2011.07.21

『専門家』の責務としての科学コミュニケーション

山口浩 ファィナンス / 経営学

社会 #東日本大震災#科学コミュニケーション#専門家

2011年3月11日の東日本大震災と福島第一原発の事故は、さまざまな意味で日本社会に大きなインパクトをもたらしたが、そのなかでも大きなもののひとつは、「専門家」への信頼の深刻な毀損だ。一時流行語にさえなった「想定外」というコメントを耳にするたびに、また次々と重大な情報が伏せられていたことが明らかにされるたびに、地震予知や災害対策、あるいは原子力工学や放射線医学をはじめとする、災害や事故に直接深く関係する分野の専門家に対する信頼は大きく傷つき、また強い不信を抱かれるようになった。

このような状況になってしまった最大の原因は、もちろん、今回の事態への対応がうまくなかったことにある。彼らが次々と発生する事態に対して適切な対処ができなかったといういわば「能力の不足」への落胆には、少なくとも素人目には充分な根拠があるようにみえる。この点については、シノドスジャーナルの以前の記事「「ゼロリスク幻想」とソーシャル・リスクコミュニケーションの可能性」(https://synodos.jp/society/1764)において、いわゆるゼロリスク幻想との関連で取り上げたことがある。よしあしは別として、専門家たちは、ゼロリスクであるというメッセージを発しつづけてきたのであるから、それがそうでないことが明らかとなってしまった以上、不信を抱かれるのはいわば当然だ。

また、彼らがことさらに事実を明らかにせず、あるいは事実と異なる説明をするなど、私たちの信頼を裏切るかのような行動をとってきたことについては、弁解の余地はない。どう理由をつけようとも、広い意味でそれが彼ら自身の保身のため故意におこなわれたという要素は否定できない。やはり素直に反省し改めるべきところだろう。

しかし、今回のことを今回固有の問題とだけ考えていていればいいというものではない。専門家に対する同種の不信は他の分野でもかねてよりあったはずで、いわば既視感の強い見慣れた問題の一事例でもあるように思われるのだ。であれば、もっと一般的な文脈でとらえるべきなのではないか。

その観点で注目したいのは、専門家たちが、一般への知識の「啓蒙」に取り組んだほど熱心には、専門家間の見解の相違とその意味について、一般向けに説明しようとはしてこなかったのではないかという点だ。

すべては仮説・・

地震規模の予測にせよ低レベル放射線の人体への影響にせよ、科学的な知見には、必ずしも「正解」がわかっているとはいえないものが多い。社会科学や、自然科学でも実験が難しい分野、比較的新しい分野などであればなおさらだ。科学はそもそも「正解」を出しておしまいというものではなく、仮説をつねに検証しながらアップデートし、あるいは新たな仮説と入れ替えていくプロセスである。現実の課題に対して、専門家たる研究者のあいだで意見が異なることはごくふつうにみられる。

もちろん、多くの分野では「定説」、あるいは「有力説」といったものがあって、この点に関してはどちらかといえばこう考える人が多い、といったおおまかな認識ができていたりする。地震や原子力のような分野でどうであるかについてよくは知らないが、いわゆる「御用学者」批判が多くあったことからみて、そうしたものはあるのだろう。とはいえ少数派が存在したのも事実であろうから、議論がまったくなかったわけではないはずだ。

異なる学説や主張にはそれぞれの根拠があり、それぞれを裏付ける数々の研究成果がある。また、異なる分野の研究者が同じ問題に対して異なる見解を有することもままあることだ。実験や実践を伴う分野であれば、それぞれに成功例や失敗例があろう。つまり、現実の課題に対しての考え方が議論の余地がないほど一致していることはそれほど多くない。しかし、そうした状況は、研究者コミュニティの外にはあまり伝えられていない。

「先生」としての専門家

たしかに、研究者が一般の人々に対してその知見を伝える機会は、テレビなどのマスメディアを通じたものを含めれば、それなりに広範に存在する。しかし多くの場合、そうした場で意見を大きく異にする複数の研究者が同席することはない。1人しかいないということは、その研究者は、当該分野について「正解」を知っている啓蒙者としてふるまうことを期待されているわけだ。当然、その場ではその研究者の考えが「正解」とされるわけで、それとは異なる考え方があることに言及されることは少ない。これは別に「上から目線」だとかそういう話ではなく、知識のレベルに大きな格差があるがゆえに、自然といわば学校の先生のような役割を期待されてしまうということだ。

