2012.10.19

地に足のついた復興を ―― 当事者として、国会議員として復興を考える

黄川田徹(衆議院議員)×飯田泰之

社会 #震災復興#復興予算

政府や自治体、NPO団体 からメディアまで、様々な視点で復興を考える必要がある。それらにはどのような共通点と相違点があるのか。自身も親族を亡くされた黄川田徹衆議院議員は、国会議員の中でも最も当事者性の高い方だろう。本震災における政府の対応を黄川田議員はどのように評価しているのか。自治体の対応など、これからの防災・復興を考えるための反省点はなにがあるのか。震災後、岩手県に入り復興を支援してきた経済学者・飯田泰之がインタビューを行った(構成/金子昂)

地に足のついた復興を

飯田 被災地の住民、ジャーナリスト、NPO団体などの体験、または専門家や研究者の知見を記録することで、被災の経験を悲劇で終わらせず、今後起こる大規模な災害に備えたいと思い、復興アリーナというプロジェクトを立ち上げました。

これは震災だけに限った話ではないですが、「評論家」は現地・当事者の状況と乖離しないでいることは非情に難しい。そうした「評論家」ではなく、実際に現地と繋がりのある方のお話を伺いたい。そこで、岩手県陸前高田市がご出身である衆議院議員の黄川田徹さんにインタビューのお願いをさせていただきました。

復興について考えるとき、大枠のシステムを決めるのは国会議員です。国会議員の中で黄川田先生が一番、今回の震災に関して当事者性が高いのは間違いない。

まずは率直な印象論で良いので、被災地が復興するにあたって大切なことは何かをうかがえればと思います。

黄川田 復興の際に重要なのは、地に足をつけて考えることです。田舎ですから、復興のシナリオを立てるときに、様々なアイディアを、個別具体に時系列で出せる人がどうしても少ない。また住民には地元学のようなもの、つまり町の歴史や地域の顔を復興の下地に考えたいという思いがあります。

私の生まれは陸前高田市の広田です。この町は貝塚が発見されるくらい大昔から、人が暮らしてきた土地です。長い歴史と文化があります。復興の際には、こうした文化を残していくことも考えていかなくてはいけません。この土地にとって、地に足をつけて考えるということは、それらを遵守することでしょう。

あるいはよく話題になる高台移転も、住居が高台に移転してしまうと、高齢者にとっては、商業地や博物館、図書館などの公共機関が、遠ざかってしまって不便になるという問題があります。ですから単純に高台に移転すればよいという話ではありません。その地域のそれぞれの問題をしっかり考えていかないといけないと思っています。

飯田 やはり新しく街を作っていくときに、コミュニティの再生は大きなポイントだと思います。阪神淡路大震災のときの長田区は、震災によって壊滅してしまった古い町並みから、人工的で綺麗な街にしたところ、コミュニティ感がなくなってしまって、いろいろなことがうまくいかなくなってしまいました。人工都市は本当に難しいのだということを認識することから始める必要があるでしょう。これに加えて、石巻を除くと三陸沿岸地区はもともと人口があまり多くありません。するとなかなか阪神淡路大震災のような復興の方法は取れないのではないでしょうか。

黄川田 三陸沿岸部は、典型的な少子高齢化の街です。漁場の近くに漁港と漁村が点々としていて、過疎化が進んでいるところであります。

飯田 土木建築業界の関係者からは人手が集まらないために工事すらはじめられないという話をよく聞きます。

黄川田 ここに予算と執行との乖離があります。復興元年となり国・県・市町村の公共事業がいっせいに始まり、予算の消化の交通整理も困難となっている上に、自治体としては出来るだけ地元にお金を回したいという気持ちからJV(ジョイントベンチャー、共同体企業)を組ませる形で取り組んでいます。しかし人も資材もないために、入札をかけても県内からの応札が不調に終わることもあります。予算があっても動き出せない事情にあるのです。

飯田 僕の専門は計量経済学のため、日本の公共事業の話をする機会がよくあります。どうも、いまだに多くの人の土木・建設業のイメージが昭和で止まってしまっているように感じる。つまり、日雇い労働者を集めて、現場に連れて行って仕事をさせていると思っている。いまはだいぶ違っていて、職人化しています。

