2020.10.29

環境を美的に鑑賞するということ――環境美学と環境倫理学との対話

青田麻未×吉永明弘

社会 #環境倫理学のフロンティア

シリーズ「環境倫理学のフロンティア」では、環境倫理学の隣接分野の研究者との対話を行っていきます。第一回目は「環境美学×環境倫理学」として、若手の環境美学の研究者である青田麻未さんと対話を行いました。

今回のテーマである「環境美学」について、青田さんにお聞きしたところ、以下のような説明をいただきました。

「環境美学とは、1960年代後半から1970年代ごろ、イギリス・アメリカ・カナダといった英語圏で、現代美学の一分野として興ったものです。その背景には、当時の美学が自然美論を無視していたこと、そして、社会において環境問題への関心が高まったことがありました。当初は原生自然と言われる、手つかずの自然が持つ美的価値について、中心的に議論していました。しかし現在では、人間が住む環境も含めた幅広い環境において、私たちの感性がいかに働くのかについて、多角的に論じる分野へと成長しています。」

青田さんは、今月(2020年9月)、博士論文をまとめた単著『環境を批評する――英米系環境美学の展開』を公刊しました。今回は、そこで展開されている議論をふまえて、環境美学と環境倫理学との関係と、近年の環境美学の特徴、そして、そのなかでの青田さんのお考えについてお聞きしました。

 

『環境を批評する』について

吉永 先日青田さんが出版された『環境を批評する』は、カールソン、バーリアント、ブレイディといった、環境美学の主要な論者の議論を要約し、紹介しています。その上で、彼らの議論の問題点を指摘し、それを独自に発展させようとしています。哲学論文のお手本のような内容になっていますね。

環境美学の概要を知りたい人にも便利だし、哲学論文の書き方を学ぶ上でも有益だと思います。また、これまでの美学・芸術学と、「環境」美学の違いが、この本を読むとよく分かります。最初にお聞きしたいのですが、アメリカの環境美学の主要な理論が網羅されていると考えてよいのでしょうか。大きな省略があったりしますか。

青田 『環境を批評する』では、「環境美学にできること」を追求することに力点を置きました。環境美学は、環境倫理学と密接な関係をもちながら展開してきました。そのため、環境美学には、分野横断的な視点が内在しています。このこと自体は良いことだと思うのですが、しかし一方で、美学だからこそできることを突き詰める作業を止めてはいけないと考えます。それは、われわれの感性のはたらきを問題化する、ということです。

こうした問題意識から、環境を鑑賞するというとき、そのフレームはどのようなメカニズムのもとで構築されるのか、そして、環境を美的に判断する際に、どのような規範性のもとでそれが行われるのか、このような問いを投げかけました。こうした問いを組み合わせることで、環境美学の美学理論としての体系性を確保することができると考えたからです。

簡単に言うと、それは、環境の美的鑑賞はどのように行われるのか、あるいは行われるべきなのか、ということになりますが、こうした問いを分析する環境美学の本流である英米系の理論については、注も含めて網羅的に紹介するよう努めました。

ただ、環境美学に含まれるトピックという観点から考えると、拙著では扱えなかったこともあります。たとえば、環境アートと言われる芸術ジャンルがあります。それは、ロバート・スミッソンやマイケル・ハイザーのように、自然環境に大規模に手を加える初期のアースワークや、近年も増加傾向にある環境問題をテーマとするような作品ですね。実際、こうしたアートについて、環境美学の観点から論じている論文も散見されます。

カールソンは1986年に、「環境アートは自然に対する美的侮辱か?」という論文を書いています。そこで、特に初期のアースワークが自然の美的性質を人為によって改変するがゆえに、自然に対する美的侮辱になりうるという論を展開しています(Carlson [1986])。またこうした反対の論調以外にも、ある種の環境アート、たとえばリチャード・ロングのように、歩行によって一時的に地面に線を描く作品は、自然と人間とのありうべき関係を示すという点で、むしろ環境美学的に見て望ましいものだという議論もあります(Tafalla [2010])。このようなアートと環境美学の関係についての議論は、拙著ではほとんど扱うことができていません。

 

環境倫理学と環境美学に共通の動向:日常性への接近

吉永 近年のアメリカの環境倫理学の標準テキストとされているThe Oxford Handbook of Environmental Ethicsのなかに、環境美学の論文があって、以前それを青田さんに要約していただいたことがあります(『環境倫理』第2号https://peraichi.com/landing_pages/view/kankyorinri)。