だから、仮にその場で、「正解」はまだわかっていないと正直に伝えたとしても、おそらくそれは聞いている人たちの記憶には残らないだろう。ほとんどの人は、「先生」の「教え」を疑うマインドセットにはないし、そもそも疑うほどの知見を持ちあわせていない。教えられたことをそのまま受け取るか、単純に忘れ去るだけだ。別の場で別の「先生」から別の意見を聞けば、それで知識を上書きするかもしれないし、しないかもしれない。共感すれば受け入れ、共感しなければ割り引いて聞くだけのことだ。なかには、異なる意見だということすら気づかない人もいるだろう。

こうした状況でも、通常は特段の支障はない。もちろんジャンルにもよるが、多くの場合、専門家から発信される情報の大半は、一般の人たちにとっては、日常生活の中では知らなくてもいい類のものなのだ。たとえ潜在的には自分たちに大きな影響が及ぶものだとしても、しかるべき人たちがしかるべくやっといてくれるだろうから、わざわざ口をはさむまでもない。せいぜい、居酒屋談義のネタになればいいという程度だろう。

しかし、いまはちがう。地震にせよ原発事故にせよ、今後どうなるかについて専門家の意見が分かれていて、かつその経過によっては、わたしたちが大きな影響を受けるかもしれない状況なのだ。これまで「正解」があると思っていた問題に異なる考え方があり、「先生」として信頼していた専門家はそのうちひとつの立場を代表しているにすぎず、少なくとも今回に関しては必ずしも状況を適切に扱えていないことがわかった。そしてそれゆえに、わたしたちは不安になっているわけだ。なかには、これまでの専門家はもう信用できないとして、「代替の選択肢」を提供してくれる別の専門家を信奉しようとする人もいる。

既視感をとくに強く感じるはこのあたりだ。これはわたしたちが政治や経済の分野で日々目にしている状況と瓜二つではないか。これらの分野では、「正解」が何なのかは必ずしもはっきりしていないし、実際「正解」と思われたことがそうでなかったことが明らかになるのも日常茶飯事だ。そして、当該専門家たちが状況をうまく扱えないことがわかった時点で、異なる考えの専門家が現れ、人々はそちらに乗り換える。そしてその後はまた同じことが繰り返されるわけだ。つまりこの問題は、専門家が関与する領域であればどこでも発生する可能性がある問題なのだろう。もちろん、後から出てきた方が正しいという保証はないし、そもそも盲信する先を乗り換えるだけではそこに進歩はない。

科学コミュニケーションの重要性

この問題は、科学的な情報を的確に伝えることができていなかったという意味で、科学コミュニケーション上の問題だ。そして、今回の地震や原発の問題にかぎれば、それはほぼリスクコミュニケーションと重なる。科学コミュニケーションということなら、重要になるのが、情報の発信ないし仲介を担う科学コミュニケーターの役割だ。科学コミュニケーターについては、日本でもその重要性がかねてから指摘されながら、その育成がなかなかすすまないことが問題視されていた。今回の一連のできごとで、その重要性が改めて認識されるべきところではないだろうか。

上記「「ゼロリスク幻想」とソーシャル・リスクコミュニケーションの可能性」において、わたしは、リスクコミュニケーションの分野でもソーシャルなアプローチが必要ではないかと主張した。リスクコミュニケーションの前提となっていた信頼が崩れたのであれば、一般の人々が信頼をおける外部の識者などに信頼の中継をしてもらうといいのではないかという考え方だ。

もともと科学コミュニケーションの分野では、専門職としてではなく、ある程度の科学的知識をもった人であれば誰でも科学コミュニケーターになりうるという発想があった。こうしたネットワークは、まさにソーシャルなリスクコミュニケーションのプラットフォームとしてふさわしい。科学コミュニケーターとして典型的にイメージされるのは学校教員や博物館の学芸員のような専業者だろうが、それだけではなく、社会のなかで広く役割分担しながら行われるべきだろう。

以上を前提として、具体的に3点ほど主張したい。

1.専門家同士の議論を可視化しよう

今回の文脈で特に重要なのは、専門家のあいだで意見が分かれる問題について、意見の相違があるということ自体をわたしたちが知ることだ。いまの不信の大きな要因のひとつが、専門家たちが不当に情報を隠しているのではないかという疑いである以上、第三者のコミュニケーターだけでなく、研究者自身が関わることに大きな意義がある。研究者などのなかには、一般向けにやさしく説明するのが苦手な人々がいるが、科学コミュニケーションは「素人向け解説」だけを意味するのではない。むしろ、最先端の研究者が担うべき科学コミュニケーションとは、研究者同士の生の議論を可視化することではないかと思う。とくに、今回のような場合、見解を大きく異にする研究者同士の議論を実際にみることができたら、ある程度の科学リテラシーをもった人たちのあいだで、事態の理解はもっと早く、大きく進んでいたかもしれない。