黄川田 もともと陸前高田市は外から外貨を稼いできた町です。岩手には岩手日報という地方紙がありますが、今年の3月頃から、1周忌として、被災して亡くなられた方の顔写真を出しています。ここに掲載されている70代、80代のお年寄りの多くが、長年出稼ぎしてこられたと書かれています。私が市役所で働いていたころは、多い時で2000人もの出稼ぎ労働者がいて、市の観光課に出稼ぎ担当がいました。職人は技能労働者です。技術がなくてはいけません。

飯田 職人がいなくなってしまって復興が進まない。さらには震災をきっかけに職を失った人は、今後県外にでていくことが予想されますから、人口はもっと減ってしまうかと思います。そうした厳しい状況の中で小売店やサービス業の人は仕事をしていかなくてはいけない。しかし商圏がなくなってしまって、仕事にならない状況がある。

黄川田 それも悩ましい問題です。復興計画を考えるとき、公共施設の配置から完成までには5年もかかる。いまは仮設商店街で頑張っていますが、5年なんてもたないとおっしゃる方もおります。

親子3代の街づくり

飯田 仮設商店街の場合、残念ながら多くのケースでは、人の住んでいるところと離れていて便も悪いですよね。今のままではやっていけない。とはいえ、もとに戻すことも難しい。そうしたとき、どのようなビジョンでそれぞれの街を再生していけばよいとお考えでしょうか。

黄川田 ビジョンを作って、そこにあてはめていくような復興は無理だと思います。沿岸被災地の商店街は、首都圏にある郊外のように、住宅街にあわせて商店街が形成されたのではありません。代々住んできた人たちが、平場の人が集まりやすいところに少しずつ店を開いていった。ですから、このさい親子3代で町をつくっていくくらいの視点が必要になるでしょう。

飯田 ニュータウンの商店街はまるでうまくいってないですよね。ニュータウンは、当初は思いつかなかった問題が30年たってようやく出てきた。埼玉や千葉に代表される郊外に住む人たちは、きっとある程度都会だと思って引っ越してきたかと思いますが、いまや買い物のためにバスや電車を乗り継がないといけない。酷いところでは、役所がバスの往復便をだしているような場所もあります。

日本中のインフラ関連業者を総動員すれば、3年程度で人工の都市は作れるかもしれません。しかし、それよりは、長い年月をかけて徐々に再建していくほうが、町が活気づくと思います。さらに、人工的に作られた町並みは似通った風景ばかりでつまらなくなってしまう。

例えば東北新幹線を利用すると、新幹線各駅、そしてその駅前がどれも同じで全く面白味がありません。規模の小さな東京になっている。東京にはない街並みだからこそ、その土地の良さがあります。きっと突貫で生まれた町は、へたくそなミニ東京がそこら中にできるだけの結果に終わってしまう。

黄川田 その土地に住む人がその土地にあった町を作っていけばよいでしょう。身の丈に合ったコンパクトな町が必要だと思います。

東京や大阪、名古屋だって、30年後50年後には少子高齢化によって人口が激減すると言われています。いわんや、岩手はこの少子高齢化の最先端で動いている。つまりいま被災地をどうやって再生させるかを考えることは、これからの日本の課題を考えることになると思います。

公平性、公正性の問題

飯田 東日本大震災以降、行政の動きを黄川田先生はどうみていらっしゃいますか。

黄川田 私はもともと市役所の職員でした。今回の震災によって68人の正職員と32人もの臨時職員、嘱託職員が亡くなってしまった。もともと300人もいない市役所で100人以上の方が亡くなられたことは大きな痛手です。ただ県や隣接の市町からの応援とか、あるいは他県から派遣職員の方がいらっしゃって、人事交流ができたことはとても助かりました。

飯田 比較的、しっかりと自治体間の連携がとれていたところも多くみられたように思います。

黄川田 そうですね。それは例えば政令市例都市のように大規模な市は、何万人という職員がいるので、そこから100人くらい派遣ができたわけです。

一方で、実はたくさんの人が来たからといって、それがそのまま戦力になるとは限りません。というのも県庁と市役所では仕事がまったく違うんですね。これは自治体の規模が問題なのではありません。

例えば陸前高田市とは比較にならないほど大規模な、横浜市の職員がやっている仕事は、住民基本台帳に基づいて住民票を交付したり、戸籍を整備したり、税を取り仕切ったりすることです。予算規模は全く違いますが、同じように仕事をしている。一方、県庁の職員の場合、例えば税務を担当するにしても、県税と市町村税では違うため、すぐに対応できるとは限りません。そういうミスマッチが生じてしまうこともあります。しかしながら、それを乗り越えて支えていただいております。