そのときに気づいたのですが、アメリカの環境倫理学の歴史と環境美学の歴史にはパラレルなところがあるのですね。どちらも1970年代にスタートし、最初は「原生自然」(wilderness)が対象になっている。環境倫理学では人間非中心主義ということで、人間の手の加わっていない自然を、自然自体の価値(内在的価値)のために守ることが提唱された。環境美学では、カールソンが原生自然を科学的知識のもとに鑑賞することを主張した。そしてどちらもソローやミューアのようなナチュラリストの思想家を重視しています。環境倫理学は思想家・実践者として、環境美学は模範的な鑑賞者として、ですが。

その後、環境倫理学も環境美学も、「日常の環境」に注目するようになりました。環境倫理学ではアンドリュー・ライトがその代表ですが、環境美学でも彼の名前が言及され、日本でも西村清和編『日常性の環境美学』という本が出ています。つまり、両者に共通して、「原生自然から日常の環境へ」という流れがあると思ったのですが、このまとめは正しいですか。

青田 そうですね、おっしゃるように、環境美学においても、まずは原生自然から議論がスタートしました。そして、そこから徐々に日常の環境へと関心が広がっていった。おおよその流れはそうなります。環境美学の最も代表的な論者の一人であるカールソンはカナダの人物ですが、やはり北米的な、雄大で「手つかずの」自然をモデルケースとして議論をスタートしています。

また、原生自然から議論が広がっていく過程では、北米以外の論者が果たした役割も大きいです。たとえば、イギリスのマルコム・バッド。彼は、街中の街路樹、あるいは生息地を離れて人間の土地を飛ぶ鳥なども「自然物」だと言います。カールソンのように原生自然にこだわる立場は、こうした日常の自然を見えにくくしてしまうと指摘します。つまりバッドからすれば、カールソンの言う自然は「狭すぎる」概念であるということになります(Budd [2002])。

また、アメリカで活躍する日本出身のユリコ・サイトウのような人物もいます。彼女は、アメリカで積極的に日本の自然観を紹介することで、広大な原生自然だけではなく、身近な自然物、あるいは雨などの天候にも目を向ける議論を展開しています。サイトウはさらに、環境美学から派生した、日常美学と呼ばれる分野の立役者でもあります。日常美学は環境に限らず、日用品や家事など、さまざまなことをテーマにした美学的考察を行います。そこでも美学と倫理学の交差が重要な問題となります。

一つの事例として、サイトウは日本の贈り物の包装、たとえば竹の皮で包まれた和菓子のようなものをあげます。そうした包装は、自分の手による身体的参与を伴いながら解くようにできているために、ハサミを使ってプラスチックの包装を雑に破くのとは違って、モノに対する配慮を誘発すると言います(Saito [2007])。つまり、この種の包装においては、美的なよさと道徳的なよさが不可分なかたちで現れている、ということですね。

 

なぜ自然を守るのか:美的価値と生態学的価値

吉永 ユリコ・サイトウさんの話は面白いですね。「日用品の美学/倫理学」を日本から発信しているように思います。そういった日用品を含めて、私が日常のもの、身近なものに注目しているのは、自然保護運動の現場の流れとリンクしているからでもあります。

日本の自然保護運動は、尾瀬の保存運動から始まりました。運動の中心は登山家や植物学者でした。この運動が、日本全体の自然を守る動きへと発展し、「日本自然保護協会」が生まれました。そこでは当初、人があまり入らない奥山や、貴重な自然を保護運動の中心においていましたが、次第に「身近な自然」とのかかわりや維持管理に注目するようになりました。背景には奥山の問題に一通り手をつけることができたこともあります。

また、都市の大気汚染や住環境の悪化などが問題になっていた時期には、遠くの自然を守る前に、身近な生活環境を改善しようと思うのは分かるような気がします。さらに、自然保護運動の裾野を広げるという意図があって、自然保護を一部の登山家や植物学者だけの活動にするのではなく、一般市民に広げたいということがあったと思います。

さて、環境倫理学の視点から興味深いのは、この流れのなかで「自然を守る理由」が変わったということです。当初は、なぜ尾瀬を守るべきなのか、という質問に対して、彼らの答えは景勝地であり学術的価値があるからというものでした。当初は優れた風景を守るためという「美的価値」が表に出ていたわけです。

