2023.09.04

「シルバー・デモクラシー」の虚偽

吉田徹 ヨーロッパ比較政治

政治

「シルバー・デモクラシー(シルバー民主主義)」という言葉が人口に膾炙してから久しい。その象徴として、国政選挙での若年層の低投票率などが取り上げられる。これは選挙報道で各党や各党候補者を平等に扱えず、かといって政策検証などは関心をひかないため、中高年視聴者や読者のための恰好のネタでもあるからだ。ただ、その効果は無視できないと見え、メディア関係者のみならず、大学生などと会話していると、日本の民主主義の問題点として、必ずといっていいほどなされる主張だ。なお、先の2021年衆院選で60代の投票率は71%、対して20代の投票率は36%だった。

そもそも「シルバー・デモクラシー」は何を意味するのか――もっとも早くこの言葉を使ったのは、著名な政治学者だった内田満が1986年に著した『シルバー・デモクラシー 高齢社会の政治学』(有斐閣)だと思われる。ただ、これは長寿社会を迎える日本で、高齢者がいかに政治参加への回路を主体的に切り開くのかを問うた著作であり、この用語を現在のような意味合いで使ったものではない。

「シルバー・デモクラシー」とは何なのか?

財政学が専門の島澤諭は、いくつかの「シルバー民主主義」の指摘をまとめて、これを「高齢者が数の力を背景に投票プロセスを介して政治を支配し、高齢世代に都合の良い仕組みを構築・維持しているため、若者が困窮しているという現状認識」のことだと定義している(同『シルバー民主主義の政治経済学』日本経済新聞出版社、2017年)。確かに、こうした認識は一般的だろう。例えば2017年衆院選に際して、日経新聞は「政治家が人口が多く投票率の高い高齢世代の投票を意識すれば、将来世代を見据えた税制や社会保障制度の見直しに取り組みづらくなる。『シルバー・デモクラシー』とも称されるこうした傾向を変えるためには、若い世代が積極的に投票し、声を上げることが必要となっている」との論説を掲載している(2017年10月12日付け朝刊)。

こうした認識は、専門家もまた共有しているものだ。2022年参院選に際して、政治学者の小野耕二は「日本にも『シルバー・デモクラシー』の問題があります。つまり、若者の投票率が低いため、政治家が高齢者の声に耳を傾けがちになり、高齢者の声が通りやすい政治が生まれる、という状況です」とインタビューで答えている(朝日新聞、2022年6月28日付け朝刊)。

また、経済学者の八代尚宏は『シルバー民主主義 高齢者優遇をどう克服するか』(中公新書、2016年)で「急激な少子高齢化により、有権者に占める高齢者の比率が増加の一途にある日本。高齢者の投票率は高く、投票者の半数が60歳以上になりつつある。この「シルバー民主主義」の結果、年金支給額は抑制できず財政赤字は膨らむばかりだ」と指摘している。

また最近の研究の松林哲也『何が投票率を高めるのか』(有斐閣、2023年)でも「若年層、中年層、高年層では求める政策が異なります。低投票率の選挙では投票に占める高年層の比率が高くなるので、高年層の望む政策が実現されやすくなります」(187頁)として(もっともその根拠は本書では提示されていない)、間接的に「シルバー・デモクラシー」の問題を指摘している。

超・高齢社会となる日本で、若年層の低投票率と相まって、高齢者の票や政治的意見が問題視される状況は理解できないでもない。そもそも高齢者数は2060年頃まで増え続ける見込みで、何等かの奇跡的状況が起きて出生率が爆発的に上がらない限り、シルバー・デモクラシーから脱する方法はない。こうした状況を受けて、中には「年齢別選挙区」を導入し、平均余命に応じて議席を配分するというアイディアも出されるようになった(小黒一正・石田良「「余命投票方式」の移行可能性に関する一考察」 Center for Intergenerational Studies, Institute of Economic Research, Hitotsubashi University, Discussion Paper Series No.562, 2012)。

もっとも、人口数として高齢者が多いという事実と、その高齢者の利益や意見だけが政治を支配しているという「シルバー・デモクラシー」とは分けて考えなければならない。そればかりか、いくつかの傾向や数値を確認する限り、日本は先に定義されるようなシルバー・デモクラシーであるとは言い難いのである。

「シルバー・デモクラシー」の3バージョン

このことを確認する前に、いまいちどシルバー・デモクラシー論に立ち戻ろう。具体的な論者の名などは挙げないが、精査する限り、シルバー・デモクラシーがなぜ問題なのかを主張するものには、3つのバージョンがあることが確認できる。

