2012.09.19
中国化する日本 ―― 政治・経済・文明観のアーキタイプ
なぜ中国は「ヨーロッパ化」しなかったのか
飯田 與那覇さんの新著『中国化する日本』は各方面で話題騒然となっていますね。ご自身で注意書きを加えられていますが、「中国化」という言葉には、今の情勢では全日本人が「ドキッ」としてしまう。
與那覇 事前の予想通り、「中国の国家資本主義」とか「南シナ海政策」といった、経済学または地政学的な話だと思って手に取られた方も多かったんじゃないでしょうか。しかし、本書の「中国」が指すモデルは「宋」のことなんですよね。1000年前からの時間の幅のなかで、日中両国の現在を見てみようという発想になっています。宋朝のしくみを目指すのが「中国化」、それと180度逆の日本独自路線でいくのが「江戸時代化」という、二つの軸で歴史を書いてみようと。
飯田 中国では宋、日本では江戸時代が国と社会の形の原型になっているというのは、非常にわかる感覚です。たとえば、どの国でも大衆向け歴史物の時代設定となる時期はだいたい決まってきます。
アメリカなら開拓時代ですし、日本なら時代劇といえばほぼ江戸時代、中国でも大衆演劇や小説だと宋の時代ですね。日本でも有名な『水滸伝』に『金瓶梅』、大岡越前ネタの原型である包公故事やそれをスパイスにした『三侠五義』など、争乱モノでない時代物には宋の時代を舞台にしたものが多いようです。
與那覇 なるほど、そういう見方もありますね。それにしても日本人の中国史への興味が、なぜあんなにも三国志に集中してしまうのか不思議です。戦前の内藤湖南からすでに指摘があるにもかかわらず、日本人があまりにも知らなすぎる「世界で最初の近世社会であり、グローバル化の先駆けである宋」のイメージから、本書を書きはじめました。
飯田 読みながらふと気づいたんですが、西洋の自由主義開放勢力・グローバル化推進勢力は比較的戦争に強いのに、宋とその影響を受けた朝鮮や日本ではおしなべて戦争に弱かったというのは不思議ですね。
與那覇 そうですね。特に日本では、宋に学ぼうとしたグローバル化推進勢力がなかなか戦争、つまり内戦に勝てない。本のなかでも引用した小島毅先生が面白いことを書かれています。それは宋が成立する前、唐が滅んだ後の五代十国時代に、中国大陸も一種の戦国時代的な国家分裂状況になるのですが、そこで「宋が成立しない」というシナリオもありえたのではないかと。
飯田 つまり、ヨーロッパのようになるということですか。
與那覇 そうです。国家分裂したまま、主権国家が複数できて国際社会をつくるという可能性もあった。しかし、宋という帝国をもう一度つくって統一した。そこが中国独自のものが生まれた起源なんだというふうに書かれています。
飯田 春秋戦国時代の国は、基本的に民族で構成されています。ギリシャやローマにおける蛮族と同様、楚の国は言葉が通じない完全な異民族だったといわれる。そんな歴史があるのに、なぜか秦による統一以降は、中国は少なくともその中核地域は統一されるのが当たり前になる。一方ヨーロッパでは統一国家が成立しなかった。
與那覇 ローマ帝国崩壊後は、幻想として神聖ローマ帝国やナポレオン帝政や第三帝国が出てくるだけで、それを目指すと自滅しましたしね。
飯田 今も絶賛自滅中といっていいかもしれない(笑)。
「日本的改革勢力」は必ず分裂している?
飯田 また本の中では「ブロン」というユニークな概念について多く記述されていますね。
與那覇 「いいとこどり」を狙ってブドウとメロンを掛け合わせたら、ブドウのように小さな実がメロン並みの数しか実らない、そんなへんてこな植物ができてしまう。元ネタは星新一のショートショートで、日中両国の文化が混じって「悪いとこどり」な社会をつくってしまうことの比喩として使いました。
飯田 日本の近世におけるブロンとして思いつくのが、田沼時代から寛政の改革にかけての不思議なねじれです。ぼく自身、與那覇さんの本を読むまで気づかなかったんですが、松平定信と田沼意次、両者の経済政策と政治の組み合わせの悪さは、現代にまで受け継がれる「ニッポンのジレンマ」のように感じます。
『田沼意次の時代』(岩波現代文庫)に代表される大石慎三郎先生の一連の研究に詳しいですが、田沼は経済的には全国的な課税を模索し中央集権化を進めようとするのに、政治手法は江戸的です。その一方で封建領主、つまり大名からの中央集権化への反発のリーダーである松平定信は、反グローバル主義的で反自由主義経済的なのに、なぜか学問としては朱子学を重視するわけです。
そこで不思議なのは、理念としては朱子学を受け入れるが、実態は朱子学とはかけ離れていたほうがいいという、その掛け違いに松平定信の、ある意味で分裂的な志向があらわれていると思うのですが。
與那覇 網野善彦流にいうと、鎌倉幕府崩壊あたりから掛け違いがはじまるんですね。重商主義政策をとろうとする指導者が、同時に政治の集権化を進めてゆくという中国的な傾向が、鎌倉幕府の終わりの時期に見られます。
北条氏の得宗専制と呼ばれるものですが、しかし増長した御内人——これは北条氏の私的な家臣で、商業を基盤としていました——の平頼綱を誅殺するために、鎌倉幕府の公的な御家人——こちらは農業が基盤です——の力を借りるという、首尾一貫しない戦いが起こります。
同様のことを繰り返したのが後醍醐天皇です。幕府を潰して集権化したいのに、足利氏という有力な御家人に頼ったせいでまた寝首をかかれる。それが近世になっても続き、現代にまで至るというのが、網野さんの言いたかったことだと思います。
飯田 現代でも同じかもしれません。改革勢力は最後にはどこかで旧勢力と妥協してしまうし、せざるを得なくなる。
與那覇 小泉改革もそうですよね。加藤の乱が節目でしょうか。古い自民党と縁を切って、民主党などの新しく伸びてきた政党と組んでやればわかりやすかったのですが、うまくいかなかった。
飯田 民主党も不思議な政党で、旧自民党メンバーを数多く抱えながらも、最大の支持母体は労働組合なわけです。それは江戸時代以来,もしかしたら鎌倉幕府成立以来の「地位の非一貫性」の話とも結びついていて、誰かの首をとればおしまい、というのがないようにできている。
