2020.04.28

感染症対策のための規制、ナッジ、データそして民主主義

成原慧 情報法

社会 #「新しいリベラル」を構想するために

はじめに

新型コロナウィルスの感染拡大を受けて、さらなる蔓延を防止するために、人々の行動制限や行動変容が求められている。法は、どこまで人々の行動を規制すべきなのだろうか。また、「ナッジ」と呼ばれる一見して柔らかな介入手段は、どこまで人々の行動の変容を促すことができるのだろうか。

本稿では、国内外における新型コロナウィルス対策のための取組を例にして、規制とナッジのあいだの役割分担と距離、両者のあいだで舵取りを行うための指針となるデータの収集・利用、危機における民主的な政策決定プロセスのあり方について考えてみたい。

行動制限を課す規制

人々の行動を制限する上で、中心的な役割を果たすのは、やはり法律による規制であろう。だが、日本の現行法では、感染症の蔓延防止という目的で人々の行動を制限するためにとりうる措置はかぎられている。

たとえば、本年3月に、新型インフルエンザ等対策特別措置法が改正され、暫定措置として、新型コロナウィルスについても緊急事態宣言を行い、緊急事態措置を実施することが可能になった。もっとも、同法にもとづき緊急事態宣言がなされた場合でも、都道府県知事がとりうる措置は、一般の住民や企業等との関係では、基本的に強制力を伴うものではない。住民に外出自粛を要請したり(同法45条1項)、企業等に施設の使用やイベントの制限を要請する(同条2項)ことなどができるにすぎない。

知事は、要請に応じなかった企業等に、施設の使用停止等を指示することはできるが(同条3項)、指示に従わなかった場合でも、罰則を科すことはできない。他方で、知事は、企業等に対し要請または指示をしたときは、その旨を公表しなければならない(同条4項)。施設名等の公表は、住民が対象の施設に行かないよう周知するという趣旨で行われるものと解されているが(注1)、公表を受けて人々が対象の施設に行かなくなるといった反応をすれば、その施設の経営も苦しくなることが予想されるため、公表には事実上の抑止効果もあると考えられる。

この法律がこのような謙抑的な仕組みをとっているのは、「国民の自由と権利に制限が加えられるときであっても、その制限は…必要最小限のものでなければならない」(同法5条)という考え方を重視しているからであろう。

他方で、欧米など諸外国においては、感染症対策のため、罰金など罰則により担保された強制力を伴うかたちで、企業に営業停止を命じたり、市民に外出を禁止している国も少なくない。国によっては、感染症が蔓延した都市や地域全体をロックダウン(封鎖)し、他の地域への感染の拡大を食い止めるという強硬な措置をとっている国もある(注2)。

日本でも、感染症法にもとづき、知事に感染症の蔓延防止のため、必要最小限度の建物への立入り制限・禁止や交通の制限・遮断を行う権限が認められているが(同法32条・33条)、汚染された(疑いがある)建物や場所を対象にした規定であり、欧米諸国で行われているような都市や地域全体のロックダウンを想定したものではない。

とはいえ、強制力を伴うかたちで営業停止や外出禁止、ロックダウンを行っている国でも、政府が人々の行動を思うように制限し、感染症を封じ込めることができているかといえば、周知のように、必ずしもそうとはかぎらない。不安に駆られた人々は、たとえ法に反してでも、ロックダウンされた都市から脱出しようとするかもしれない。また、何らかの事情で自宅にとどまるのが困難な人々は、違法であったとしても、外出しようとするかもしれず、そうした人々に罰則による抑止効果がどれだけ働くかも定かではない。

かわりに、アーキテクチャと呼ばれる物理的な手段(注3)により、人々の行動を事前に抑制し、外出や移動を不可能にするという選択肢も考えられる。たとえば、都市間を結ぶ鉄道を止めたり、高速道路や幹線道路を封鎖するなどして、都市を物理的に封鎖し、感染が広がる地域から人々が移動できないようにすれば、より強力に感染の蔓延を防止することができるだろう。

また、今日では、監視技術により人々の行動や位置をリアルタイムで把握して、感染の疑いのある者が移動しようとすると、自動通報を受けた警察官が駆けつけて制止したり、顔認証により駅の改札口や建物のゲートを通過できないにすることも、技術的には可能だろう。もちろん、そうした物理的な抑制すら突破しようとする人々も出てくるだろうが、移動の自由は事実上大きく抑制されることになる。