その後、日本の自然保護は、日本自然保護協会会長の沼田真さん(生態学者)の力によって、二つの転回を遂げます。一つは、保全生態学の知見が重視されるようになったこと。景観のため、学術のためではなく、生態系のために守るのだ、と主張するようになりました。もう一つは、国際連携です。日本国内の論理で動くのではなく、国際的な自然保護の論理(保全生態学に基づいています)と動向を意識するようになりました。

これは先ほどの「裾野を広げる」という意味でも重要で、自然保護を一部の登山家や植物学者の活動から、一般市民の活動にしなければならない、日本ローカルの論理ではなく、グローバルな根拠に基づくものにしなければならない、ということです(日本自然保護協会[2002])。

そのなかで、生態系を管理しなければならないのは、それがもたらす人間の福利を維持するためであるとする、「生態系サービス」の考え方が広まりました。環境倫理学では、長期的に見れば、人間の利益と自然の利益は一致するという「収束仮説」に基づく「弱い人間中心主義」が提唱されるようになりましたが、それは保全生態学の動向と一致します。

このようにして、自然を守る理由は「美的価値」や「学術的価値」から「生態学的価値」へと移行した、とまとめられると思います。繰り返しますが、この移行の背景には、一部の人々の活動ではなく、自然保護を一般市民の活動にするという意図があります。「美的価値」や「学術的価値」だと、一部の自然愛好者の趣味と受け取られがちですが、「生態学的価値」に訴えれば、全員に関係のある話になるからです。

しかし素朴に考えれば、「自然を守りたい」という感覚にのなかには、「このきれいな景色を残したい」という美的な理由が当然含まれているように思います。それは一般市民が共有しうる(すでにしている)感覚ですよね。環境美学はその素朴な感覚に答える分野だと考えます。

先ほどは環境倫理学と環境美学がパラレルな動向を示していると言いましたが、ここで両者ははっきりと分かれてきます。環境倫理学は市民への環境保全の動機づけを行うとも言っていますが、どちらかというと実現可能性を求めて政策志向になり、客観性根拠を求めて保全生態学に接近しています。それに対して環境美学は、市民への環境保全の動機づけの議論をストレートに行っている(行いうる)ように思えます。

青田 環境美学は当初から、自然の美的価値が自然を守る理由になる、ということを確かに強く訴えてきました。しかし、そこで言われる「美的価値」の内実には、少し注意をする必要があります。

拙著の第2章で言及しましたが、カールソンは一般に美的価値と言われるとき、それがいわゆる景勝地のように、見た目にわかりやすい美しさを持つことと解釈されていることに異議を唱えています。美学においては、18世紀ごろから「ピクチャレスク」という概念があります。これは文字通り「絵のような」ということを意味し、クロード・ロランなどの風景画に出てきそうな自然風景を、美的にポジティブなものとして評価するものです。ちょうど観光の勃興とも連動し、当時のイギリスではピクチャレスクツアーと言われる、絵のような風景を求めて出かける旅もブームとなりました。

実際にはこのピクチャレスクという概念は、たんに絵のようだということを意味する以上の含蓄を持っています。近年では、環境美学内部でも、この概念が持つ豊さについての見直しがされています(Brady, Brook and Prior [2018])。しかし環境美学の黎明期にあって、カールソンはこうした視覚的な魅力のみによって自然を見ることは、実際には自然の美的価値を正確に理解したことにはならないと主張しました。そこで彼が訴えかけるのが、生態学的価値です。

先ほども、環境美学ではソローやミューアが模範的な鑑賞者として扱われているという話が出ました。なぜ、彼らが模範的だとされるのか。それは、自然に関する知識を有していることで、視覚的な魅力のみに引きずられてしまう人々が見出すことのできない「真の美的価値」を鑑賞することができるからだ、とカールソンは言います。

自然に関する知識とは、生態学的知識に代表されるような、自然物をそのほかのものとの連関のなかで捉えることで、まさにある場所を「環境」というひとまとまりとして理解することを可能にするものです。科学の目で見ると、なんてことのない沼地にも、その場所なりの生態系があり、そのメカニズムは驚くべき調和を実現している。それに気づくことで、場所の見え方がガラリと変わる。

