2021.11.11

なぜ市民による抵抗運動はエスカレートしたのか――クーデター後のミャンマーを分析する

岡野英之 フィールドワークに基く政治研究・武力紛争研究

国際

国境近くの村で爆発事故が起こった。爆弾を製造している過程で起こった事故だった。今回の犠牲者は少なく、2名だけで済んだ。数か月前の事故では8名が死んだ。遺体は密かに埋めた。政府に発覚するのを恐れたからである。今回は、死者2名の他に、大怪我をした者が2名いた。村のクリニックでは手の施しようがないという。彼らには生きていてほしい。村人たちは、やむなく大都市の病院に運んだ。大都市の病院に運べば爆弾を作っていたのが軍事政権側にばれてしまうかもしれない。村人は、それでもやむを得ないと彼らを連れていくことにした。こうして、この村で爆弾を製造していることが発覚した。

この話は、ある人から教えてもらった噂である。私は、新型コロナウイルス感染症の流行が始まってからは現地には行けていないし、この国の情勢に関してはフェイクニュースも蔓延している。この噂が本当かどうかを確かめるすべはない。

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筆者はミャンマー内戦を研究する研究者である(注1)。大学で教鞭を取る傍ら、春休みや夏休みを利用して、現地調査を実施してきた。今年(2021年)2月にミャンマーでクーデターが発生してからは、その内実を理解しようと努めてきた。クーデター後の市民運動は、非暴力の街頭デモとして始まった。しかしながら、国軍が鎮圧行動に乗り出し、市民の殺害を厭わない姿勢を見せた結果、一部の市民は武装をし、国軍と対峙することになった。現在までに、その対立はエスカレートし、双方の犠牲者が日々増えている。なぜ、それほどまでに暴力がエスカレートしたのか。

そうした事態を招いたのは、少数民族との間で内戦が続いていたことと関わりがある。国軍側に関しては、内戦地帯で戦闘を重ねてきた部隊がデモ隊の鎮圧にも投入されており、非人道的行為に比較的慣れていた。その一方、不可解なのは市民側である。なぜ市民はこれほどまでの武装ができ、かつ、国軍と対峙できるだけの能力を持っているのか。実は、そのことについても内戦と無関係ではない。本稿では、筆者の調査経験を踏まえながら、少数民族との内戦が、いかにクーデター後に見られた市民の武装と関係しているのかを論じたい。

(注1)筆者は以前にも、シノドスに寄稿したことがある。その時は、西アフリカの小国シエラレオネで発生したエボラ出血熱について論じた。ここ数年、私はフィールドを移し、ミャンマーやその隣国タイに通っている。ミャンマー内戦の研究をしているといえども、私のメインの研究対象は、少数民族シャン人と、その武装勢力である。彼らが話すシャン語は、隣国タイのタイ語と近い。ゆえに私はミャンマー語をカタコトしか話すことができず、タイ語やシャン語(これもカタコト)で現地調査をしてきた。

クーデターの発生を受け、市民たちは立ち上がった

2021年2月1日、ミャンマーでは軍事クーデターが発生した(以降、本クーデターを「2021年クーデター」と表記する)。翌日、国家統治評議会(State Administration Council: SAC)が設立され、現在までその統治が続いている。いわゆる、軍事政権が続いているのだ。

振り返ってみると、ミャンマーが政治的自由を謳歌したのは10年ほどにすぎなかった。ミャンマーは1962年から独裁体制が続いており、2011年に軍政から民政へ移管されたばかりであった(注2)。しかも、2011年の民政移管は軍事政権主導で実施されたために、当初、外部からは期待されていなかった。

しかしながら、2011年に就任したテインセイン(Thein Sein)大統領は、国軍出身(しかもトップから第四位)でありながらも矢継ぎ早に開放政策を実施した。検閲体制を撤廃したり、民間のメディアによる自由な報道を認める新しい法律を通過させたりし、政治的自由が大きく進展した。それまで自由に持てなった携帯電話も、自由に持てるようになった。

2015年には総選挙が実施され、それまで野党であった「国民民主連盟」(the National League for Democracy: NLD)が政権を取った。NLDは、アウンサンスーチー(Aung San Suu Kyi)率いる政党で国民から絶大な人気を集めている。1980年代末から民主化運動を続けてきた政党であり、軍事政権と真っ向から対立する存在であった。そのNLDが国会において議席の大半を確保し、政権を取ったのである。ミャンマーでは民主的な制度が定着し始めたと考えられるようになった。

クーデターが起こったのは、そんな矢先であった。国軍がクーデターを起こしたのはNLDが国軍の利権を解体しようとしたためだともいわれる(深沢2021; NHK2021b)。

クーデター直後の数週間は、市民による大規模な街頭デモが見られた。各地のストリートはクーデターに反対する市民で溢れた。大都市だけではなく、人口数千人規模の小さな町でさえも街頭デモが実施されたのである。デモは連日にわたり繰り返された。こうした街頭デモは、あくまでも非暴力の活動であった。その中心となったのは政治的自由を謳歌してきた若者たちである。

彼らは民政移管後、10年の間に子供から若者へと成長した世代である。独裁政権下の暮らしについては幼すぎてそれほど覚えていないはずだ。おそらく当時の様子は、大人から聞いているに違いない(佐々木2021)。次第に、若者たちだけではなく、大人たちもデモに参加するようになる。公務員たちも仕事を行くことを拒否し、デモ隊に加わった。こうして街頭デモは大規模化していった。

(注2)詳述するならば、独裁体制が続いた時期は二期に分けられる。1962年から1988年までのビルマ社会主義計画党(Burma Socialist Programme Party: BSPP)一党支配期、および、1988年から2011年の軍事政権期である。1988年にクーデターが起き、「国家法秩序回復評議会」(State Law and Order Restoration Council: SLORC)が設立された。それによりBSPP一党支配は終わる。SLORCは 1997年に国家平和発展評議会(the State Peace and Development Council: SPDC)に改組する。SLORC/SPDCによる軍政は2011年に軍政主導の民政移管が実施されるまで続いた。