しかし、このような自由への強度の制約は、少なくとも公権力が主体となって行う場合には、日本では容易には正当化されないだろうし、そのような措置をとることは事実上も困難だろう。

行動変容を促すナッジ

そこで、人々の行動変容を促すために期待されるのが、「ナッジ」と呼ばれる柔らかな介入手段である。ナッジとは、特定の選択肢を排除したり、インセンティブを大きく変えたりせずに、個人の選択に介入しようとする手法である。

たとえば、大学は学食の料理を、学生が栄養バランスの良い料理を手に取りやすいように配列することができる。また、アプリの開発者は、利用者の位置情報が安易に収集されないように、プライバシー設定のデフォルトを定めることができる。

ナッジは、個人に大きなコストを伴わずにオプトアウト(離脱)する自由を認めている点で、個人の選択の自由を尊重するパターナリズム(リバタリアン・パターナリズム)を実現しているとされる(注4)。

新型コロナウィルス対策においても、無意識に目や口を触るのを避けるために、サングラスやマスクの着用を推奨したり、手洗いの手順を描いたイラストを掲示したり、感染防止のため自宅で待機している人々にアドバイスのメッセージを定期的に送信するなど、英国を中心に国際的にナッジを活用した取組が試みられている。

日本でも、たとえば、北海道庁は、人との距離(social distance)をとるよう促すため、ピクトグラムを掲示したり、床面にフットプリントを貼り付けたり、距離を空けて座席を配置するといった取組を推進している。環境省も、公共施設の入口付近の床面に黄色いテープを貼り付けて、訪問者を消毒液の置いてある机へと誘導するといった自治体の取組を紹介し、新型コロナウィルス対策にナッジを活用する方向で検討を進めている。

人々の行為に伴う社会的意味も、広い意味でのナッジといえるかもしれない。たとえば、ナッジの提唱者でもある法学者のキャス・サンスティーンによれば、米国では従来マスクをすると、「感染症にかかっている」とか「臆病だ」というようにネガティブに受け取られることが多かった。だが、CDC(疾病対策センター)が感染症予防のためマスクを推奨することにより、多くの人がマスクをするようになり、マスクの意味がポジティブなものに変容し、人々がマスクをしやすくなることが期待される(注5)。

日本では従来からマスクをする人が多く、米国とは前提が異なっているが、たとえば、テレワークについては同様の仕組みにより、意味の変容が起きているように思われる。これまで日本の多くの職場では、テレワークが制度的に認められていたとしても、実際に行おうとすると、「さぼっている」とか「職場をないがしろにしている」といった目で見られがちだったように思われる。ところが、政府の要請を機に、テレワークが「政府の要請に従っている」と見られたり、「感染症対策に協力している」と理解されるようになり、人々がテレワークしやすくなったということができるのではないだろうか。

とはいえ、ナッジも万能ではない。ナッジは、多くの人々の行動変容を促すことができるが、強制力を伴わないため、どうしても一定数の人々の行動を変えることは期待しがたい。ところが、感染症の場合、一部の人々の行動であっても、抜け穴があれば、そこから感染が拡大していくおそれがある。したがって、ナッジだけで感染症対策にどこまで効果があるかは定かではない(注6)。

また、ナッジは、経済的インセンティブに頼らずに、個人の心理や認知に働きかけるため、個人の行動変容を促すことはある程度期待できるものの、経済合理性にもとづき行動することの多い企業の行動変容には、限定的な影響しか及ぼすことができないだろう。

世間の評判に敏感な企業であれば、社会規範を用いた働きかけが効果を発揮するかもしれないが、世間の評判に左右されにくい企業の場合には、政府が施設名等を公表し人々に利用しないよう呼びかけたとしても、実効性は期待し難いだろう。企業が休業やイベント自粛に協力するよう促すためには、ナッジよりも、むしろ協力金や補償を支払うなど、経済的インセンティブに働きかける方が効果的かもしれない。

強制と自主性のあいだで

これまで見てきたとおり、法律にもとづき罰則を伴う規制が行われていたとしても、必ずしも人々の行動を狙い通り制限できるわけではないし、他方で、政府が自粛を要請するだけでも、自粛を求める社会規範が強力であれば、人々は行動変容を迫られるかもしれない。また、強制力を伴う規制も、十分に機能するためには、人々の自主的な遵守に支えられる必要がある。