與那覇 そうですね。AとBが組んでCを倒そうか、あるいはAとCが組んでBを倒そうか、という話ばっかりで、ビジョンの首尾一貫した完全な勝利者が出て来ない。近世思想史でいうと、国家神道は仏教を倒すための儒教神道連合軍として生まれたのだと小島毅さんが書いています。山本七平風にいえばそれこそが「現人神の創作者」、すなわち儒教の絶対的な天観念と、神道的な生き神思想のアマルガムだったわけですが。
飯田 儒教と神道は一番遠い様に感じますが、反仏教のところでくっついてしまったわけですね。この手の組み合わせの悪さは枚挙にいとまがないといってもよいでしょう。
サンデル・ブームが映しだしたもの
飯田 「中国的と江戸的」という軸は、「リベラルとコミュニタリアン」「新自由主義とケインズ主義」という思想の軸としても整理できるのではないでしょうか。その悪い組み合わせを無理矢理に正当化するのが陽明学、それも日本的な意味での陽明学かもしれません。日本では陽明学ムーブメント——動機さえ正しければとにかく何か行動すれば良し、といった空気——が凄い人気を集めてしまうことがある。
與那覇さんが本のなかで提示された解決策の一つが「アメリカを徹底して褒める」というものです。もうそれしかないのかな、とぼくも感じるんですが、このグローバル化=中国化は、ここ数年どうも逆回転し始めているようです。経済でいうと新自由主義からケインズ主義へ、政治哲学でいうとリベラリズムからコミュニタリアニズムへ。もっとも僕はサンデルの本を何回読んでも論理的に理解できないのですが、なんだか「心に触れる」という。
與那覇 サンデルは、あのTVで話題になった講義内容の方だと、コミュニタリアニズムに引っ張っていこうという考えがあまり強く出ていないですよね。日本人のサンデルファンが、はたして彼の思想をどう受け取っているのか。
飯田 その一方でケインズ主義を攻撃しますが、経済学的にはちょっとおかしい。コミュニタリアニズムの理念を支えられるのはケインズ主義しかないと思うのですが。もっともこれは、アメリカにおける政治と経済政策の立ち位置の問題が絡んでいるのかもしれません。
與那覇 サンデルは保守派だと思われているから、ということですか。
飯田 「保守対リベラル」の二項対立から抜け出したいというのもあるでしょうね。アメリカでケインズ派というと、リベラルの代表というイメージで見られてしまいますから。
與那覇 それこそロールズが存命だったら、NHKを通じて今、ロールズブームが起きていたりしたんでしょうか。
飯田 それはどうでしょう。日本人の情感にロールズは訴えないような気がします。ロールズの論文はすごく理解できるのだけれど、「心」に触れない、という感じで。サンデルの考え方が日本で爆発的に受け入れられる理由の一つは、善とは何か、悪とは何かという基準がないからなんですよね。これを日本的な「場の論理」との類似でとらえることが出来るかと思います。
與那覇 なるほど。場じゃなくて論理で押し切るような、クリアカットなものは受けない。
飯田 サンデルはいいことをいっている気はするが、論理的な部分の僕がぜんぜん納得してくれないんです。
與那覇 五木寛之的なものであったと(笑)。いいことをいうが、全体を通して何をいっているかがわからない。
「江戸ノスタルジア」の向こう側に待っているもの
飯田 「中国化」というテーマはもちろん僕の頭の中にはなかったのですが、ケインズ主義の利点というのは、「偽職」、つまり本当だったら存在しなかったはずの職を配ることです。これは理論的には十分あり得る考え方です。
失業者が大量にいると賃金の引き下げ圧力が生まれますが、少なくとも偽職を与えお金を渡しているとそうならない。これが重要と唱えているのが阪大の小野善康教授です。一方、ミルトン・フリードマンや金融政策を重視する派は「偽金」、つまり不換紙幣を出せという。バラまくのは職かお金かといったときに、リベラルな人ほどお金が好きですよね。
與那覇 そうですね。ギリギリ可能な範囲まで、特定のアイデンティティを強制しない「負荷なき自己」でいきましょうと。
飯田 たとえば「東日本大震災復興のためにこういう仕事が必要です」という物語つきで渡すのか、あるいは「生活に困っているからお金がこれだけ必要ですね」というふうに渡すのか。僕はお金派ですが、日本人にとっては物語つきのほうが好ましい、というのはたぶんあるのだろうと思います。
與那覇 それはやはり、社会保障はお金の保証ではなく職の保証だと思い続けてきた帰結で、その原点がまさに江戸時代の武士の偽職そのものですよね。彼らは大名行列程度のことをやって給料をもらっていたわけですから。中国化を肯定して売れる本は日本ではおそらくありませんが、逆に江戸時代を肯定する本は飛ぶように売れます。
飯田 『江戸の想像力』(ちくま学芸文庫)など、田中優子さんの著作がいい例ですよね。
與那覇 江戸ノスタルジアの内実を解剖した渡辺京二さんの『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)もそうですね。江戸時代は職業規制をしているせいで、竹ひご細工などの小物をつくるだけの職種でも食べていける時代だった。これは一つの文明の成熟ではないかと渡辺さんは評価している。しかし一方で「ガラパゴス化の原点」でもあるんですよね。独自性は高くても、普遍性や相互互換性がない。
飯田 流通網があったからそこまで分業ができたんですね。江戸時代は、日本国内に「江戸」と「江戸以外」の2つの国が存在したと僕は考えています。小物をつくって生活できたのは、江戸に限ったことではないでしょうか。あるいは京阪もそうかもしれませんが、都市は別天地といった感覚はあると思います。
與那覇 「ブルジョア」と「プロレタリア」のトゥー・ネイションズ(2種類の国民)じゃないですけど、「超大都市」と「田舎」という感じですね。
飯田 「香港」と「中国本土」でもいいかもしれない。完全に一国二制度ではないかと思える。