市民運動は暴力性を増していった

クーデターから数週間あたりで国軍は市民に対する弾圧を本格的に始める。当初、国軍側は、デモはしばらくすると終息すると考えていた(仕事ができないことに人々が耐えられなくなって事態が収束すると考えていたきらいがある)。しかしながら、市民側は根気強くデモを続けた。国軍側はしびれを切らした。国軍は市民の殺害をも辞さない態度で鎮圧に乗り出し、デモ隊への狙撃も繰り返した。抵抗運動は命がけのものに変わった。その結果、市民による抵抗運動は形を変えた。5月あたりから国軍施設や軍事車両に対する爆破事件がしばしば発生するようになった。さらに、市民が自警団を作って国軍が町に入ることを防いだり、国軍兵士を殺害したりする事件が各地で相次ぐようになった(Nikkei Asia 2021; 大塚2021)。

そうした動きと並行的に進展したのが、亡命政権の設立と、その後の活動である。4月16日、亡命政権「国民統一政府」(National Unity Government: NUG)が設立された。その設立を主導したのは、有志の国会議員たちである。すなわち、「選挙で選ばれた正統な国会議員が人選をしたうえで、行政府を設立した」という体裁を取った。その構成は、大統領および国家顧問(State Counsellor)を含めた執行部、および、11省庁の大臣や副大臣、あわせて26名である。

ただし、大統領に任命されたウィンミン(Win Myint)や、引き続き国家顧問とされたアウンサンスーチーは、国軍に拘束されたままである。事実上の指導者となったのは副大統領ドゥーワーラシーラ(Duwa Lashi La)である(Irrawaddy 2021c; Myanmr Now 2021a; 毎日新聞2021)。NUGのメンバーの居所はわからないものの、インターネットで積極的に発信活動を行っており、NUG設立以降、毎日のように声明やコメント、行政文書、活動報告をまとめたニュース動画が発信されている。

5月5日、NUGは軍事部門「人民防衛軍」(People’s Defense Force: PDF)の創設を発表した。すなわち、軍隊を持つと発表したのである。その公式文書でNUGは、軍事政権の暴力を終わらせるだけでなく、少数民族との内戦を終結させる必要があると述べており、そのために少数民族武装勢力との協力関係を築き、「連邦民主軍」(Federal Democratic Armed Force)を創設するという構想が発表された。

明言さえされていないものの、この構想には、少数民族武装勢力と共闘して軍事政権を打倒し、その上で、新しい政治制度を構築すれば、内戦は終結するというシナリオが読み取れる。その先駆けとしてNUGは人民防衛軍の創設を発表した(NUG 2021)。この発表の後、人民防衛軍、および、その略称であるPDFは、毎日のようにメディアに登場することになった。

その約4ヶ月後の9月7日、NUGは軍事政権に対する攻撃開始を発表した。インターネット上にアップロードされた動画に、NUGの事実上のトップ、ドゥーワーラシーラが登場し、「本日2021年9月7日、我々は軍事政権に対する防衛戦争を開始する」と宣言した。その戦争は「人民による防衛戦争(people’s defensive war)」だとされたものの、7分半にわたる演説では「すべての市民は手を取り合ってミンアウンフライン率いる軍事テロリストの支配を覆せ」とか「人民の力で独裁と軍事政権を攻撃し、廃止せよ」といった言葉が並んだ(ミンアウンアウンフライン[Min Aung Hlaing]とは、国軍総司令官の名前であり、「軍事テロリスト」とは軍事政権SACのことを指している)。

図1.亡命政権NUGによる宣戦布告動画

ビルマ語で演説し、英語字幕がついている。国際社会にアピールしていることが見て取れる。

NUGによる宣戦布告により、国軍施設に対する爆破事件や国軍に対する襲撃事件が各地で相次いだ。頻繁に発生したのが、移動中の国軍の車列(コンボイ)への待ち伏せ攻撃である。ミャンマーの独立系メディア「イラワディ(Irrawaddy)」や「ミャンマー・ナウ(Myanmar Now)」でも、暴力的な衝突を報じる記事が増えた。例えば、9月17日には以下のような記事がイラワディ誌のウェブサイトに掲載された(Irrawaddy 2021a)。  

木曜日〔16日〕から金曜日〔17日〕の早い時間帯にかけて、少なくとも26名の国軍兵士が人民防衛軍〔PDF〕による待ち伏せ攻撃によって殺害された。実行された場所はマグウェ地方域やザガイン地方域、チン州やカヤー州である。ミャンマーでは、亡命政権「国民統一政府」(NUG)が9月7日に人民防衛戦争を宣戦布告した。それ以来、軍政を敷く国軍と人民防衛軍〔PDF〕との間で暴力の応報が続いている。

こうした報道に加えて、亡命政府NUG側も積極的に広報活動を実施している。NUGのFacebookページでは、ほぼ毎日、活動を報告するニュース形式の動画がアップロードされている。例えば、9月14日の報道発表では次のことが公表された(以下は[Irrawaddy 2021b]によるまとめ)。  

過去3カ月の間に、全土各地で157件の防衛行動(defensive action)が市民戦闘員(civilian resistance fighter)によって実施された…。…994名の国軍兵士(junta troops)が殺され、およそ350名が負傷した。その過程で、市民戦士(civilian fighter)側も85名が殺され、34名が負傷した。また、国軍兵士(junta soldiers)をターゲットとした暗殺(assassination)が227件実行された。102名の国軍兵士(junta soldiers)が殺害され、19名が負傷した。

すなわち、市民側も国軍と交戦したり、暗殺を企てたりしており、国軍側にも1000名近くの犠牲者が出ているのだ。軍事政権によって殺害された市民が9月14日時点で1089名であることを考えると、もはや軍事政権側が一方的に弾圧しているとはいえない(市民側の死者数は人権団体AAPPによって毎日、発表されている)。

一般的に反政府デモでは、火炎瓶を投げたり、逃げ遅れた軍人や警察官をリンチしたりといった程度の〈強度の低い暴力〉しか行使されないのが普通である。それに対してミャンマーの場合、市民が自警団を組織し、銃火器で武装するまでに至っている。なぜ市民による抵抗運動はこれほどまでに暴力性を帯びることになったのか。結論を先取りすれば、これまでミャンマーで続いていた少数民族との内戦が大きな影響を及ぼしている。その内戦の影響があったからこそ、市民の抵抗も激しいものになったのである。

ミャンマー(ビルマ)内戦とは

ミャンマー(ビルマ)内戦 (注3) は、独立の年である1948年に始まり、現在まで70年以上にもわたり続いている。その特徴を端的にいうと、少数民族を主体とする武装勢力と中央政府(主要民族ビルマ人を主体とする)の対立である。