ふつうの人はイグアスの滝のようなわかりやすいスペクタクルに惹かれるだけで、そんな地味な沼地は通り過ぎてしまうかもしれない。けれども、模範的な鑑賞者は、その沼地にもまたポジティブな美的価値を見出すことができるわけです。

このようにカールソン的なモデルのもとでは、美的価値と生態学的価値を結合することで、より強固に美的価値を環境保護の理由に据えるわけです。そうすることで、美的価値は一般市民の目線から結構遠ざかるものになっていくと言えるかもしれません。また、彼の言う生態学の意味合いには、生態系サービスのような、人間にとっての利益という視点はあまり含まれていないようにも思えます。

もう一人の環境美学の代表的論者としてあげられるのがアーノルド・バーリアントですが、彼がエコロジーということばを使うとき、我々人間をも含む有機的な連関のことを強調しています。我々をその一部とするものとしての生態系として、世界全体を捉えるような傾向があります。

彼は「参与の美学」という言葉で自身の思想を表現します。我々が自分の身体で環境のなかへと入り込み、環境との一体感を複感覚的に感じることが、環境の美的経験の特徴だと言うんですね。この場合の美的価値は、自分たちがまさしく生態系の一部である、ということを感じ取る身体的経験に根差します。カールソンとは全く別の意味で、美的価値と生態学的価値が接近していると言えますね。

もしかするとこちらのほうが、市民的なというか、我々の日常経験と重なるところも多いかもしれません。このように、美的価値と生態学的価値の関係ひとつをとっても、環境美学は一枚岩ではない部分もあります。

吉永 『生物多様性という名の革命』というタカーチの本があります。この本は保全生物学者へのインタビューに基づく科学論なのですが、そこでタカーチは、自然保護のために保全生物学者になった動機を聞いてまわっているのです。

面白いのは、もっともらしい動機が語られる一方で、「お気に入りの遊び場だった森が開発でなくなり、生きものもいなくなって嫌だった」という個人的な動機も語られていることです。しかしそういう「本当の動機」は主観的なので政策決定にいれられず、客観的根拠によって粉飾しているようにも思えてきます。

環境倫理学は自然保護の客観的根拠を追究してきましたが、実はこういう主観的動機が自然保護運動を動かしており、それは別に悪いことではない気がします。環境美学はこのような「本当の動機」にストレートにアプローチする分野のように思います。

青田 主観的経験は、個人のレベルでは自然保護へと向かう強い動機となりえても、客観性を欠いていると思われがちですね。だから何か他の根拠を探すということが行われるわけです。しかし、その主観的な経験というものが単なる「個人の感想」ではない可能性もある。すなわち、それがある種の人々のあいだで共有されてきた経験であった場合、その経験には強い意味での客観性はなくとも、間主観性はあると言えるかもしれません。

人との会話のなかで美的なものの話をすると、「感じ方は人それぞれ違うから、美を感じる対象もみんな違っている」といったふうな感想を受け取ることが多いです。それは一面では正しいかもしれないのですが、しかし私たちの感じ方が一人一人、完全に違っているかというと、実際にはそんなことはないでしょう。美的判断の客観性というか、他者との共有可能性については、カントまで遡らなくとも、現代の美学でも広く議論されているところです。

 

 

「そうはいっても原生自然は格別」論について

吉永 さて、1990年代以降になると、環境倫理学と保全生態学はともに「原生自然」(wilderness)という考え方を批判するようになりました(鬼頭[1996]、マリス[2018])。むしろ積極的に人間が手を入れて自然を管理していくべきだ、という意見が非常に強くなっています。「人新世」論がそれを後押ししているように思います。「人新世」とは、新たな地質年代として提唱されたもので、人間活動が地層にその痕跡を残すまで自然界に甚大な影響を及ぼしていることを強調するためにつくられた言葉です。

そんな中で、哲学者の河野哲也先生は、人間にとっての「原生自然」の重要性を訴えました。そうはいっても相対的に人の手が入っていない自然や、人が住めない場所が存在し、そこでの体験は格別なものだというわけです。アメリカでも、アンドリュー・ライトが論文集のなかで「日常的な環境」の重要性を訴えたあとに、編者がそれに対して「そうはいっても非日常の体験は格別ではないか」というコメントを添えています(さらなる考察のための質問、という読者むけの趣向ですが、編者が寄稿者の論文にケチをつける構成は非常に面白かったので印象に残っています(Light [2010])。

