避けられないならば、それとともに創造科学も均等に教えよ、ということである。

授業時間均等化法は、1980年代初頭までに、少なくとも27州で提案された。そして1981年には、この法案が、先ずアーカンソン州で、次いでルイジアナ州で立法化される。

しかしアーカンソン州では、ACLUによって即座に提訴がなされ、違憲判決が下されてしまう。同法が、目的、効果、関わり合い、という三つの基準でテストされ(1971年に考案されたいわゆる「レモン・テスト」)、修正一条に違反すると判断されたのである(注7)。一方、ルイジアナ州では、先のアーカンソン州法の裁判をふまえ、創造科学の定義から宗教と捉えられるような文言は削除されていた。しかし、それでも1987年には連邦裁判所で違憲とされてしまう(注8)。

(注7)McLean v. Arkansas Board of Education, 529 F. Supp. 1255 (1982).

(注8)Edwards v. Aguillard, 482 U.S. 578 (1987).

これにより、公立学校で創造科学を教えることは叶わなくなったのである。ゆえに、ふつうこの「エドワーズ対アギラード」裁判は、創造論に大きな打撃を与えたものと位置づけられている。しかしこの裁判は、後でみるように、創造論者に大きな可能性を示唆するものでもあった。

インテリジェント・デザイン論

ただ1987年以降、創造科学に代わって注目されたのは、インテリジェント・デザイン(ID:Intelligent design)」論である。これは、創造論のさらなる進化バージョンと言ってもいいだろう。

ID論は、聖書には触れないし、創造科学のように「若い地球説」や「大洪水」についても言及しない。そればかりか、進化論を一部認めてしまう。ただ、宇宙や自然界で起こっていることはあまりに複雑で精妙であり、すべてのことを機械的な自然的要因だけで説明することはできない、とする。ゆえに進化のプロセスには「知的なデザイン」が、すなわち何らかの偉大な知性による構想や設計、意図が働いている、と考える。そのことを科学的に説明しようとする理論が、ID論なのである。

ID論に「神」は出てこない。しかし、宇宙や生命を設計し創造したとされる「偉大なる知性」を「神」と解釈することもできる。だからこそ、新たな創造論の一つとして期待されることになっていく。

ID論は、1991年に出版された『裁判にかけられるダーウィン(Darwin on Trial)』によって注目された。この本の著者フィリップ・ジョンソンは、それまでと違い、カリフォルニア大学バークレー校の法学部教授という、れっきとした学術的地位をもっていたからである。

このインパクトは小さくなく、いくつかの科学誌でも書評が掲載された。もちろん、所属が一流大学といっても、著者は門外漢でしかない。当然、科学誌では素人の見解として一蹴された。しかしそれでも、一般社会では、信頼性があるように受けとられたのである。

1996年には、進化論への反証を論じた『ダーウィンのブラックボックス』が出版された。著者のマイケル・ベーエは、リーハイ大学の教授で、しかも生命現象を化学的に研究する「生化学(biochemistry)」を専門としていた。このためベーエは、ID論のなかでも最高の資格を備えた科学者として期待されることになる。また2005年には、ブッシュ大統領が、進化論だけでなくID論も教えるべきだとコメントした。ID論は、創造科学よりも科学の領域に入り込み、政治の領域にも深く喰い込んだわけである。

ところが、その2005年、ペンシルヴァニア州ドーバー学区の地方裁判所で、ID論教育は違憲である、という判決が出た。ID論には、査読付きの出版物がなく、科学界に受け容れられていない。そのことからしてもID論は、科学ではなく宗教であり、公立学校におけるID論教育は修正一条に違反する、というのである(注9)。

(注9)Kitzmiller v. Dover Area School District, 400 F. Supp. 2d 707 (M.D. Pa. 2005)。

これは、あくまで地方裁判所における判決であり、法的な効力は限定的なものでしかなかった。しかし社会的には、ID論に大きな打撃をあたえたと言えよう。なぜなら、この裁判では、マイケル・ベーエが証言台に立ち、そのうえでくだされた判決だったからである。最高の資格を備えた科学者が証言したにもかかわらず、ID論は科学とは認められなかった。であるからには、この判決を深刻に受けとめないわけにはいかない。

かくして創造科学であれID論であれ、創造論は、公立学校で正式に教えられるものとしては期待できなくなったのである。

「進化論」論争と文化戦争

裁判で残された可能性

しかしそれでも、「進化論」論争に結着がついたわけではなかった。創造論者は、2005年以降もまだ、裁判に期待を残している。先にみたエドワーズ対アギラード裁判で示された可能性があるからである。判決文には、次のことが示されていた。「司法は、州議会が、支配的な科学理論に対して科学的な批判を教えることを義務づけてはならない、と言っているわけではない」。「人類の起源について多様な科学理論を教えることは、科学教育の効果を高めるという明確な世俗的意図があれば、妥当なものになるかもしれない」と(注10)。この内容がいくつかの形で応用されたものが、裁判における創造論側の現在の主張となっているのである。

(注10)Edwards v. Aguillard, 482 U.S. 578 (1987) at 593-594.