與那覇 それでいくと、「平壌」と「それ以外」ともいえますね(笑)。農村にいる人たちは何とか食べてはいけるが、労働条件を見ると本当に悲惨。江戸時代は「ちょっとパフォーマンスのいい北朝鮮」といった感じだと思います。
飯田 別の視点から見れば、農村は食べていけるだけ豊かですが、江戸の低層民はわけがわからないくらい悲惨。江戸の町中だけ19世紀ロンドンのような階層社会になり、田舎はわりと落ち着いた中世のようになっている。
與那覇 本来は経済効率的には非効率であるはずの身分制度や封建制を残したら、それが地域を超えた不況や貧困の蔓延をブロックするショックアブソーバーとして機能したけれど、アブソーバーの恩恵を得られる人と得られない人が固定化するという問題が起きた。
今年のお正月に飯田先生が出演されていた、NHKの討論番組「ニッポンのジレンマ」のテーマにもつながりますね。格差自体は必要悪だが、格差の固定化は許せないという説は江戸時代にもあったのでしょう。農村でアブソーブしてもらえる人と、そこからはじかれて都市で見捨てられる人の差が、生まれた順——家を継げるか否か——で決まるのかと。それは耐えられないという話になるわけです。
飯田 効率化や自由化とすんなり同居できるリベラリズムとは異なり、日本的なものや江戸的なものは、効率化にとっては夾雑物でしかないんです。その一方で、不思議なもので夾雑物が多いほうが社会が安定する。経済学からの類推ですが、すべての市場が完全に自由化され、かつ摩擦がない経済になるとショックが全部経済変動になる。
岩井克人先生が、現代に残っている資本主義的ではない規制や慣習が、実はショックアブソーバーなんだという指摘をされています。統一的な原理に従った集権的な政治経済システムで、自由市場化が徹底された場合、景気はジェットコースター型になるのかなと思ったりします。
與那覇 それがたぶん中国化なんでしょうね。
飯田 2000年代の世界経済はものすごい振幅を経験したので、場合によっては江戸っぽいものの長所はそこにあるのかなと思ったりもする。
與那覇 サブプライムローン問題も、江戸的な夾雑物を排除しきったがゆえのジェットコースターですかね。コミュニティで居場所を確保するのではなく、バラバラの個人でもローンを組めば家がもてますよということをやっていたら、うまくいってるときはみんなリッチに住めていたけど、うまくいかなくなったら全員追い出された。
飯田 もっとも、今日のユーロ危機までリーマンショックと同じ文脈で語る人がいますが、これは真逆の失敗です。単に時期が近くて二つ起きた危機なので、何か同じ根っこを探しているけれど、実はもっとも対照的な危機が連続して起きてしまった。サブプライムローンは市場の失敗であり、ユーロ危機は知性の失敗。放っておいたらうまくいくと思っていたらやっぱりうまくいかなかったという話と、人間が設計した「最適なシステム」がうまくいかなかったという話です。これに加えて最近は、日本化する世界経済といわれることも多いようです。
與那覇 というか中国的な失敗と江戸的な失敗が混じっているのだとしたら、それこそブロン化する世界経済です(笑)。
「周回先回り」してしまった中国
飯田 その一方で自由主義経済とグローバル化の本家本元である中国が最終的に近代化、または機械工業化できなかったのはなぜなのでしょうか。
與那覇 一つは、足立啓二先生が『専制国家史論』(柏書房)という本で、中国の専制レジームはある意味でポストモダン、現代の先駆けなんだということを書いています。大規模に組織された流通業をもてなかったことが原因ではないかといっている。完全にすべて個人化してしまうと、バラバラに商売はできても計画的な大量生産はできないんですね。
飯田 つまり資本の集積ができない。株式会社がつくれなかったといった話ですね。
與那覇 そうですね。すべて個人のネットワークで運営するから、妥当な比喩なのかどうかわからないですけど、最初から全部ヤフオク状態という感じ。
飯田 なるほど(笑)。
與那覇 逆にいうと、江戸時代は経済を国家がしばっていたおかげで巨大流通業ができたんですよね。三井越後屋などの大商店はヨーロッパのデパートよりも早くできました。中国はそれをつくれなくて、ある段階から先へは進めなかった。工業製品以前の貴重品など、職人さんのつくった嗜好品を売り買いするところまではいけるけど、工場に人を集めてきて規格化された製品を大量につくって大量に売ることはできなかったんです。
飯田 そのうち科学技術面でも差ができて追いつけなくなったと。
與那覇 集産主義や組織資本主義が通用しなくなるのがネオリベラリズムですが、中国の場合は、最初から組織資本主義の先にいってしまったんですね、周回遅れならぬ「周回先まわり」という感じで。
飯田 最初だけは国がある程度やったほうがいいという官営企業論はよくいわれますよね。経済学の世界にビックプッシュという理論があります。最初のうちは収穫逓増、つまりまとめてつくれば得というフェーズが必ずあるので、そこの段階を超えないと自由な経済はまわらない。その一方で、そこを超えるとあとは放っておいてもなんとかなる。発展途上国への大規模ODAの根拠にも使われたりします。
與那覇 要するに鉄道は最初は国がひいて国営ではじめて、途中から民営化するのが一番いいよという感じですね。
飯田 アメリカは鉄道バブルで超えたといわれています。後から考えるととても採算がとれない路線が、株式ブームに乗って大量にできた。人が住んでいないところ同士を結んだ意味のない鉄道も含め、ちまちまとつなげて、買収を繰り返して、全国交通網ができあがる。振り返るとほとんどの投資がバーストしているわけですが。日本の場合は日清戦争の賠償金で、その段階を超えたといわれています。
與那覇 どんな資本主義も最初は国家資本主義ではじまると。
飯田 それを続けた国はろくなことになりませんが。
與那覇 第二次大戦後の途上国で「最初だけ社会主義」が多かったのもそれに近い感じでしょうか。
飯田 開発独裁ですね。アメリカとイギリスだけは極めてめずらしいケースで、みんなが楽観的な投資活動をした結果、その段階を超えてしまった。「レイルロードタイクーン」といった経営シミュレーションゲームも流行りましたが、昔は鉄道開発、イコール国が広がることだったので、アメリカ人の琴線をくすぐったんだと思います。