(注3)1989年までミャンマーは「ビルマ」という国名で呼ばれてきた。これ以降、本稿では時代に応じて国名を使い分けることにする。

ミャンマーでは主要民族ビルマ人が人口の約6―7割を占める一方で、複数の少数民族がいる。主要な少数民族を挙げると、シャン人(Shan)、カレン人(Karen)、カレンニー人(Karenni)、モン人(Mon)、ラカイン人(Rakhine)などがあり、その他にも数多くの少数民族がいる。政府の公式見解では、135の少数民族がいることになっている。そうした少数民族の一部が政治的権利の向上を訴えて武装闘争を展開しているのがミャンマー(ビルマ)内戦である。

現在、活動している勢力は、主要な武装勢力だけでも20を超える(数千人~2万人規模の勢力が主要武装勢力とされる)(Burma News International 2019; ICG 2020: 2)。これらの主要勢力は、支配地域に行政を敷き、教育制度や医療制度を持つ勢力も少なくない。分離独立を求めていただけのことはあって、ミャンマー政府に代わる統治体制を作り上げているのだ。本稿で後に登場するカレン人勢力「カレン民族同盟(Karen National Union: KNU)」やカチン人勢力「カチン独立機構 (Kachin Independence Organization: KIO)、シャン人勢力「シャン州復興委員会(Restoration Council of Shan State: RCSS)」がこうした武装勢力に該当する。こうした勢力の多くは、かつて分離独立を求めていたが1990年代以降、態度を軟化させた。今ではミャンマー国内での自治権獲得、および、そのための政治制度改革を主張して活動を続けている。

現在、内戦の影響がある地域は、ほぼ国境にほど近い山岳地帯に限定されている。内戦発生当初は、その活動域は全土に広がっていたものの、1970年代になると内戦が展開されるのは国境沿いの山岳地帯に限定されてきた(Lintner 1999)。図2は武装勢力の活動地域を示した地図である。この地図からもわかるように、ミャンマー(ビルマ)はタイ、中国、ラオス、インド、バングラディシュと国境を接している。そして、その国境地域の大半は山岳地帯となっている(Google Mapで確認してほしい)。

武装勢力はこうした地域に割拠している。なぜなら武装勢力の多くは、国境を利用して隣国から物資を調達することで活動を継続しているし、ゲリラ戦を行うには山岳部が最適だからである。ビルマ人が多く分布している平野部(ミャンマー中央部に位置する)での活動はほとんど見られない。ゆえにミャンマーへと観光旅行に行ったり、出張にいったりしたりしても、内戦の影響を見ることはほとんどないはずだ。図2は英語の報告書からの引用であるため、いささかわかりにくいが、色のついた部分が武装勢力の活動している地域である。複数の色に分かれていることは、複数の武装勢力が活動していることを意味している。

図2.武装勢力の分布域

出典:Burma News International (2019)(筆者により一部修正)

こうした勢力に加えて、ミャンマー内戦には、数十人から数百人規模の小規模勢力も多数存在している。こうした勢力は「民兵」(militia)と呼ばれることも多いが(Buchanan 2016)、本稿では「小規模勢力」と表記したい。クーデター後に作られた武装自警団と区別するためである。小規模勢力は政治的権利の向上を訴えているわけでもないし、住民を統治しているわけでもない。さらに、どれくらいいるのかを数えるのも難しい。その特徴も多様であり、「武装をした集団」という点以外に共通項を見出すのは難しい。さしたる戦力を持たない弱小の政治的勢力もいるし、ローカルな自警団もいる。マフィアのような性格を併せ持つものもある。こうした小規模勢力は、紛争の影響下にある地域で、主要武装勢力や国軍と「持ちつ持たれつ」の関係を築くことで、存続してきた。

例えば、独立した集団でありながらも主要武装勢力の一部として活動したり(「いうこと聞くから独立して行動させてね」ということだ)、国軍の手先となり主要武装勢力に対するバッファとして機能したりすることで、組織として生き延びてきたのである。その数を数えるのも困難であるが、数百~一千という数を目安にするとよいかもしれない(Buchanan 2016: 1)。端的にまとめるならば、ミャンマー内戦では主要な武装勢力が20ほどいるに加えて、グレーゾーン(政府も主要武装勢力も影響力を及ぼすところ)には、小規模勢力が多数いるということになろう。

奇妙な停戦合意

さらに、この内戦で述べておくべき奇妙な点がある。それは主要武装勢力のほとんどが、武装をしたまま、かつ、支配地域を維持したままで、中央政府と停戦合意を結んでいることである(注4)。ミャンマー内戦では、武装勢力が武装をしているものの本格的な戦闘は限りなく少ない。

(注4)本稿で登場する武装勢力に関してだけ述べておく。カレン人勢力KNUは2012年、シャン人勢力RCSSは2011年に停戦合意を結んだ。カチン人勢力KIOは1994年に停戦合意を結んだものの2011年に破棄し、戦闘を再開した。ただし、2018年以降、クーデターまでは、ほとんど交戦はなかった(Al Jazeera 2021)。

停戦が合意されるようになったのは1989年以降の流れである。当時の軍事政権「国家法秩序回復評議会」(State Law and Order Restoration Council: SLORC)は、国内の安定化を図るために、各武装勢力に対して停戦合意を提案した。その内容は「自由な経済活動を許可し、開発プロジェクトも誘致するかわりに、停戦を維持し反政府活動には加担しない」というものであった。

停戦合意の際、武装および支配地域の維持を認められ、かつ、政治的解決は棚上げされた。SLORCが政治的解決を棚上げしたのは、「自分たちは暫定的な政府であるために政治的帰結に向けての交渉をする立場にない」と位置づけたからである(SLORCが成立したのは1988年9月のことである)。1989年から95年までに、25もの停戦合意が結ばれた(South 2009: 119)。その後、この軍事政権は2011年まで続き、この宙ぶらりんな状況も20年近く続いた。