たとえば2005年からは「論争を教えろ(Teach The Controversy)」というキャンペーンが活性化した。進化論には、それを否定する証拠が突きつけられ、少なくとも不備が指摘されている。であるからには、多くの論争があることを教えよ、という主張である。

2008年にはルイジアナ州で、公立学校において進化論などの科学理論にかんする批判的思考や論理的解析、客観的討論を推進する環境をつくり、育むことを許可し、支援しなければならない、という州法が成立した(注11)。また2017年には、アラバマ州で「学問の自由」法案が承認された。教師は「学問の自由(academic freedom)」をもっており、それによって進化論や気候変動にかかわる多様な見方を教えることができる、とするものである(注12)。

(注11)Senator Ben Nevers. “SB733”. Louisiana Legislature. Retrieved 2008-06-25.

(注10)Alabama House Joint Resolution 78, 2017 Regular Session.

いずれも、創造科学やID論を正規の教育内容として指定するのではなく、多様な見方や批判的分析という形で進化論を批判し、相対的なかたちで創造論を生き延びさせようとする戦略だと言えよう。

こうした法案は、多くの州で提出されているが、成立するものは多くない。成立しても、間もなく廃止されることもある。アメリカでは、州ごとに独自の教育を認める教育制度が採られており、教科書採択の決定権も地方にある。ゆえに、同様の法案をどこかの州が提出したり成立させたりしたとしても、それがアメリカ社会全体でどれほどの重要性をもつのかは測りがたい。しかも、アメリカの教育制度は、公立学校だけでなく私立学校やホームスクールもあって、そこでは裁判結果の拘束をほとんどうけない。ゆえに、進化論教育を避けたい親は、できるだけ私立学校やホームスクールを選ぼうとする。

そもそも、たとえ連邦最高裁が判決をくだしたとしても、それがそのままアメリカ社会における共通了解となるわけではない。創造博物館やアーク・エンカウンターの活況ぶりをみても分かるように、創造科学を支持しているアメリカ人はいまも多いのである。

有神論的進化論

このように、進化論と創造論をめぐるアメリカの社会状況は複雑に入り組んでいる。したがって、進化論や創造論の全体像を理解しようとすれば、改めて統計調査を参照しなければならない。

先に示したように、2017年のギャラップの調査では、創造論を信じる人が38%で、進化論を信じる人が57%であった。しかし詳しくみれば、進化論を信じる人は、二つに分かれていることに留意しなければならない。一方には、進化論を認めつつも、進化の過程は神によって導かれた、と考える人が38%ほどいるのである。他方、神の介入なしで進化してきた、と考える人は19%しかいなかった。日本人が想定する進化論は、こちらのほうだろう。

進化論を認めつつも、進化の過程は神によって導かれた、という考えは「有神論的進化論」と呼ばれる。これには、ID論も含まれるが、それだけではない。

たとえばカトリックにおいては、1950年にピオ12世が、教皇回勅「フマニ・ゲネリス(Humani generis)」で、進化論を部分的に認め、1996年にはヨハネ・パウロ2世が、進化論は仮説以上の理論である、と述べた。ベネディクト16世は、進化論はすべての問いに答えていない、としながらも、進化論と信仰は共存できる、と述べている。2014年には、教皇フランシスコが、世界中の科学者が集うバチカン科学アカデミーで、神は生物を自然の法則に従って進化するように創造した、と説いた。カトリックでは、生物学的な意味でのヒトは進化の過程で生まれたとしても、それを導き、魂を創造してヒトを人間たらしめたのは神である、としているのでる。

ただカトリック教会は、ID論を受け入れていない。たとえ偉大なる知性が神に読み替えられる余地があっても、それは神の存在を脅かしてしまう。ID論は、自然の原因によって説明できない箇所に神を持ち出す「隙間の神」論法に類するものである。いつか科学が、その隙間を説明できるようになれば、神の偉大さは低められ、さらには神の存在が不要とされる懼れがある。ゆえにID論に対しては、科学側だけでなく宗教側にも反対論が多い。