與那覇 馬でフロンティアを征服したら、今度は鉄道で征服したいという欲求をかき立てるものがあったと。
飯田 そうですね。新しい土地に出ていくというのは好きなのかもしれない。
虚像の昭和30年代と、幸福が常態化した昭和40年代
飯田 中国が近代化できなかったのに対して、逆に日本はなぜうまくやれたのか。昭和10年あたりの段階では先進国とはいいませんが、所得水準の面でも張出大関ぐらいにはなっている。戦後はいうまでもないですね。ただ戦前は、日本は経済に関しては何もしていないんです。官営工場を高いお金出して無駄に買っただけです。
與那覇 40年体制というのも、意外と戦後の経済成長への影響は大きくないといわれている。
飯田 邪魔はたくさんしましたよね。その意味でいうと、田中角栄が戦後、あるいは昭和で一番人気のある政治家なのには理由があるように感じます。
與那覇 一定の世代以上だとそうですね。2009年の朝日新聞のアンケートで、昭和といって連想する人物の一位が昭和天皇で、二位は田中角栄だった。
飯田 それはすごく正しいイメージかもしれない。
與那覇 大きく引き離された三位が美空ひばりで、以下に戦中から戦後にかけての首相が続きます。田中角栄はドラマになるわけでもないし、どっちかというと汚職のイメージが強いけど、ある程度の世代以上だとあれこそが戦後日本だよということになるんでしょう。
飯田 最近、「三丁目の夕日シンドローム」というのを提唱しているんですが、実はあの映画のなかで描かれていた昭和30年代は、昭和40年代に近いと思います。道路や電化製品はもちろん昭和30年代に合わせているんだけど、考え方や慣習が昭和30年代ではない。
與那覇 労働争議とか全然してなさそうですよね、あの映画のなかの人たち(笑)。
飯田 その通りです。昭和30年代は労使対立がのっぴきならないところまで進んでいたはず。労使協調とか、会社と労働者が仲良くやっているのは、むしろ昭和40年代後半の風景なんですよね。
與那覇 高度成長で分配するパイもできているし、社会党もものわかりがよくなってきた頃の話である、と。
飯田 集団就職で出てきて中小工場か自営業種、つまりは都市インフォーマルセクターで働かされている層と、その使用者とは強い対立関係にあったといっていい。映画に出てくるような温かい関係ではないでしょう。その意味でも昭和40年代のイメージに近いですよね。
與那覇 公明民社が定着して、そういう人たちもしっかり議会で代表してもらえていますという、ある種の家父長主義みたいな感じですよね。ものわかりのいい親が子に「大丈夫だ、俺が守ってあげるよ」といってくれるようになるのは、実はもっと後のこと。
飯田 昭和20年代のメーデーのテーマも「インド的低賃金からの脱却」ですから。戦後なのにまだそんなレベルの経済だったんです。
與那覇 でも映画にする時は、舞台を70年代にすると盛り上がらないから、やっぱりいいとこどりがしたいんでしょう。
飯田 大学生の実質所得、つまり仕送りとアルバイト代から授業料を差し引いた額を物価で調整したものですが、1980年と現在とで同じくらいだという指摘もあります。70年代だと携帯やテレビゲームこそありませんが、ほかは現在と大して変わらない。ディスコらしきモノも一般化し、学生もテニスサークルに入るし、今ぼくらがいるような喫茶店は当時からあった……という程度になっていたりする。
與那覇 大澤真幸さんが、「右肩上がり感」が肝なんだということを書かれています。あの作品の中の人たちは貧乏なままでも、その後は右肩上がりになっていくことをみんな知っているから、観客はあれを見て泣く。70年代はすでに幸せな停滞という感じで、右肩上がりではないですよね。最低水準は確保してみんな丸くなっていますが。高度成長期と低成長期の両方いいとこどりをすると、ああいう映画になる。
飯田 日本の原風景である水田栽培さえ、それが稲作の中心になったのは戦後だといわれます。水田すら日本の原風景ではなく、食料管理制度のもとで昭和40年頃につくられたものなわけです。江戸時代的なものの再来である昭和時代は、実は期間としてはそんなに長くなかったんじゃないか。でもなんでみんなこんなに好きなのでしょうか。
與那覇 昔、原田泰さんが40年体制は実は70年体制だということを書かれましたが、それに近いニュアンスなのかもしれません。
飯田 そうですね。終身雇用も基本的に70年代に成立している。
與那覇 本当はまだまだ臨時工みたいなものが多かったはずですよね。
飯田 『ALWAYS 三丁目の夕日』よりもつげ義春や水木しげるの漫画の世界のほうが、やたらと生活に苦しんでいて、よほど昭和30年代らしいと思いました。
與那覇 逆にいうと、それだけ日本人は幸せな70年代を送ることができた、稀有な人々だったということかもしれません。ヨーロッパではすごいスタグフレーションですよね。
飯田 73年と79年におこったオイルショックは、世界的には79年のほうがショックが大きいとされます。ところが日本の場合は日本銀行が天才的な冴えを見せて、その被害を最小限にとどめた。第二次オイルショックにはなりましたが、まず石油備蓄をしましたし、計画的にその在庫を放出もした。金融政策もびっくりするぐらいうまくやったので、インフレはおきたものの第一次オイルショックのような大惨事にならず、結果としてそんなに困らなかった。
與那覇 そこで学ぶ機会を逃してしまうんですね。そのときはそれが世界一幸せで、英米型の新自由主義で無駄をバシバシ切るほうにも変えなかったし、欧州型のコーポラティズムで労使協調というしくみにも変えなかった。自民党がそこそこうまくやってくれて、社会党がそこそこ文句いっています、それでいいじゃんということで終ってしまったんですね。
飯田 だから今、社民党は絶滅危惧種ですもんね。国会からいなくなるんじゃないかというぐらいの勢いです。
與那覇 比例区の定数削減がきたら危ないですよね。
飯田 選挙区からの選出っていましたっけ?