私は国会議員ですから、平時は国会で法律をつくり、予算の厳しい自治体に交付税や交付金などの手当てをしてきました。復興を考える際に重要なことは、地に足をつけることです。平時は100億円くらいの予算でやってきた市に、復興のためといって大金を渡されても、なかなか迅速に対応できません。ましてや100人以上もの職員が亡くなられているわけです。

飯田 人材が足りない状況があるわけですね。

黄川田 さらに役所は単年度予算で動かなくてはいけません。たくさんの予算をもらったら、それをできる限り消化しなければいけない。その体制がまったく整っていません。また役所の仕事には、公平性や公正性が重要となります。しかし住民基本台帳も流されてしまい、手続きはスムーズにいきません。

平時にはできていた顔が見える行政も、職員が亡くなられたために、顔見知りの職員、住民で、連携をとることもできなかった。ですから手続きのための書類がそろうまでに4、5ヶ月も掛かってしまうこともざらです。そういう背景があるのに、マスコミは「19兆円もの予算がついたのに使わずにいる」とバッシングする。使わないんじゃなくて、使えないんです。

飯田 これほどまでに大規模な震災を今までに体験したことがないため、平時のルールを適用し続けてしまったことも問題だったかと思います。

黄川田 とはいっても、平時から有事に転換する際には、誰かが責任をとらなくてはいけません。もちろん有事への対応は大切です。例えば、窓口の段階で、公平性や公正性を確保するのではなく、最終的にそれらが確保できるようなシステムを考えて、窓口の段階では申請をそのまま受けてしまう方法などを取ればよかったと思います。

スピードよりも安心を

飯田 先生自身は、震災の直後に政府の対応が遅いと批判されていたかと思います。

黄川田 政府が被災地に安心を与えられなかったことはまずかったと思います。最初の段階のメッセージの発し方がよくなかった。すぐに予算を出せなくても、被災地の自治体ではなく政府が責任を持つと宣言して、細かいことはあとから決めればよかった。何も決まらず、先行きが不安な中、県も市町村も疑心暗鬼になっていました。「必要な予算は政府が確保する」というメッセージを出してもらえたら、だいぶ違ったと思います。

飯田 僕はスピード感がないという批判に違和感を覚えています。

というのも、例えば内閣府から200万円手当てをもらったとしても、そのときはありがたいでしょうけれど、来年も同じように手当てがもらえるのか、それとも町が再生して自分で商売を始められるようになっているのかがわからない。すぐに200万円出すことはスピード感があっても安心感はうまれません。

むしろゴールを設定する、いつまでにこれだけの予算を出すと言ってもらうことで、歩み自体はゆっくりかもしれませんが、安心して確実に一歩ずつ前に進むことができると思うんです。行政は、これだけの大災害であったわけですから、もっているものはすべて投入するくらいの覚悟を発信するべきでした。

黄川田 ただ先ほどもお話したように、行政は単年度主義なので、どんなに予算がついても、それをその年度で使い切らないといけない。年度末までに使い切れないと、予算を返せと言われたり、始末書を書かされたり、財務会計上のやっかいな仕事が増えてしまう。

とはいえ、うまく知恵を使えばいくらでも対応できるはずです。例えば復興基金に資金を投入してしまえば、あとは自治体の裁量で使い勝手良く動かせるようになります。復興基金は自治体の独自判断で複数年度にわたって使えるもので、例えば、高台移転で制度に乗れた人は良いが、漏れた人を救うには基金を活用できます。国の支援メニューが足りない産業振興の分野でも小回りの利く基金が必要でしょう。

一方で、どうしても他の市町村との横並び意識や、使い勝手が良いゆえに、国や県からすべて基金で賄うように言われてしまう懸念もあります。これからの課題は基金の増額と活用であり、上手く機能すれば、慌てて予算を組まなくとも、市民と会話しながら、それぞれの町にあう形で、お金を出すことができると思います。

飯田 予算の話ですと、復興予算を考える際に、最初に財源の話から始まったことには大変驚きました。こういうときのために赤字国債があるのに、なぜ渋っているのか意味がわからない。