通常は多くの人が、罰則を科せられるのを待たずに、法を自ら適用し自身の行動を律しようとすることが期待されており、そうでなければ法の執行は困難になるだろう(注7)。罰則を伴う法律であったとしても、罰則の抑止効果よりも、むしろ、その法律が人々に与えるメッセージ(たとえば、「感染症予防に協力することをみなが望んでいる」など)の方が、人々の行動に働きかける上で、大きな役割を果たしていることも少なくない(注8)。

ナッジにも強制と自主性のあいだの危うい綱渡りを認めることができる。たとえば、市役所や銀行の待合室で、距離を十分にとって椅子を配置することは、ナッジを感染症対策のため活用した好例といえよう。

しかし、たとえば、このようなアイディアを応用して、仮に感染者の多い地域(貧困層やマイノリティの居住地域と重なることもあるだろう)から人々が他の地域に移動しにくいように都市空間の配置を調整して、一定の地域の人々の移動の自由を困難にしたとすれば、それはもはやアーキテクチャによる規制に近づいているといえる。また、見えないナッジを用いて、個人の意思決定プロセスが操作されるおそれも懸念される。

このように、強制と自主性は、はっきりと線引きできるものではなく、両者は連続している面がある。ナッジから強制への道のりは意外にも近いのかもしれない。そうだとすれば、政策決定者は、強制と自主性のあいだで慎重に舵取りをしながら、適切な介入手段を模索していく必要がある。また、個人の自由という視点から見れば、ナッジのような一見して柔らかな自主性を重んじるように見える介入であったとしても、事実上強制として機能するおそれもあることを認識し、さまざまな介入に対し警戒を怠らないようにすべきだろう(注9)。

舵取りの指針となるデータの収集・分析

強制力を伴う規制を行うか、ナッジを用いるかにかかわらず、政策決定者が、感染症拡大防止のためにいかなる手段をとることが必要かつ合理的なのか判断するための前提として、感染症や人々の行動についてのデータの収集・分析が必要となる。たとえば、利用者の位置情報や検索履歴を分析して、地域ごとの感染状況や人流を推定することは、政策決定者が効果的な感染症対策を進める上で助けとなるだろう。

罰則を伴う外出禁止を行っている国と、外出自粛要請に留めている国のデータを比較して、感染症の拡大や人出にどれだけの相違があるのか分析できれば、各国の政策決定者や専門家が、感染症対策のために効果的な政策を議論し決定する上でも大いに参考になるだろう。また、購買履歴など各種のパーソナルデータを活用すれば、それぞれの個人の嗜好や傾向に合わせて、パーソナライズされたナッジを提供することも可能になる(注10)。だが、政策決定者は、多くの場合、そうしたデータを自ら保有しておらず、直接アクセスすることもできない。

そこで、各種のデータを豊富にもっている民間企業への期待が高まることになる。欧米を中心に各国で、プラットフォーム事業者による感染者の接触追跡アプリの開発や政府への情報提供などが行われている一方、その際のプライバシー等の保護のあり方についても検討が進められている(注11)。日本でも政府が通信キャリアやプラットフォーム事業者に対し感染拡大防止に資する統計データ等の提供を要請し、これに応じてヤフーNTTドコモなどが利用者のプライバシー等に配慮しつつ、統計データ等を提供することにしている。

政府が関連するデータを分析し、効果的な感染症対策を行うために活用することは望ましいことであるが、他方で、政府がセンシティブな情報も含まれるデータを利用できるようになると、プライバシーが侵害されたり、不当な差別に用いられる懸念もある。

今のところ日本政府の要請により提供が想定されているのは、個人情報には該当しない統計情報等のデータではあるが、それでもなお、データの性質や利用法によっては、プライバシーが脅かされたり差別が生じるおそれは完全には否定しきれないだろう。そこで、プライバシー等に配慮したデータの加工のあり方や、データの利用目的の限定、データの保存期間の制限、データの利用方法についての透明性・説明責任の確保などが課題となる。