與那覇 沖縄が一応いますから、沖縄社会大衆党とかに吸収されるしかないのかもしれない(笑)。
地方政治は日本を変えるか
飯田 日本のこれからの選択肢としては、急いで改革をするのか、むしろ時代の流れが変わるのを待つのか、どちらでいけばいいのでしょう。
與那覇 サブプライムローンとユーロ危機が別のベクトルだったとすると、「新自由主義の間違いは明らかになったわけだから、これからはやっぱり国家が必要だよ」という路線に変えればOK、とはいかないですよね。
飯田 そうですね、両極端の失敗を同時に見てしまったわけですから。そうなると、もっと純粋な意味での中国化、つまり政治専制体制の経済自由主義というのはもしかしたらありかもしれない。
與那覇 橋下徹さんが日本の首相になったらそうなると僕は踏んでいます(笑)。彼が目指しているのはきっとそういうことじゃないかなと思いますね。
飯田 なるほど(笑)。
與那覇 大河ドラマの「平清盛」は視聴率がよくないらしいですが、NHKがテコ入れで橋下さんに清盛のPRを頼んだりしたら、面白いけど怖いことになると思う。
飯田 いままでの一般的な歴史ドラマでは、平清盛はびっくりするぐらい悪役ですからね。太っていて醜くて……
與那覇 そして権力欲の塊です。だから橋下さんに、「僕が目指しているのは清盛です、自由貿易と競争経済で関西から日本を変えます、衆院選で僕に一票入れてくれたら、清盛のように西から新しい日本を作れるんだ」とPRしてもらったら、視聴率が上がるかもしれない。同時に日本が恐ろしいことになるかもしれませんが。
飯田 それをやると橋下さんの人気の方が下がるかもしれませんね。ただし、地方政党が中央でどれだけ人気があるのかはなかなか読めない。東京と闘ってくれるというイメージが強いですから。
與那覇 関西のカルチャーは特徴的ですよね。あの異様な橋下人気はどういう文脈なのかよくわからない。
飯田 地方にいけばいくほどメディアの力って強いんですよ。あと名京阪はともかく、それ以外の地域では大学の先生も偉い感じがする。
與那覇 地方紙の強さもありますね。愛知県も中日新聞が圧倒的なシェアを持っていたと思います。
飯田 また、地方にいくと経済誌があまり売られていない事に気づきます。『東洋経済』『エコノミスト』や『ダイヤモンド』を出張中に買おうとしても、キオスクにはないことが多い。実際にビジネス誌、ビジネス書は地方では売れないそうです。地方にいくほど、価値を創造するというタイプのビジネスをやっている人の比率が少なくなっているのかもしれません。基本的に中央からの分配に上手にアクセスするのがお金持ちになるコツであって、自分で価値を創造することよりもそちらのほうがずっと得、という経済構造になってしまっているのかもしれない。
與那覇 橋下さんに限らず小泉さんあたりからの流れかもしれませんが、「地方から国を変える」というようなスローガンは、昔はどちらかというとリベラルな人や左よりの人が好んできたのに、今はどうみてもリベラルではなく、むしろリベラルに敵意を抱いている人が使うようになっている。リベラルの人が言っている間は机上の空論だったけど、そうじゃない人が使いはじめたら、意外とできるんじゃないのという空気が生まれてきた。
一方で、地方から変えるといっても、地方政治は日本の中で一番だめなものが集約していたはずです。再分配にひたすら群がる経済があり、また基本的には地方政治はオール与党であるという問題があった。橋下さんは既成政党の呉越同舟によるオール与党でいく代わりに、自ら子飼いの新政党を作ったという点では新しくはありましたが、そんな地方政治が国政を変えても、一番だめなものになるのではないかという気もするんですね。
〈世間様〉という宗教
飯田 中国は権力者は儒教で、民衆は道教と、支配する側とされる側で宗教が分けられているのは面白いですね。
與那覇 中国は朱子学の時代からイデオロギー国家ではあったのですが、しかし国家の方から積極的な教育はしない、徹底した放任主義だったことがポイントなのかなと思います。偉くなりたい人は儒教を勉強して、裁判するときも儒教に従っている人のほうがいい判決を出してもらえる。うまい汁を吸いたかったら儒教を勉強して、しない人は勝手に落ちこぼれていてください、というのがよくも悪くも中国化のパッケージだった。日本の場合にそこでブロンを生みかねないのが、公立学校だけは熱心に作ってしまうことです。
飯田 なぜかそこは一貫しないですよね。たとえば道教は結構アナーキーなので、士農工商でいえば工商が道教であることは経済にとってはいいと思うんですよ。一方、なぜ学校は公的なものなのか。そもそも日本の学校は明治時代は全員が通うものではなかった。
與那覇 確かに藩校は武士対象で、寺子屋は民営だった。
飯田 しかも学費は自腹です。
與那覇 にもかかわらず、官営が底辺まで普及してしまう瞬間がある。そこがやっぱり日本で中国化するとブロンになる、怖いところです。日の丸君が代が嫌いな人は嫌いなままでいさせてくれるのならいいんですけど、日本は放っておいてくれないから。
飯田 日本には儒教の代わりに、「世間様」というよくわからない宗教があるのではないかと感じます。世間様と親和的ならなんでも許される。特徴的なのが大手証券の不祥事と、堀江貴文さんの事件。やったことは同じなのに、堀江さんは刑務所に入れられた。あれで実刑というのはやり過ぎの気がします。