また、有神論的進化論は宗教側からのみ唱えられているわけでもない。例えば2009年、フランシスコ・コリンズという遺伝学者が、有神論的進化論を主張した。このインパクトは、前例のないものだったと言えよう。コリンズは、生命科学の研究者や医師を6000人以上抱え、アメリカの医学生物学研究の中核である米国立保健研究所の所長であり、国際ヒトゲノム計画の代表をつとめたほどの科学者だったからである。

「進化論」論争の深層

そのように有神論的進化論のなかにも、多様な考え方や立場があるが、これをふまえれば、「進化論」論争をたんに科学と宗教の対立としてとらえることはできない、ということが分かるだろう。そもそも科学と宗教の関係は、ガリレオの裁判にせよ、ニュートンの信仰にせよ、単純な対立として捉えることはできない。

また、先にみた調査にあるように、創造論を信じる38%と有神論的進化論を信じる38%を合わせると、およそ8割が神を前提として世界や生命、人間を捉えていることが分かる。それに対して、神を介在させない進化論を信じる人は19%なのである。他の調査でも、ほとんどが2割を切っている。

してみれば「進化論」論争を、アメリカ社会を二分する問題として理解したり、世俗派と信仰派の対決とみなしたりすることはできない、ということが分かるだろう。たしかにその論争は、「進化論vs.創造論」という対立図式で展開してきた。しかし、この対立の基層には、8割が共有する宗教的世界観があるのである。もちろん、創造論と進化論の違いを軽んじることはできない。しかし、その間には、有神論的進化論を信じる人びとが4割もいる。進化論は、ある次元では、アメリカの分裂を示すように見えるが、深い次元では、アメリカの共通基盤や共有部分を示すものだとも考えられるのである。

にもかかわらず、えてして大統領選などの政治的舞台は、「進化論」論争を文化戦争に仕立てあげてしまう。たとえば、2016年の大統領選では、共和党候補の座をトランプと最後まで争ったテキサス州のテッド・クルーズ上院議員は「進化論は共産主義者の陰謀だ」と述べた。同じく共和党候補であったジェブ・ブッシュ元フロリダ州知事やマルコ・ルビオ上院議員も、進化論だけでなく創造論も教えるべきであるとか、それぞれの学校が教育内容を取捨選択すべきであるとした。これらは、創造論を信じる有権者がいるからこそ表明されていると言える。しかし、メディアを通じた政治家の、あるいはメディア自身の演出が、対立を煽る傾向があることも確かである。

トランプ大統領は、教育省長官にベッツィ・デヴォスを就けた。彼女は、進化論教育に反対しており、しかも公教育を縮小させ、民営化させる方針を打ち出している。これは、トランプ政権の揺るぎない支持母体である「福音派」に配慮したものにほかならない。しかし、これを捉えて、「進化論」論争を科学と宗教、ひいては世俗と宗教の対立とみなすばかりでは、いたずらに文化戦争を煽ることになるだろう。

互いを偏狭なイデオロギーと見立てて批判しあう傾向は、政治全般におよぶものであり、文化戦争だけのものではない。とくにトランプ(大統領)の登場以後は、それが増々ひどくなっている。そうした仕方は、互いに不寛容になるだけではなく、両者がもつ共通項や基盤を覆い隠してしまう。しかし、例えば「進化論」論争を慎重にとらえるならば、そこには、分断線の奥底にあるアメリカの宗教的基盤が見えてくるのである。

プロフィール

藤本龍児社会哲学、宗教社会学

1976年、山口県生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。京都大学人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。社会哲学・宗教社会学を専攻。現在、帝京大学文学部社会学科准教授。単著に『アメリカの公共宗教――多元社会における精神性』(NTT出版)、共著に『現代社会論のキーワード――冷戦後世界を読み解く』(ナカニシヤ出版)、『宗教と社会のフロンティア――宗教社会学からみる現代日本』(勁草書房)、『聖地巡礼ツーリズム』(弘文堂)、『宗教と公共空間――見直される宗教の役割』(東京大学出版会)、『よくわかる宗教学』(ミネルヴァ書房)、『米国の対外政策に影響を与える国内的諸要因』(公益財団法人日本国際問題研究所)、『基礎ゼミ宗教学』(世界思想社)、『50州が動かすアメリカ政治』(勁草書房)など、翻訳にホセ・カサノヴァ「公共宗教を論じなおす」『宗教概念の彼方へ』(法藏館)所収。

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