2011年の民政移管で成立したテインセイン政権は、2012年以降、内戦の政治的解決に向けて動き出す。改めて諸勢力と停戦合意を結び直し、仕切り直した上で政治的解決に向けてのプロセスを進めようとした。そのプロセスは「全土停戦合意」(Nationwide Agreement: NCA)という、ひとつの停戦合意文書に複数の武装勢力が署名するものである。そうすることで、個々の武装勢力と政府が対峙するという問題を「少数民族との内戦」という集合的な課題へと転換しようとした。2015年には8つの勢力がNCAに署名し、2018年には、さらにふたつの勢力がNCAに加わった(AP News 2018; Seekins 2017: 388-389)。その後、NCAに署名した武装勢力は政府と共同し、新たな連邦制についての構想を進めた。

総選挙を経て2016年に成立したNLD政権も、その試みを引き継いだ。しかしながら、大きな進展は見られず、具体的な成果が現れているとは言い難い。NLD政権になってから、政治的解決へのプロセスは停滞しているという評価もある (ICG 2020)。なお、停戦合意が結ばれてからも、武装勢力と国軍との間に小競り合いは頻繁にみられた。現場では、お互いの兵士が頻繁に牽制行為を取っており、それがしばしば銃撃戦に発展するのである。たいていの場合、それらは局所的なものと判断され、大きな衝突に発展することは少ない。

いずれにせよ、テインセイン政権期以降も、ほぼすべての主要武装勢力は武装したまま、そして、支配地域を維持したままで、中央政府と停戦合意を結んでいた(その一方で小さな戦闘は散発的に発生していた)。そうした状況の中で、小規模勢力も存続し続けている。そんな状況の中で2021年クーデターは発生した。

少数民族の「ビルマ化」

では、山岳地帯における少数民族問題であるはずの内戦が、どのように市民運動と結びつくのか。そのことを理解するためには、ミャンマーでは少数民族の多くが、ビルマ語をしゃべり、主要民族ビルマ人と混じりあって暮らしていることを踏まえなければならない。

ミャンマーは主要民族ビルマ人を中心に回っている。社会や経済は、主にビルマ人の言語ビルマ語で回っており(ビルマ語は、日本語で「ミャンマー語」と呼ばれることも多い)、ビルマ人の習慣で世の中が動いている。行政言語もビルマ語であるし、公教育もビルマ語で実施される。少数民族が多い地域でも都市部の共通語はたいていビルマ語である。ミャンマーではビルマ語ができないと社会生活を送れないといっても過言ではない。そんなビルマ人中心の社会に少数民族も溶け込んでいる(武装勢力の支配地域や、少数民族の住む地域でも奥地に入ると事情は変わってくる)。

そもそも少数民族の一部がビルマ語を使うというのは、独立以前から珍しいことではなかった。主要民族ビルマ人も含めて、お互いに影響を与えあっており、文化や習慣は変わり続けてきたのである(高谷2008; リーチ(1995[1970])。特に、ビルマ人の居住地域と近接し、彼らの影響を強く受けた地域では、少数民族も、社会生活のためにビルマ語を使ってきた。1931年にイギリス植民地政府によって実施されたセンサス(国勢調査)でも以下のような解説文が付記されている。

ビルマにおけるいくつかの人種(races)や部族(tribes)は服を変えるかのように言語を変える。彼らは、征服、吸収、孤立化といった経験に伴い、使用する言語を変える。さらには、力の強い近隣の言語への適応として言語を変える傾向もある。(Bennison 1933: 245)

いわば、イギリス統治時代、すでに少数民族の「ビルマ化」が見られたのである。

そうした状況に加え1948年に独立した新生ビルマの中央政府は「ビルマ化」政策を進めてきた。ビルマ人の文化や習慣に基づいた国つくりをし、学校教育でもビルマ語の使用が徹底された。1960年代以降は、公教育において少数民族言語を使用することを事実上、禁止し、少数民族もビルマ語を話すことが徹底された(Callahan 2003; Sai Khuensai 2018)。「ビルマ化」政策に関しては、少数民族の権利を侵害するものとして批判的に論じられる傾向が強いが(Callahan 2003)、本稿ではその帰結のみに注目したい。すなわち、少数民族の間でもビルマ語が広く話されるようになったのである。例えば、ノンフィクションライター、高野秀行は、1990年代の少数民族シャン人たちについて以下のように記している。

ミャンマーでは公共の場所ではビルマ語しか使用してはいけない。学校の授業もテレビも外で友だちと話をするのもビルマ語だけ。その結果、彼女は両親ともシャン人でありながら、ビルマ語の方がはるかに上手になってしまっている。というよりビルマ語ネイティヴなのだ。シャン語は聞く分にはだいたいわかるけど、話す方はよくできないという。(高野2021)

このように、少数民族の中にも、ビルマ語をほぼネイティヴとして用いている。こうした状況を考えると、少数民族やビルマ人という区別なくクーデターに反対したとしても不思議はない。

事実、クーデター直後に各地で開催された街頭デモには、少数民族も多く参加した。筆者には少数民族の知人が多いが、彼らの中にも、少なからずデモ隊に参加した者がいた。何人かがデモ隊の中から動画を撮影し、それをFacebookに投稿したのである。服装などからは区別はできないものの、デモ隊の中には少なからず少数民族が含まれていたといえよう。さらに、街頭デモの参加にまだ危険がなかった頃(クーデター発生から数週間)、少数民族の中には民族衣装を着たり、少数民族の旗を掲げたりして、あえて少数民族であることをアピールして行進する者もいた(Associated Press 2021)。

図3.シャン州の州都タウンジーでのデモの様子

デモ隊の中にシャン人、パオ人、カレン人の旗を見ることができる。(2月28日、筆者友人による撮影、一部加工あり)

さらに指摘したいのは、ビルマ語のほぼネイディブであるという少数民族の状況は、武装勢力の活動へと身を投じた人々にとっても同様であったことである。武装勢力に参加し、武装闘争を続ける人々にとっても、ビルマ語は身近な言語なのだ。私がメインで追っているシャン人の武装勢力RCSSを事例に取り上げよう。その指導者ヨースック(Yawd Serk)は自伝を記しているが(隣国タイでタイ語で出版されている)、それを読むと彼が若い頃、ビルマ語で社会生活を送ってきたことが見て取れる。彼が生まれてから武装勢力に入るまでのくだりを要約すると次のようになる。