與那覇 法治主義ではなく、徳治主義の境地ですよね。他の判例と比較してこのケースはどうだろうと判断するのではなく、こいつはどうみても反省していないからお灸をすえねばならん、だから一度刑務所に送ることが至上命題である、というようになってしまっているという懸念が拭えません。
飯田 あまり好きな表現ではないんですが、日本は「民度が低い」という指摘もちょっと頷けてしまいますね。中国、アメリカと並ぶ世界三大低民度国家だったりして(笑)。
與那覇 民度が低いならリバタリアンでいくべきだというのが、米中の事例が示す教訓ですかね(笑)。コミュニタリアンというのは民度が高い人同士でコミュニティを作ってやっていこうという発想であって、どうせバカなんだったら何も期待しないで、自分が食えるだけは自分で稼いでくださいといったほうが多分うまくいく。日本人は民度が低いくせに、江戸時代が事実上コミュニタリアンで、しかもそれが妙にうまくいってたから、そっちを目指してしまう。
飯田 もっとも江戸時代は経済に関しては意外と自由主義的だったりします。それを突発的に規制しようとするけど何もいいことがない。『歴史が教えるマネーの理論』(ダイヤモンド社)にも書きましたが、1820年代の徳川家斉の文化文政の頃は、景気がよくなっているのに米の値段が上がらない。むしろ贅沢品の値段がどんどん上がって、武士にとっては給料が上がらないのに物価だけが上がっているのと同じで、苦しくなった。庶民は物価が変わらないので豊かになり、公務員給与は実質的な削減、現代から見ればこんな画期的な改革はない。1810~1830年は、推計にもよりますが年率0.5%で成長するという、前近代社会では特殊な高度成長が続きました。だけど、そうなると体制がもたないんですね。武士があまりにも苦しいからと水野忠邦が天保の改革で大巻き返しをやって、江戸の繁栄は終わります。
與那覇 江戸システムのポイントは身分制による多業種の住み分けと、家制度による意図せざる人口抑制ですよね。その2つでガチガチにやっていたからもっていたのですが、結局そこを突破するには江戸システムを壊すしかなかった。
飯田 ちょっと景気がよくなると政権基盤が揺らぐって、もう維持不可能な政体ですよね。それで260年ももったというのはすごい。この江戸時代のよくわからない変な感じが好きです(笑)。
與那覇 1600年代に人口も経済もあれだけ拡大したのに、その後100年間ピタッと止まるというのがほとんど奇跡ですよね。
所与の条件を変えられない社会
飯田 リバタリアンでいくのかコミュニタリアンでいくのか、中国化するか再江戸化するか……大きな方針はさておき、問題は一つひとつの制度のなかにさえこの両者が同居していることでしょう。社会保障はリベラルを徹底してすべてお金だけでやる、職業訓練制度は家父長的にやるというようにやる、と一つの制度に両方を入れるのはやめてほしい。
與那覇 ブロンではない形で混合体制はつくれるのかということですね。日本の場合ブロンになるのは、ようするにこっちの制度はこれ、あっちの制度はこれとまるで温泉旅館の建て増しみたいに、特権を拡張するのも取り上げるのもアドホックでランダムにやるからぐちゃぐちゃになってしまう。
飯田 泥縄でシステムをつくりますよね。江戸時代は基本的に判例主義なので、すべての制度にはそれをつくるきっかけがあったわけです。こういう事件で困ったからこの制度をつくる、というようにしていって、最後には誰にも法律がわからない国になっていた。
與那覇 国のかたちが封建制、つまり個別特権の積み重ねからなる分権制であるだけでなく、制度のデザインも封建的なわけですね。原理原則に基づいて法を設計したのではないので、最終的には誰も全体像がわからなくなる。
飯田 日本の経済政策マクロモデルは、それに近いかもしれない。報道でよく出される「経済効果」というのは、基本的に内閣府経済社会総合研究所のマクロ計量モデルで算出しますが、モデルの構造をわかっている人はいない。というより、そもそも「構造」と呼べるものがあるのかもわからない。
與那覇 誰が絵を描いたのかがわからなくなっている、ということですか。
飯田 そうです。役所はローテーションで仕事を担当していきますので、たまたまその部署に配属された官僚と、その時にその部署にいる学者が手を組んでやるんですね。たまにものすごく優秀な研究官が出て、その人のおかげでもっているといってもよいでしょう。
與那覇 北朝鮮研究で使われる比喩ですけど、「計画経済ですらない」ということになりますね。日本人は、あらかじめ与えられたグランドデザインのもとで頑張ることには長じています。江戸時代についての勤勉革命論とは、要するにそういう話なわけです。与えられた前提を覆そうとするのが産業革命だとしたら、農家に生まれたら農民になり、しかも耕す田んぼまで決まっていて、与えられた職業を前提にとにかくそこで頑張り抜くというのが日本人です。それが「現場力」などと美談として語られる一方で、頑張った結果が過労死にいたる、死屍累々の社会です。
勝ち逃げが許されない国
與那覇 中国では宋代に起こった郡県化についても、日本人の好みではないのでしょうか。地域や団体ごとにあるバラバラなローカルルールを全部一掃して、中央主導で統一された制度にクリアランスする、というようなことはしたくないのでしょうか?