先行きが見えないことは、被災された方々の間に不協和音を引き出し始めています。例えば、双葉町から埼玉の加須市に避難している方々は、仮設住宅に入った方と今も避難所で暮らしている方に分かれています。いま避難所にはお弁当がでているのですが、仮設住宅にはその手配がありません。それを不満に思った仮設住宅の方が、避難所のお弁当を有料化しろと行政に訴えかける事態になってしまった。さらには役所側も、お弁当を有料化して月6万円くらいとると言いだしている。または被災地周囲での声を拾っても、被災された方をみて「あいつらは失業保険をつかって遊んでばかりいる」と愚痴を言いだすような場面があります。

黄川田 お弁当の話は、行政が公正性を守りすぎてしまった事例でしょう。被災した直後は、お互いに大変なのだからと言って助け合えていたのに、時間がたって行政ごとに政策が異なってくると、隣の芝が青くみえてしまうんでしょうね。

飯田 お金もないし先も見えないと、普段ならどうでもいいはずのつまらないことがすごく気になってくるようになる。さらに精神状態も良くないために、ちょっとしたきっかけで、生きる気力を失ってしまう人も多くいる。

黄川田 腹をくくって生きている人もいれば、気分がふさぎ込んで、自殺を考えている人もいる。どちらか一方ではなく、いろいろな人がいることをマスコミには報道してほしいです。もしかしたら頑張っている被災者をみて、「俺も頑張ろう」と奮起する人だってでてくるかもしれないでしょう。

また偏った報道によって、ボランティアの人が偏ったイメージを持ってしまうかもしれません。被災者が、腫物に触るように扱われていると感じたり、施す側・施される側の意識で被災地に入ってきていると思ってしまったら、それだけで会話ができなくなってしまう。

これからの復興について

飯田 最後に、やはり国会議員として今後、どのような形で復興したいと思っていらっしゃるかをお聞かせください。

黄川田 復興、復旧に関しては与党も野党もありません。震災以降の政権のありさまや、その後の政局的な話に危機感を抱いていました。混乱し、また時間のない中で役人の作った復興基本法は、阪神淡路大震災を参考にしているために、津波や原発への発想が足りていませんでした。

そんな中、復興特別委員会は党の垣根をこえた話し合いができたと思います。まず、政府提案の復興基本法は撤回させました。そして、委員会として基本法を提出しました。行政のやりやすさを優先するのではなく、被災した現場のために、どうすればよいのか、自民党から共産党までの議員で考えていった。ですから復興関係の法案は、委員会の中で大いに議論し、修正のうえで成立していったわけです。

復興は数年単位で考える問題ではありません。10年単位で考えていく必要があるでしょう。町を再建するにしても、インフラの整備など基本的な部分は個人ではなく国や県や市町村が考えていく必要がある。一方、商店街や住宅地は、国ではなくて、町に住む人たちで着実に作っていかなくてはいけないと思います。国会議員として、そのバランスを取りながら、復興のために力を尽くしていきたいと思っています。

飯田 政治が出来ることは大きな枠組みを決めることです。そして、復興の詳細は時間を掛けて現場の人が考えていく必要がある。国会議員としての黄川田先生には復興財源の確保と継続に関する確たるフレームを作ること、そして当事者である黄川田先生には現地の声を拾い上げながら一歩一歩、陸前高田市、岩手県そして東北の復興を進めていただくことを期待します。

(2012年8月28日収録)

プロフィール

飯田泰之マクロ経済学、経済政策

1975年東京生まれ。エコノミスト、明治大学准教授。東京大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。著書は『経済は損得で理解しろ!』(エンターブレイン)、『ゼミナール 経済政策入門』(共著、日本経済新聞社)、『歴史が教えるマネーの理論』(ダイヤモンド社)、『ダメな議論』(ちくま新書)、『ゼロから学ぶ経済政策』(角川Oneテーマ21)、『脱貧困の経済学』(共著、ちくま文庫)など多数。

この執筆者の記事

黄川田徹

1953年岩手県陸前高田市生まれ。早稲田大学法学部卒。衆議院議員。陸前高田市職員、同教育委員会社会教育課課長補佐を経て、95年岩手県議会議員に当選。その後、2000年、第42回衆議院議員選挙に当選。現在に至る。復興副大臣、民主党岩手県第3区総支部長、民主党岩手県総支部連合会副代表。

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