私は、ビルマ政府の支配地域に育ち、ビルマ語で教育を受けてきた。16歳で初等教育を終え、その後は、親戚の商売の手伝いでシャン州各地を転々とした。その間に、シャン人がビルマ国軍に虐げられているところを目撃したり、村人に変装して滞在するシャン人武装勢力の戦闘員と出会ったりした。その経験からシャン人はビルマと一緒にいるべきではないと思い反政府活動へと身を投じることにした。私は友人と一緒に、顔見知りとなった司令官がいるはずの森へと向かった(Nipatphon ed. 2017)。

この事例にみられるように武装勢力の司令官や戦闘員であっても政府支配地域で育ち、ビルマ語で教育を受けてきた者は少なくない(注5)。こうした状況もあり、武装勢力関係者たちは、私のような外国人に対してしばしば「我々は中央政府と戦っているのであり、ビルマ人と戦っているのではない」という言い方をする。     

少数民族の中には、ビルマ人を中心とする社会において、ほぼビルマ人と変わらない生活を送る者がいる一方で、民族意識に目覚めて武装勢力の活動へと身を投じる者もいる。こうした状況から、少数民族にとって、知人や親戚が武装勢力に参加していることは珍しいことではない。政府の支配地域に住み、ビルマ語を日常的に使い、ごく一般的な生活をしている人が、武装勢力に参加している親戚と携帯電話でメッセージのやり取りをする。そんなことも珍しくはない。そうしたつながりがクーデター後に活用され、一部の市民が武装をするようになった。

(注5)もちろん、武装勢力の支配地域で育った人やへき地で育った少数民族はその限りではない。新聞記者、北川成史はミャンマー語の通訳を伴って中国国境周辺を支配地域とする武装勢力「ワ州連合軍(United Wa State Army: UWSA)」の支配地域へと取材に行った(UWSAは政府と二者間停戦合意は結んでいるが、NCAには参加していない)。その支配地域では、ワ語の他、中国語が通じるもののビルマ語を使える人を探すのに苦労したという。ビルマ語を話す通訳が使えないのだ(北川2021: 142-146)。その一方で、隣国タイでカレンニー人難民の研究をする久保忠行は、ビルマ語を用いてカレンニー難民の調査をした(久保2014)。カレンニー人の言葉は方言差が強いため、カレンニー人の間でもビルマ語で会話しているのだという(久保氏との個人的な会話より)。 

PDFはひとつの武装勢力ではない

では、クーデター後、市民はいかにして武装するようになったのだろうか。まずは大きな流れをおさらいしよう。前述のように5月5日、亡命政権NUGは軍事部門PDF(人民防衛軍)を創設し、9月7日に軍事政権に対する防衛戦争の開始を発表した。さらにNUG側は、市民側によって実施された各地の攻撃をまとめてニュース動画として配信している。こうした動きを見ると、あたかもNUGが全体の動きをコーディネートしているかのように見える。

しかしながら、実態は、各地で自警団が独自に組織され、独自で行動をしているにすぎない。亡命政権NUGはそれを市民側と総称しているのである。そもそも、5月5日にNUGから出されたPDF(人民防衛軍)の創設発表も、「各地でPDFを作れ」という市民に対する呼びかけであったと考える方が正確である。ミャンマーの最大都市ヤンゴンに住む日本人のひとりが、5月22日に次のような書き込みをしている。

PDF創設の宣言を聞いた当初、私は民主派政府(NUG)が少数民族武装勢力を軍として組織するのかな〜、まだしばらく時間かかりそうだな〜、と思っていた。ところが、予想外にミャンマー各地で「PDF」の名を冠した組織が、ボコボコ誕生し始めた。どうやらNUGのアナウンスに呼応する形で、市民たちが自発的に「防衛隊」なるものを立ち上げているようだ。ヤンゴンでもすでに地域ごとにいくつか防衛隊が立ち上がった。姿形は見えないが(見えたら軍に攻撃されてしまう)設立を宣言する文書がSNSで出回るので、あぁ、あの地域にもできたんだな、とわかる。ミャンマー人の同僚に、どういう組織なの?と聞いてみると、彼女はこう答えた。「誰が参加しているか、何人規模なのか、そういう情報は何もわからないの。…私たちも、アナウンスが出て初めて知るんだから」…同僚が仕事の手を止めて、説明してくれる。「今は、NUG(民主派政府)のアナウンスを待ってるんだよ。来たるべき時がきたら、みんな一斉に立ち上がろうというわけ…NUGの防衛省が昨日アナウンスを出したの。来たるべき時に備えて、軍事訓練を受けるように。そのうち作戦を伝えるから、それに従って行動してください」、って」。(「ミャンマーより」2021[5月22日書き込み])

この書き込みからも、NUGによるPDF設立宣言を受けて、各地で自警団が自発的に設立されたことがわかる。軍事部門PDFとは、実のところ各地で設立された自警団を十把ひとからげにして、あたかもひとつの勢力のような体裁を取ったに過ぎない。

図4.PDFの軍事訓練の様子

Irrawaddy誌2021年5月5日の記事より

そのことを理解すると、9月7日に亡命政権NUGが行った軍事政権に対する防衛戦争開始の発表についても、自然とその意味が理解できる。NUGは「すべての市民は手を取り合って軍事政権に抗せよ」という指令を各地で作られたPDFに対して出したのである。前述のように、それにより各地で爆破事件や国軍に対する攻撃が相次ぐことになった。

さらに、市民による自警団すべてが亡命政権NUGの指令を受けて設立されたわけでもない。街頭デモによる弾圧を受けて、自ら武装し、自警団を作ることになった事例も少なくないからである。こうした自警団は、NUGによる呼びかけとは関わりなく、国軍の弾圧から自分たちを守るために独自で活動を始めた。後にNUGに従うことを表明したり、PDFへの参加を表明したりする武装自警団もあったが、独自に行動していることには変わりがない。ある報告書はその状況を次のように記す。

〔クーデター後、国軍〕という脅威に直面したことで、市民たちは自警のために民兵(militia)〔※1〕を組織した。こうした民兵はいくつかの地域で現れた…特に、すでに民兵〔2〕がいたり、民族武装組織(ethnic armed group)がいたり、狩猟の伝統が強いところでこうした動きが顕著であった。彼らには武器へのアクセスがあり、かつ、地元の地理を知り尽くしている。(ICG 2021a)