飯田 いやそんなことはないでしょう。道州制の議論はそれに近い気もします。しかし、それによって自身が裁量できる予算が減るようなら官僚は反対、ということではないでしょうか。
與那覇 そこはデットロックに入ってきましたね。つまり、経済だけでなく制度の面でも最初のビックプッシュが必要で、その制度設計のための予算をつけるには、「すべてのルールをつくり直すんだ!」と徹底的に宣伝しないといけない。しかしそこでガツンと予算をつけようとすると、民意は「小さな政府を目指す時代に官僚たちは何をいってるんだ」ということになる。「小さな政府にするためのプランをつくりたいから予算をください」といってるのに、お前らはもっと安く働くべきだ、予算増額とは何ごとだということになって、結局何も進まないということに……
飯田 それこそ宋代以降の官僚が地元でいかにダメになったかという話と同じで、官僚自身の人生設計が天下り込みでないと成り立たなくなっていますね。
與那覇 そうですね。役得で稼ぐこと込みで、官僚という地位が選ばれている。
飯田 東大で一番だったからと大蔵省にいった人が、並かぎりぎりで卒業して都市銀行や証券にいった同級生の半分しか稼げない。そうなると人生設計上のどこかで帳尻合わせる稼ぎ方をしなければならない、だから天下りがないと困る、ということになる。
與那覇 それはまさに、ある種の地位の一貫性の低さが続いているせいで不満が生まれてくるわけですよね。江戸時代以来、「総取り」をする人が出てくることが日本人は許せない。刀を差して威張る代わりに貧乏か、商売でウハウハな代わりに武士に土下座をするか、どちらかを選べと。
飯田 小泉首相も、地位の一貫性を獲得しそうになると、急にころんと評価が変わって転んだ。
與那覇 格差の容認で躓きましたね。堀江貴文さんもまさにそうでしたけど、日本人は地位の一貫性が高い社会には我慢ならないんだというのは、見ていてすごく思いました。「金だけはある」「権力だけはある」「女にだけはモテる」とかの「どれか」はあっていいんだけど、「俺は全部持っているぜ」という人が出てくると、世間が一気に引きずり下ろすモードに入っていく。
飯田 アメリカだと一代で金持ちになって、それで選挙に当選したら、本当に「偉い人」になりますよ。
與那覇 「すべて持っているんだ」という態度は出しちゃだめなんですね。本当は持っていても「いやいや大したことないですよ」と言わないと日本では生きていけない。幅をきかせていた頃の堀江さんや小室哲哉さんを見ていて「ついに日本人も地位の一貫性が高くても我慢できるようになったのか」と思いましたが、どちらもコケたあとの叩かれ方が凄まじかった。全盛期は彼らのことを「すごいすごい」と言っていたのに。あれ、日本人もそういう国民になったのかなと思っていたら、パタっと変わって「こいつら人間のクズだ」と言い始めていた。
飯田 堀江さんのケースが、地位の一貫性が日本社会に許容されるようになるかもしれない希有な機会だったという話を、坂口孝則さんとの対談で話したことがあります。
與那覇 小室さんにしても、アメリカのスターミュージシャンみたいに豪邸を見せびらかしたりするような、日本ではちょっと珍しいタイプでしたよね。お金は稼いでも「僕はまだまだです」と言っていないと、日本では長続きしないんです。
飯田 地位の非一貫性は確かに居心地がいい。全部に序列がつくとすごくいやな感じはする。大学入試にしても、どうせペーパーができた「だけ」という言い訳が重要なんですね。
與那覇 佐藤俊樹先生もそういうことを書かれていた気がします。「僕は勉強ができた〈だけ〉ですから」という留保付きのエリートをつくっているのが日本人なんだ、と。中国の場合はまったく日本とは異なります。科挙試験に受かった時点で、地上にほんの一握りしかいない超人徳高邁集団の一員になって、政治的な実権も経済的なパイも役得で全部丸どり。
飯田 日本は業績主義化しているといわれることがありますが、その「業績」というのが非常に複合的に構成されています。東大生に大学名を尋ねると「一応東大です」って答えますもんね。
いつまでも非一貫性を求め続けるのか?