もちろん、これはいうほど簡単なことではない。多くの場合、部外者には、専門的な知見を前提としたいくつかの考え方のいずれがより適切かを、一から自分で判断する能力などないからだ。学会で行われるような研究者同士の専門的な議論を、その背景となる理論や先行研究などについての知識なしに素人が聞いたとしても、その意味を適切に理解するのは難しいだろう。だからこそ科学コミュニケーターの関与が重要となってくるわけだ。

一般の人たちにとっては、研究者同士の議論は、極端な話、可視化されていればいいわけで、直接見聞きする必要は必ずしもないかもしれない。マスメディアで研究者の議論を延々と流すのもどうかと思うが、ネットならそういう場はいくらでも作れる。いろいろなメディアを駆使してさまざまなコミュニケーションのチャンネルを作り、関心ある人たちが役割を分担して、研究者と一般とのあいだをスムーズにつないでいくことができれば、信頼回復に役立つのではないか。

2.情報の受け手の知識水準を意識しよう

科学コミュニケーションにせよリスクコミュニケーションにせよ、情報の受け手の知識の水準に合わせて行うというのは基本中の基本だ。大人向けの情報を子供に伝えたり、その逆をやったりしても、効果は薄い。訓練を受けたコミュニケーターであれば、当然そのように配慮しているだろう。しかし実際には、この点がえてして無視されがちであるような気がする。

とくに問題があると思うのは、マスメディアを通じて伝えられる場合だ。マス向けという時点で、相当に整理、簡素化された情報になっているはずだが、それに対して、情報を歪めているとか隠しているとか、そういった批判が出ることがある。もちろん批判に値する場合もあるだろうが、わかりやすくするための言い換えを歪曲だの隠蔽だのと批判するなど、いいがかりに近い場合もみられる。これは基本的には需要と供給のミスマッチなので、上記1のように、より詳しく知りたい人のための情報ルートがさまざま整備され、受け手の知識水準に合わせた情報が得られるようになっていれば、こうした問題は起きにくくなるだろう。

同時に、情報発信をする側で、どの層に向けての情報かをあらかじめ明示しておくのもひとつの手かもしれない。教育図書に対象年齢が書いてあったり、あるいはゲームなどにレーティングがなされていたりするが、あの要領だ。もともと各メディアでは情報の受け手の水準に関する想定をしているだろうが、それをきちんと明らかにしておき、無用な論争を避けるのは、情報発信者としての重要な責務なのではないか。

3.自然科学以外の分野での科学コミュニケーションを改善しよう

科学コミュニケーターというと、どうも自然科学の分野にかぎって考える傾向があるように思う。科学コミュニケーションのテキストなどを見ても、自然科学を念頭に置いた記載しか出ていないことが多い。しかし、いうまでもないが、科学とは自然科学だけではない。とくに政治や経済の分野におけるコミュニケーションは、真逆の言説が同時に語られる状況が平気で放置されているという点でも、いいかげんな「専門家」が少なくないという点でも、非常に問題が多いといえるのではないか。

また、情報を伝える「専門家」としてのマスメディアの人たち自身の科学コミュニケーションの質も問われよう。もちろん、マスメディアの大半の報道は、少なくともネットなどで流布される一般の人たちからの情報と比べて圧倒的に質の高いものではあるわけだが、とくに今回のようなケースでは、ふだん科学報道に携わっていない人たちも関わっているのか、不正確、ミスリーディング、ときにセンセーショナルな情報発信が目立つように思われる。科学コミュニケーションが一般人を含む幅広い層によって分担されるべきであるとするならば、科学に関連する情報を広く伝える立場の人の責務として、一定レベルの科学知識をふまえたものであるよう努力をすべきであろう。

推薦図書

科学コミュニケーションについての文献をいくつかあたってみたが、今回のテーマにぴったりと思えるものに出会えなかったので、こちらをあげる。本書はリスクコミュニケーションに関するものだが、科学コミュニケーションともかなりかぶるものと考えていいのではないか。食品に関しては現在進行形でさまざまなリスクコミュニケーションに関わる事態が進行しているが、本書は過去の有名な事例をとりあげつつ、よりよいリスクコミュニケーションの可能性を探っている。実態のない主観的な「こわさ」としてのリスクを「ゴースト」と表現しており、非常に納得感がある。

プロフィール

山口浩ファィナンス / 経営学

1963年生まれ。駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授。専門はファイナンス、経営学。コンテンツファイナンス、予測市場、仮想世界の経済等、金融・契約・情報の技術の新たな融合の可能性が目下の研究テーマ。著書に「リスクの正体!―賢いリスクとのつきあい方」(バジリコ)がある。

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