ひとつは、本稿で「世代間対立言説」と呼称する立場だ。これは、財政学者や経済学者らの主張に典型的にみられる。この言説は、高齢者の高い投票率と若年層の低い投票率のため、退職者・高齢者偏重の社会保障制度が維持され、このことによって将来世代の利益が喪失される、と主張する。確かに日本の社会保障給費は1950年に1260億円だったのが2014年時点で112兆円へと膨らみ、高齢者関係給付費も名目GDP比でみると73年の1.3%だったのが、14年には16%へと10倍近く増加している。かくして、財政赤字のツケは将来世代の負担となって生じている、というものだ。

次の主張は、ここで「改革志向言説」と呼ぶシルバー・デモクラシー論である。これは、「世代間対立論」からの派生で、やはり経済学・財政学者によくみられる主張である。すでにGDP比で230%を超える債務を抱えているにも係らず、その財政支出の3割を占める社会保障のうち、年金と医療という高齢者が受益者する支出が8割を占める一方、彼らが政治家や政党の「上得意客」であるため、政治が財政支出改革に手をつけられない、というものだ。思い切った支出改革が必要であるにも係らず、それができないのは高齢者が有権者の多数だから、という理屈である。

最後に挙げられるシルバー・デモクラシー論は、「アクティビスト言説」とでもいうべきものだ。これは、若年層の全般的な政治参加の不調が、いわば「老人支配」の社会を創り上げており、ここから、若年世代の抱える教育や孤立といった様々な問題が手つかずのままになっている、とする立場だ。とりわけ選挙の際に若年層の投票の必要性を呼び掛ける当事者たちが共有している問題意識であり、若者への投票を呼び掛けるアクティビストらが熱心に用いる論法である。

論拠はどこにあるのか?

もっとも、それぞれの主張には、その論拠の前提に難があることも事実である。

これについては、「世代間対立言説」を取り上げてみよう。

まず、高齢者偏重の社会保障制度を求めたのは、決して自らの利益を重視する高齢者自身たちではない、という単純な事実が挙げられる。日本の年金制度は1954年から拡充されていき、医療費が無料になったのは「福祉元年」とされる1972年のことだが、この時代の高齢化率は10%未満で、日本が最も若い時期、すなわち若年層が相対的多数派を占めていた時代だった。つまり、現在に至る社会保障制度は、来るべき高齢社会を見据えた措置であった。日本の雇用慣行とセットになった生活保障は、働けなくなった時点で手厚いセーフティネットを必要とするから、社会保障制度は相対的に「人生後半」で手厚いものとなる(制度が違うため単純な比較はできないものの、それでも日本の公的年金の所得代替率は欧州大陸諸国の半分程度に過ぎない)。

もし仮に日本財政に占める高齢者向けの社会保障費が問題だとしても、それではこうした福祉国家の在り方を変えるためにそれを単純に削ってよいということにはならないだろう。若年層も、年齢を重ねればこうした支出の受益者となることを忘れてはならない。

次の「改革志向言説」が寄って立つ前提にも疑義が残る。日本は、上述のような「シルバー優遇」はあっても「シルバー民主主義」はないとする先の島澤の『シルバー民主主義の政治経済学』に詳しいが、そもそも高齢者向けの社会保障支出は伸び悩んでいる状況にあるし、しかも投票者年齢と社会保障支出動向の間に直接的な関係はない。投票率と社会保障政策の展開をみた時、高齢者が投票するから、社会保障制度が拡充される、という因果関係は発見できないのである。

そもそも、超高齢社会の到来に伴い、高齢者負担は近年増加傾向にあり、2015年には年金給付を抑制するマクロ経済スライドが導入され、2022年からは医療費負担割合の拡大などがあり、2000年から現在にかけて高齢者の社会保険料は倍増している。その反対に、岸田政権の「異次元の少子化対策」以前の民主党政権時代から、主に現役世代を対象とした家族関係支出は(不十分ながらも)増やされている。つまり、政権を問わず、長年に渡って高齢者負担増と現役世代向けの給付増が漸進的にではあっても進められており、高齢者の利益が最優先されているわけではないことが分かる。もちろん、給付削減が不十分だという主張はあり得るかもしれないが、少なくともトレンドとして日本がシルバー・デモクラシーであることの証拠は存在しない。

最後の「アクティビスト言説」だが、これも論拠が薄弱である。総務省「18歳選挙権に関する意識調査」(2016年)によると、18-20歳の有権者で投票に行った気持ちの理由として「若い人の声を政治に届けたかったから」を挙げたのは25%に過ぎず、最多数(39%)は「国民の義務だから」と回答している。つまり、若年層は少なくとも日本がシルバー・デモクラシーであると見なしていない。国際意識調査である「世界価値観調査(WVS-6)」では、日本の29歳以下のうち29%のみが「高齢者が政治的に大きな影響力を持っている」と回答している(なお同様に考える50歳以上の国民も19%存在する)。もちろん、この種の意識調査は設問文に多分に依存する。念のため公平を記せば、「投票率が高い高齢層寄りの政策が中心となりがちな「シルバー民主主義」だという意見」についての賛否を問う2023年の朝日新聞の世論調査では、全体で賛成するのは54%、反対が43%だったが、若年層で賛成する者は約8割いたという調査も存在している。