「民兵」とは、民間人によって組織された軍事組織のことである。※1はクーデター後に市民によって設立された武装自警団のことである。それに対して、※2は内戦における小規模勢力のことを指している。本報告書が指摘しているのは、※1の民兵(本稿でいう武装自警団)は、内戦の影響下にあるところで作られる傾向が強いということである。

武装自警団は亡命政権NUGと関わりなく活動するものも少なくなかった。ゆえに、国軍に対する攻撃や爆破事件は、NUGが宣戦布告をする前から各地で続いていた。その中には、民間人を巻き込んだり、学校をターゲットとしたりするものもあった。市民による抵抗運動に規律を持たせるために、亡命政権NUGは、5月26日に抵抗運動に関する倫理規定を発表した。その中には学校や医療施設への攻撃の禁止、市民への攻撃禁止という条項がある。それにより、学校への攻撃は減ったものの、まったくなくなったわけではない(ICG 2021a: 5-6)。NUGが各地の自警団を統制できているわけではないのである。

武装自警団はどのように作られたのか

市民によって作られた自警団の中には、大規模な活動をしている勢力が、いくつかある。例えば、チン州のチン防衛部隊(Chinland Defense Force: CDF)、ザガイン地方域のカレー市民軍(Kalay Civil Army)、カヤー州のカレンニー国民防衛部隊(Karenni Nationalitie Defense Force: KNDF)である(ICG 2021a)。国軍は、こうした武装自警団を鎮圧することに躍起になっており、人権侵害も辞さない態度で挑んでいる。そうした自警団と直接かかわりのない市民もトバッチリをくっており、国軍との交戦によって無人となった町もある(Myanmar Now 2021b)。

では、これらの武装自警団はどのように作られたのだろうか。2つの事例を取り上げる。これらの事例は、最も大規模な武装自警団の活動状況を示しており、最も極端な例だといってよい。ニュースで取り上げられるのは、こうした類の自警団である。なお、本節の記述は断りのない限り、シンクタンク「国際危機グループ」(International Crisis Group)の報告書『国軍に照準を向ける―ミャンマーのクーデターに向けられた新しい武装抵抗―』(Taking Aims at Tatmadaw)に依拠した(ICG 2021a)。本報告書は入念の現地調査に基づいて作られた報告書であり、6月末に出版されている。その中から10月末現在でも頻繁にニュースに登場する武装自警団を取りあげたい。

一つ目が、CDF(チン防衛部隊)である。CDFは端的にいうとチン州(Chin State)の自警団の連合体だといえよう。チン州は、インドと国境を接する州であり、他の国境地域と同様、山間部が多い。少数民族の中でも比較的小規模な集団が多数住んでおり、「ミャンマーにある107の言語のうち、3分の1がチン州に集まっている」といわれるくらいである(Seekins 2017: 151)。

CDFには、チン州内にある9つすべての郡区(township)から自警団が参加しており、その結成はクーデターから2ヶ月後の4月2日のことであった。4月23日に、はじめて国軍と交戦している。その舞台は小さな町ミンダ(Mindat)である。ミンダは人口1万人ほどの人口を擁し、山の尾根に張り付くように家々が並ぶ(Department of Population 2015: 51)。この町に住む人々は、クーデター後、現地に駐留する国軍部隊と非公式な合意を交わした。平和裏に活動している限りデモ隊を拘束しないという約束を取り付けたのである。しかし、軍事政権に反対するビラを貼っていた7名が国軍によって拘束された。4月23日、人々は彼らの解放を求めたデモを決行した。

それに対して、治安部隊(原文ではsecurity forces―国軍や警察のこと)はデモ隊へと発砲し、それは人々を警備していたCDFとの交戦に発展した。その日、治安部隊側にも3名の死者を出した。その後、さらに事態は悪化し、CDFと国軍は本格的に対峙することになった。5月中に何度か交戦があり、国軍とCDFの間に何度かの交渉も持たれた。交渉では、これまでに拘束された市民の解放や、市街地からの双方の撤退、そして、CDF団員を罪に問わないことなどが提案されたものの、折り合いがつかなかった。

国軍は、CDFの掃討のためにトラックおよびヘリコプターで増派をし、それに対してCDF側はトラックの車列を襲撃して武器を強奪した。さらにミンダ周辺の村々へと散らばり、国軍に対してゲリラ戦を展開することになった。ICG(2021a)は6月末までの状況を示しているが、その後もCDFと国軍の対立は続いた。9月23日の報道では、ミンダのCDFが国軍兵士に対して、「CDFに加われば安全を保障し、適切な賃金も支払う」と呼びかけていることが報じられた(Irrawaddy 2021f)。さらに、チン州の別の町、タンラン(Thantlang)では、CDFが武装勢力「チン民族軍」(Chin National Army: CNA)と共同戦線を張り、国軍と対峙したという。それにより住民は町を放棄して周辺へと逃げ、8000人いたタンランの町はほぼ無人となった(Irrawaddy 2021e; Myanmar Now 2021b)。

チン州の人々が国軍と対峙することができたのは、この地域の人々が日常的に狩りをしていたのと同時に、内戦の影響があったからだといわれる(ICG 2021a)。市民の中には猟銃を使える者がおり、地形を知り尽くしていた。さらには、CDFの活動地域は、デリー政府に対抗するインドの武装勢力の武器調達ルートとも重なった。それに加えて、武装勢力CNAの関与もあった。現地の人権団体「チン人権組織」(Chin Human Rights Organization)はFacebookページで、国軍とCDFとの交戦について頻繁に報告しているが、そこに掲載されている写真ではCDF側も、相当な武装をしていることが見て取れる。

二つ目に取り上げるのが、カヤー州で見られた武装自警団KNDF (カレンニー国民防衛部隊)である。カヤー州はタイと国境を接しており、カレンニー人の武装勢力「カレンニー民族進歩党」(Karenni National Progressive Party: KNPP)が活動している(KNPPはカレンニー人を、カヤー人を含む州内諸民族の総称としている)。

同州の町ディモソー(Demoso)は人口5600人ほどの町である(Department of Population 2015: 50)。他の町と同様、クーデターが発生した後、人々は街頭デモを実施した。この町では街頭デモがエスカレートし、市民はバリケードを敷いた。猟銃で武装した市民もいたという。国軍はバリケードを撤去するように求めたが、市民は拒否し続けた。5月20日、国軍はバリケードの強制排除に動く。しかし、翌日、武装した市民はそれを押し返した。