與那覇 地位の一貫性については、日本ではあきらめるしかないのでしょうか。
飯田 僕はそう思いますね。地位の非一貫性はある意味では社会にとっての安定剤にもなりうる。ある権威が壊れても、「やっぱりあんなのダメだったよね」と納得できるので認知不協和に陥らないで済む。先週まで褒めていた人を「やっぱりだめだったよね」といえるのは、日本人の頭の中の評価軸に一貫性がないからだと思うんですよ。サブプライムローンにしてもバブル崩壊にしても、何か大きな事件が起きても自分の持っている価値のうち一部しか棄損しないわけです。
與那覇 ショックアブソーバーがよくも悪くもあらゆる面で強いんですね。
飯田 ただし、ショックに対する吸収壁は、伸びるときの壁にもなるということです。
與那覇 徹底した思考変換ができないというデメリットにもなる。変革を要するような事件が起きてもなんとなくどこかで吸収してしまって、あれはあれ、これはこれだからとズルズルとやっていける。これはやっぱり近世の形だと思います。ヨーロッパ人のようにキリスト教世界観から近代合理主義へ、思考のOSを全部取り替えるような経験をしないでやってきてしまったから、いまだに平気で「江戸時代に戻ろう」とかいえちゃうんですよね。
飯田 地位の非一貫性はもう動かせないなかで、なんとかする方法はないのでしょうか。
與那覇 今は橋下さんが中国化しつつありますけど、彼にも非一貫的になってくださいと説得するしかないですよね。
飯田 橋下さんは実父が暴力団関係者だったりするなかで、苦学して弁護士になって知事になった。しかもスポーツマンとしても優秀。これ、アメリカだったら伝記が出ていますよ(笑)。典型的なサクセスストーリーなのに、日本だと「しょせんは大した家の生まれじゃない」「成り上がりめ」となる。その一方で、三世議員で大セレブ一家出身の小泉純一郎は、何回も総裁選に落ちながら最後に大逆転した苦労人みたいなストーリーを描かれる。だから小泉さんはやりきれたんだと思いますが、なんだか釈然とはしない。
與那覇 なるほど。日本ではセレブ支配は難しいでしょうね。田中角栄が立志伝中の人物といわれていまだに昭和のシンボルなのも、貴族政治の不在を意味している。
飯田 大金持ちが嫌いなのに、政治家は清貧であるべしというのも無理な話です。鳩山さんや岡田さんはそりゃクリーンだと思いますよ。なまじの賄賂なんか額が小さすぎて不要でしょうから。
與那覇 要するに、「聡明な近衛文麿」みたいなのが出てきてほしいということですか。細川さんが一時期それだと期待されて、鳩山さんも最初の二ヶ月くらいだけはそう期待された。
飯田 僕はそれはちょっと無理筋だと思うんですよね。お金で苦労したことがない人や、そもそも全くお金なんていらないというマインドの人が行う経済政策……これは一般的な国民の感覚とは全く乖離したものになるでしょう。だからクリーンな人は政策は下手、という傾向になる。
與那覇 地位の非一貫性を求めることは、逆にスーパーマンを要請している。「ぼくは弱点だらけの人間で、まったく完全じゃありません。しかし、権力を手にしても自分が欲しかったもののためではなく、100%みなさんのために使います」だなんて、そんな政治家がいるわけない。
飯田 そうですね。一貫した評価を与えるためにはスーパーマンじゃないとだめ。でもそういう人はいないので、結局それは常に一貫性の低い状態であることと同義だと思います。
與那覇 法の支配でなく人の支配でやってきたのが東アジアの伝統だから、放っておくとスーパーマン待望になるんですね。それが中国だとマオイズムになって、北朝鮮だと今のような一族世襲になっている。それに対して日本の場合は、スーパーマンなんているわけがないから、全能独裁政治だけは止めてこられたわけだけど、今後も完全に中国化しないでいけるといえるかどうかは難しいところですね。全能の独裁者が出てこないのはいいけれども、逆にいうとまともな政治家も出てこない。
飯田 一貫した評価がいかに人にストレスを与えるのかも、忘れてはいけないと思います。先日、石破茂氏とテレビ番組で一緒になりましたが、全く頭良さそうに見せないですよね。僕の知り合いの政治家のなかでは、石破さんは知識豊富で頭が切れて実務もできると三拍子そろっているんですが、全然そういうふうに見せない。地方の保守政治家の典型的な立ち居振る舞いでしょう。
與那覇 それを理解しないでコケたのが岸信介ですよね。東京帝大を出て、戦時中から大臣をやって、満州国も切り回して、俺は何でもできるからついてこいとやったら嫌われた。
飯田 民主党でいうと前原誠司氏にその空気を感じます。実際に優秀な方なんでしょうけど、ちょっと優秀に見えすぎるんですよね。米民主党でいえばアル・ゴアみたいな感じでしょうか。変ないい方ですが、昨年の代表戦で負けたのは、もしかしたら長期的には前原さんにとってはラッキーだったとさえいえるかもしれない。
與那覇 支持率は高いけど、内心は「きっと総理になったらすぐにコケるだろう」とみんなが思っている気がします。要するに反知性主義ですよね。それが多分ブロンになっていて、「頭がいいやつは机上の空論は詳しくても現実の人間を知らないに違いない」という、江戸時代的な非一貫性の思い込みと、「一流大学を出て一流官僚になって国を動かしているような連中が、科挙官僚みたいに地位も財産も全部独占しているに違いない」という中国的な思い込みの両方がバッティングして、ちょっとインテリっぽいというだけで「こいつ早くコケないかな」となる。
飯田 結論としては、政治家は表ではどんな反知性主義を唱えてもいいので、裏側では知性主義でいてくださいという感じでしょうか。
與那覇 なるほど。結局のところは日本には日本人のやり方があって、伝統芸である腹芸バンザイなんだ、みたいな話になっちゃいますけど、でもそこに落とすしかないでしょうね。
プロフィール
飯田泰之
1975年東京生まれ。エコノミスト、明治大学准教授。東京大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。著書は『経済は損得で理解しろ!』(エンターブレイン)、『ゼミナール 経済政策入門』(共著、日本経済新聞社)、『歴史が教えるマネーの理論』(ダイヤモンド社)、『ダメな議論』(ちくま新書)、『ゼロから学ぶ経済政策』(角川Oneテーマ21)、『脱貧困の経済学』(共著、ちくま文庫)など多数。
與那覇潤
1979年生まれ。東京大学教養学部超域文化科学科卒。同大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程単位取得満期退学、博士(学術)。日本学術振興会特別研究員等を経て、現在、愛知県立大学日本文化学部歴史文化学科准教授。専攻は日本近現代史。著書に『翻訳の政治学——近代東アジア世界の形成と日琉関係の変容』(岩波書店)、『帝国の残影——兵士・小津安二郎の昭和史』(NTT出版)、『中国化する日本——日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋)。新刊に池田信夫氏との共著『「日本史」の終わり 変わる世界、変われない日本人』(PHP研究所)