ただし、具体的な政策で世代別で食い違いがあるかどうかといえば、必ずしもそうではないという現状もある。例えば消費増税についての賛否では、反対する10代は47%である一方、20代は54%、60-70代では50%と、選好にそう大きな違いはない(連合調べ、2014年)。その他にも「個人と国家の何れを優先するか」といったマクロな政治的価値観でも、29歳以下と50歳以上はともに46%が「国家」を選択しており、その他の政策選好でも優位な差は見られない。つまり、「アクティビスト言説」が若年層の政治参加をいくら呼び掛けたところで、それによって異なる政策が選択される可能性は大きくない、ということになる。

「シルバー・デモクラシー」が流行る理由

このようにいくつかの論拠を精査するだけでも、シルバー・デモクラシー論の何れのバージョンも根拠が薄弱であることがわかる。そもそも、シルバー・デモクラシー論は「投票=政策決定」という民主主義理解が正しいという条件に基づいてはじめて成立する。実際には、有権者が選挙時に選好する政策がそのまま法律に転換されるわけではなく、有権者が政策だけで投票先を決めているわけでも、ましてやその世代的属性だけで選好が決まるわけでもない。おそらく現下の不十分な主権者教育も影響しているだろうが、単純な民主政治の理解こそがシルバー・デモクラシー論を蔓延らせる原因のひとつとなっているのかもしれない。

それでも、ひとつ確かなことは、他国と比較しても、現在の日本で若年層と呼ばれる世代の相対的な剥奪感が非常に高いということだ。これに関するものも様々な調査が存在するが、シンクタンクFondapolの世界35ヵ国の若年層(16-29歳、2011年実施)の意識調査をみてみても、日本で「いまの時代に満足している」とするのは33%(EUで55%、アメリカで68%)、「将来良い職に就ける」は32%(同65%、76%)、「高齢者の年金を払う用意がある」は35%(同52%、41%)と、現状に対する不満が高く、将来期待と世代間連帯の意識が低いことが分かる。若年世代は将来社会のいわば「先行指標」であり、彼らや彼女らが置かれた状況は主観的にみても決して芳しいものでないことは、シルバー・デモクラシー論が支持される環境的要因となっていることは確かだろう。

政治における「世代」とは?

もちろん、シルバー・デモクラシーの論拠を否定することは、若年層の低投票率を歓迎することを意味するわけではない。最大の問題は、全世代での投票率が低いことにある。一般的にどの国でも有権者は若ければ若いほど投票に行かず、中高年の投票率が高いという傾向を持つ。日本では全体の投票率が低いために、相対的に若年層の投票率も低くなっているのである。もし若年層の投票率を向上させたいのであれば、投票率向上に寄与するとされる期日前投票所の設置といった施策に加え、家庭を含む親密圏で政治についてオープンかつ恒常的に会話を交わし、日本社会に根強くある政治に対する忌避感を減らしていくべきだろう(これについては横山智哉『「政治の話」とデモクラシー 規範的効果の実証分析』有斐閣2023年を参照)。 

おそらく社会科学でもっとも包括的な形で最初に世代について論じたのは、社会学者カール・マンハイムの「諸世代の問題」(1928年)である。ここでマンハイムは、世代とは単なる生まれた年代に矮小化されるものではなく、社会に大きな影響を与える構造的変化の緩急や深度によって生まれるものだとしている。つまり、世代とは年代ではなく、その年代がいかなる経験をしたかというものによって把握されるものと提唱したのだった。

このように考えた時、日本のシルバー・デモクラシー論は、有意な政治的、社会的、文化的変化に欠き、それゆえに閉塞感に覆われている時代意識の表れとみなすことができるのかもしれない。そして世代を生み出すことのできない政治こそをシルバー・デモクラシーと名付けるのであれば、それに反対する理由はない。

(本稿は2023年EAJS〔ヨーロッパ日本研究協会〕研究大会分科会「Young people and civic engagement in Japan」での報告を再構成したものです)

プロフィール

吉田徹ヨーロッパ比較政治

東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程修了、博士(学術)。現在、同志社大学政策学部教授。主著として、『居場所なき革命』(みすず書房・2022年)、『くじ引き民主主義』(光文社新書・2021年)、『アフター・リベラル』(講談社現代新書・2020)など。

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