その背後には、武装勢力による市民への協力があった。KNPPをはじめ、カヤー州で活動するいくつかの武装勢力が市民と協力することでディモソーの3つの警察署を掌握し、その2日後には25km離れたモビェ(Moe bye)の警察署を襲撃した(モビェは、カヤー州=シャン州の州境にある町でシャン州側にある)。この襲撃により国軍兵士と警察あわせて20人余りが死亡し、4人が市民側に拘束された。この武装自警団は「カレンニー諸民族防衛隊」(KNDF)と名乗り、その後も活動を続けた。ICG(2021a)が出版された6月末以降の状況をみると、KNDPはカヤー州とシャン州の一部で活動を続け(シャン州での活動域はカヤー州と隣接する地域に限られている)、9月末にも軍の車列を襲撃したとの報道がなされている(Irrawaddy 2021g)。

図5.カヤー州の武装自警団、KNDF (カレンニー国民防衛部隊)

Irrawaddy誌、2021年9月17日の記事より

これらの事例から読み取れるのは、内戦の影響がある地域では、市民にとって武装という選択肢が身近であったことである。

クーデター後の少数民族武装勢力

では、内戦の主体である武装勢力は、どのように市民運動と関与しているのだろうか。もちろん、武装勢力は複数あり、その立場も一様ではない。市民側に立つ武装勢力がいる一方で、傍観の立場を貫く勢力もいる。本節では市民側に立つ主要武装勢力の動向についてまとめたい。

クーデターが発生すると、一部の武装勢力はただちに国軍を非難した。クーデターの翌日(2月2日)、カレン人勢力KNUは「国軍による全権掌握は民主的政治への変化を妨げる」というメッセージを発信した。さらに同日、シャン人勢力RCSSの報道官は、「RCSSは連邦制と民主主義の原則を支持する。民主的に選ばれた政府を転覆させることは民主主義の原則に反する」とコメントした(Myanmar Now 2021d)。NCA(全土停戦合意)に署名した武装勢力も、クーデターから三週間後に、国軍が「人々の自由を制限」し、「民主主義を後退させた」との見解を示した(BNI Multimedia Group 2021a)。

しかしながら、市民側に立つことを表明した武装勢力であっても、必ずしも亡命政権NUGと歩調を合わせているわけではない。前述したように、NUGは軍事部門PDFを創設し、少数民族武装勢力と手を組んだ上で、連邦民主軍を作るという構想を発表し、9月7日に国軍に対して「すべての市民は手を取り合って軍事政権に抗せよ」と防衛戦争の開始を訴えた。しかし、武装勢力はその流れに乗っかったわけではない。NUGの設立に対して賛同を表明したものの、連邦軍への参加については留保をしたし、防衛戦争への参加をオフィシャルに表明する勢力もなかった。カレン人勢力KNUやカチン人勢力KIOは、クーデター後、独自に国軍との戦闘を再開しているものの、オフィシャルな形でNUGと連合することは避けたのである(Hmung 2021)。

その一方で、KNUやKIO、そして、カレンニー人勢力KNPPは、逃げてきた人々を支配地域にかくまい、希望者に対して軍事訓練を施した(Frontier Myanmar 2021)。例えばKNUはクーデター直後、デモ隊を護衛するなど、市民の側に立った行動を取った (停戦合意があるため、こうしたことが可能となる)(BNI International 2021b)。その後、国軍による鎮圧行動が激しくなると避難民をかくまい、希望者には軍事訓練も実施するようになった(Peter 2021)。亡命政権NUGのメンバーはKNUの支配地域にかくまわれているのではないかという話もある (ICG 2021b; Irrawaddy 2021d)。

こうしてみると、市民側に立つ武装勢力は、表舞台の政治の世界ではNUGとは距離を取り、様子見を決めこんだ一方、ウラでは武装闘争を志す若者たちに軍事訓練を実施したり、自警団と協力したりという関与を続けたのである。

武装勢力の支配地域に向かう若者たち

では、少数民族支配地域ではどのようなことが起こっているのか。そのことを理解するためにも武装勢力側に逃げ込んだ若者たちの経験を先に示す。ミャンマー中部の都市、バゴー(Bago)の事例である。バゴーは平野部に位置しており、人口は25万人と、これまでの事例と比べると比較的規模の大きい町である。民族構成についてのデータは入手できなかったものの、「ビルマ人が多数を占めるが、モン人やカレン人も目立つ」という(バゴー郊外に実家があるビルマ人と筆者はたまたま知り合いだった)。

クーデター後、バゴーでも、連日デモが続いた。バゴーの反政府デモは、バリケードを作り、市民と治安部隊が向き合う事態にまで発展した(3月12日)。その後、デモ隊に対する銃撃があり、人々は土嚢を積んで水をかけ、バリケードを強固なものにした。さらには夜間にも見張りを立てるようになった。町を貫く三本の目抜き通りには、何重にもわたりバリケードが設置された(4月初旬)。

4月9日未明、国軍は「デモ隊」の鎮圧行動に出る。町を包囲し、あらかじめ逃げ道を防いだ上で四か所から一斉に攻撃を開始した。内戦でも使われるような武器が使われ、ドローンによる偵察もなされた。バリケードもなんなく突破されたそうだ。路地裏や川べりなどに追い詰められた市民が容赦なく殺害されたという証言もある。少なくともこの日だけで82名の民間人が死亡した。この事件は、これまでの状況と比べても大規模な事件であったためにメディアでも大きく取り上げられ、NHKは事件のプロセスを詳細に検証している(Myanmar Now 2021c; NHK 2021b)。

この事件に巻き込まれた若者の中には武装闘争を決意した者もいたそうだ。本事件を取材したジャーナリスト、舟越美夏は、鎮圧行動の後、「デモ隊」に参加した若者たちをこう描いている。

現場から辛くも逃げられた若者たちは郊外の村々に向かった。国軍は近隣の村々を攻撃して捜索し、隠れていた若者らを逮捕した。一日中歩き続け、たどり着いた町で夜を明かした若者たちもいる。彼らは市民の助けを借りて車で密かにバゴーの僧院に戻り、そこからさらに別の市民が運転する車に乗って約320キロ南東にあるKNU支配地域に向かった。(船越2021)