信頼される舵取りの条件――自分たちで舵取りをしていると信じられるために

とりわけ重要なのが、データを利用する政府に対する国民の信頼と、それを裏付ける政府の透明性や説明責任であろう。そのためにも、日頃から政府が、情報公開を積極的に行い、公文書管理を適正に行うなど、政策決定プロセスの透明性を確保し、説明責任を果たすことにより、国民から信頼を得られるようにすることが肝要であろう。

また、データを提供する企業も、利用者から信頼を得られるよう、データの利用や提供のあり方について、プライバシーポリシーや透明性報告書などを通じて丁寧にわかりやすく説明したり、専門家らの参加する第三者機関によるチェックを受けるといった取組を進めることが期待されるだろう(注12)。

また、こうした取組が適正に進められる上では、市民からの批判や監視の目も欠かすことはできない。民主政治のプロセスに参加するために不可欠の人権として、憲法により手厚く保障された表現の自由の真価が試される場面と言えよう。感染症が拡大し個人の行動を制限せざるを得ない緊急時だからこそ、批判を控えるのではなく、的確な批判を行うことが必要なのだ。現実空間の集会やデモが困難な現状では、とりわけ、ソーシャルメディアなどインターネット上の言論が重要な役割を果たすことになるだろう。

緊急時には、みなの利益を守るために個人の自由を平時よりも制限せざるを得ない場面もありうる。だからこそ、個人の自由を制限しうるさまざまな政策について、エビデンスと専門知を尊重しつつ、透明性のある開かれたプロセスにより民主的に決定が行われているか一層真剣に問われなければならない。

(注1)新型インフルエンザ等対策研究会(編)『逐条解説 新型インフルエンザ等対策特別措置法』161頁(中央法規出版、2013年)、内閣官房新型コロナウイルス感染症対策推進室長「第45条の規定にもとづく要請、指示及び公表について」(令和2年4月23日)参照。

(注2)日本経済新聞電子版「欧米は私権制限 外出禁止に罰則、日本と強制力で違い」(2020年4月7日)参照。See also, Tom Ginsburg and Mila Versteeg, States of Emergencies: Part I, Harvard Law Revie Blog(Apr. 17, 2020).

(注3)政府は、法のみならず、アーキテクチャ、社会規範、経済的インセンティブなどを用いて個人の行動を規制することができると指摘し、その問題点について論じたものとして、Lawrence Lessig, The New Chicago School, 27 J. L. S. 661 (1998).

(注4)リチャード・セイラー=キャス・サンスティーン(遠藤真美訳)『実践行動経済学—健康、富、幸福への聡明な選択』(日経BP社、2009年)参照。

(注5)Cass Sunstein, The Meaning of Masks (April 10, 2020), Journal of Behavioral Economics for Policy (Forthcoming).

(注6)依田高典教授のツイート参照。

(注7)法の自己適用につき、Jeremy Waldron, Dignity, Rank and Rights 52-53 (Oxford University Press, 2012).

(注8)Cass Sunstein, On the Expressive Function of Law, 144 U. Pa. L. Rev. 2021 (1996).

(注9)ナッジにおける強制と自由の連続性について論じたものとして、成原慧「それでもアーキテクチャは自由への脅威なのか?」那須耕介=橋本努(編)『ナッジ!?―自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』(勁草書房、2020年刊行予定)参照。

(注10)キャス・サンスティーン(伊達尚美訳)『選択しないという選択―ビッグデータで変わる「自由」のかたち』6章(勁草書房、2017年)参照。

(注11)See, e.g., OECD, Tracking and tracing COVID: Protecting privacy and data while using apps and biometrics (Apr. 16, 2020).  寺田麻佑=板倉陽一郎「COVID-19(新型コロナウィルス感染症)に対応するためのビッグデータの利活用と個人情報保護―諸外国の状況を中心にー」情報処理学会EIP研究会報告予稿(2020年公表予定)も参照。

(注12)参考になる取組として、ヤフー株式会社「新型コロナウイルス感染症のクラスター対策に資する情報提供に関する協定を厚生労働省と締結」(2020年4月13日)参照。

プロフィール

成原慧情報法

1982年生まれ。九州大学法学研究員准教授。専門は情報法。表現の自由、プライバシー・個人情報保護、人工知能・ロボットに関する法的問題について研究している。主著に、『表現の自由とアーキテクチャ』(勁草書房、2016年)、『アーキテクチャと法』(共著、弘文堂、2017年)、『ナッジ!?自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』(共著、勁草書房、2020年刊行予定)など。

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