彼らは武装闘争を志し、武装勢力の支配地域に向かったのである。シャン人の武装勢力RCSSの議長が、かつて武装闘争に参加することを決め、武装勢力の支配地域へと向かったように、同じような決意をした若者たちが、クーデター後にもいたのである。

武装勢力支配地域で起きていること

若者たちはその後、どのような経験をすることになったのだろうか。筆者も正確な情報を得ているわけではない。だが、冒頭で記した噂の続きが役に立つはずだ。その噂の全容を記すと以下のようになる。

その村は、ある武装勢力と中央政府との間で停戦合意が結ばれた後に作られた村であった。停戦の象徴として武装勢力の支配地域ではあるが、政府支配地域にほど近い場所に設置された。隣国の難民キャンプから難民たちが呼び戻され、この村に住んだ。すなわち、この村は新しい村である。外部資金で新しい住宅も次々と提供され、電気もある。国際援助機関も帰還事業を推進したこともあり、ミャンマーに戻ることを決意した難民たちが次々と引っ越してきた。

この村の村長は、かつて武装勢力の司令官であった。もちろん、今でも武装勢力とのパイプはある。そもそも、この村は武装勢力の支配地域にあるのだ。しかしながら、村長は、武装闘争のことは忘れ、政府や国際援助機関とパートナーシップを結び、村の発展に力を入れた。産業育成事業やコミュニティ活動育成事業に力を入れ、国際援助機関の支援も受け入れた。

そうした中でクーデターが起きた。村長たちはクーデター後に逃げてきた人をかくまうことにした。最初に逃げてきたのは不服従運動に参加した公務員たちだったという。新築の住宅を彼らに解放した。さらには都市部から若者がやってきた。村長は、彼らに軍事訓練を施し、自らがPDFのリーダーを務めることにしたという。若者に対する軍事訓練はピンキリだったようだ。数週間の短期の訓練で送り返される者もいれば、数カ月間本格的な訓練を受ける者もいた。爆弾づくりの訓練を受けた者もいる。

さらには村でも爆弾づくりを始めた。しかし事故が多発した。

こうして冒頭で記したように事件が発覚したのだという。この噂の出どころはあるSNSで回ったニュースである。こんな記事が流れてきたのだとミャンマーに住む友人に教えてもらった。そのSNSは、テレグラム(Telegram)という。セキュリティが強固なため、クーデター後に使われるようになった。

早速、そのアプリをスマホにダウンロードし、教えてもらったいくつかのチャンネルに登録するとすぐにニュースが配信されてきた。あるチャンネルでは一日に十件以上もニュースが配信される。そのひとつを翻訳ソフトにかけると、ある地方で国軍の司令官だった者が、離脱してPDFの司令官になったという話であった。もちろん、フェイクニュースも飛び交う状況であるため、本当かどうかはわからない。上述の村についても信ぴょう性がないため、武装勢力名や村の名前は開示せず、あえて「噂」とした。

おわりに

本稿では、内戦という土壌があったからこそ、市民が武装しやすい状況にあったことを指摘した。しかしながら、市民側を非難しているわけではない。軍政側は人権侵害を辞さない弾圧を続けてきた。狙撃兵を用いてデモ隊の参加者を銃撃したり、実弾を用いたデモ隊の鎮圧を図ったりした。市民運動を鎮圧するために市街戦さながらの軍事行動を取ったこともある。不当な拘束、および、拷問がなされているという証言もある(Human Rights Watch 2021; NHK 2021a, b)。武力で軍政に抵抗しようという急進的な動きがでてきたのも不思議なことではない。私も心情としては、ミャンマー市民の側に立っている。

実は、本原稿を書くために何人かの友人に連絡を取った。それらは私が一方的にミャンマーの状況を聞くというものであったともいえよう。そのうちの一人とは、何度もショートメッセージをやり取りし、さらにはSNSに投稿した写真も使わせてもらった。しかし、それにも関わらず、彼の方から「ありがとう。とても感謝している」というメッセージが送られてきた。私が「それは私のセリフだよ」と返すと、次のメッセージにはこう書かれていた。「もし国際的な報道がなければ、誰も私たちの国のことを知りようがない。だから、ありがとうといったんだ」。

Facebook上では、ミャンマーや日本に住むミャンマー人の友人たちが連日のように政治情勢や現地の生活の苦しさについて投稿している。現地で開発事業に関わる日本人たちも必死で支援を差し伸べようとしている。そして、日本でもミャンマーの人々が街頭で募金活動を繰り返している。私が暮らす京都でも、ミャンマーの人々が街頭で募金活動をしている姿を一度だけ見かけた。電車の時間まであと3分しかないものの、私は、少しだけ立ち止まり、少しだけ募金をした。そして、去り際に抵抗のシンボルマークである三本の指を掲げ、彼らに賛同の意を表明した。電車には数秒の差で乗り遅れてしまった。

なお、ミャンマーも新型コロナウイルス感染症と無縁ではない。デルタ株の侵入に伴う第二派のピークが7月にあった(現在では感染者数は減少している)。ピーク時の数週間には、酸素が足りないこと、そして、火葬場が死者であふれかえっていることが各地でFacebookに投稿され、拡散された。クーデター後、行政機能がマヒしていることもあり、一時はひっ迫した状況であった。最後に十分取り上げられなかったとして簡単に指摘しておく。

#本記事作成に当たり、ミャンマーに住む友人たちから情報や写真をいただきました。ありがとうございます。また、写真の使用を許可していただいたイラワディ誌には深く感謝します。I express my thanks to my friends in Myanmar who offered information and allowed me to use their pictures. I also would like to show my appreciation to the editor of The Irrawaddy who gave me permission to use valuable pictures for this article.

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<映像>

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プロフィール

岡野英之フィールドワークに基く政治研究・武力紛争研究

文化人類学者。1980年三重県生まれ。近畿大学総合社会学部・講師。大阪大学大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。西アフリカや東南アジアで現地調査を行い、武力紛争や平和構築、国家の統治(汚職や人脈)について研究してきた。ここ数年はタイ=ミャンマー国境について調査している。最近の論文に「タイにおけるミャンマー避難民・移民支援と武装勢力」(『難民研究ジャーナル』、2020年)、「シエラレオネにおける国家を補完する人脈ネットワーク――エボラ危機(二〇一四-二〇一六年)からの考察」(末近浩太・遠藤貢 編『紛争が変える国家』所収、2020年)。

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