著書を拝読したところ、青田さんは日常的な環境の重要性にも留意しているけれども、根底には「そうはいっても原生自然の体験は格別」という感覚があるように見受けられます。このあたりはいかがでしょうか。

青田 河野先生の『いつかはみんな野生にもどる』は、私も興味深く拝読しました。この本のなかでは著者の実際の自然経験が語られ、そこから原生自然の重要性が立ち現れてきます。私のことについて言うと、実はほとんど原生自然と呼べるようなものを経験したことがありません。

昨年、カリフォルニア州を訪れた際、親戚に連れられてチャンネルアイランズ国立公園のサンタクルス島に行きましたが、それが初めての(そして今のところ唯一の)「アメリカの国立公園」体験でした。

切り立った崖から見下ろす海や、この島の固有種であるキツネとの出会いなど、自然景観に圧倒される部分もあったのですが、この島は以前人が住んで牧場経営を行っていたという歴史もあるので、当時の小屋など文化的な風景も残されていました。また、島に辿り着くまでも大勢でフェリーに乗り合わせていて、私たちは8人グループだったので呑気にポテトチップスを食べながら現地に到着したので、なんというかこれまで自分がミューアのテクストなどから想像していた「孤高の原生自然」体験とは違ったものになりました。

環境美学に話を戻すと、特にカールソンは、芸術を模範として、自然の美的鑑賞の仕方を考えます。芸術鑑賞には芸術史や芸術批評に関する知識が求められるのだから、自然についても同様に、その対象がなんであるのかを知るための知識が必要である、そしてその知識とは科学的知識だと彼は言います。カールソンはさらに、自然の適切な美的鑑賞の方法を学ぶ際に科学的知識は必須だが、神話や民話の知識のような、我々の生活に根差すようなものは自然という対象そのものの理解には結びつかない、だから補助的に参照されることはあっても鑑賞の中心を占めるべきではない、と主張してもいます。

こういう話を見ていくと、彼のなかでは、原生自然はたんに芸術と同じように鑑賞されるべきものだというだけではなく、我々にとってまさしく芸術と同じような対象であると考えられているのではないかと思えてきます。つまり、どちらも我々の生活から離れた格別の対象であるという理解です。

私自身は、私の生活に根差す日常的な環境が好きで、またその重要性も感じます。海も好きですがより身近では川が好きで、災害のリスクはあってもできるだけ川の近くに住みたい。また、学会などで別の街へ行くときも、川とその周りの景観がどうなのかをチェックしたくなります。でもなぜ川が好きなのかと考えると、もしかすると、川は日常的な環境と自然との両方の鑑賞を、想像のなかで一挙に楽しませてくれるからかもしれません。

川の面白さは、下流においては私たちの生活と一体になっているものの、しかしさらに下流へ進んだり、あるいは上流へと遡ったりすれば、「原生自然」とは言えなくともやはり何か私の生活とは遠い海や山と結びついている(家の近くの川も、ずっと辿れば去年行ったチャンネルアイランズ国立公園にまで至るわけです!)。私は川崎生まれの横浜育ちで、東京圏内を離れて生活したこともありません。両親もそのあたりの出身で、いわゆる田舎もありません。だからもしかすると、知らず知らずのうちに、そうした遠くにあるものとしての自然を特別に思っているのかもしれません。

吉永 近くの川がチャンネルアイランズ国立公園につながっているというのは大事な感覚ですね。

「制作」の環境美学の可能性と危険性について

青田 環境美学は「すでにあるものをどう鑑賞する」か、という観点から議論します。そのため、そこで語られる規範は、ほとんどが鑑賞に関する規範です。しかし環境というのは、今を生きている私たちがつねに手を入れることのできるものであり、広い意味で「制作」しうるものでもあると思います。

ここでいう「制作」とは、人間中心主義的な発想で開発をするということではなく、環境の回復を図ることもそうですし、また、持続可能なかたちで手を入れるということも、他者の制作を阻止して別案を立てることも想定できます。また、ある種の鑑賞は環境に対して何らかのイメージを付与するという意味で、さらに広い意味での「制作」と言えるかもしれません。

こんなふうに、環境に対して何らかの影響を行使する活動として制作を捉えることで、鑑賞論としてだけではなく制作論としても、環境美学を展開することができるのではないか。そういう構想を私は持っています。環境倫理学では、環境に対する行為の理由や、その行為が依って立つ規範について議論がされていると思います。では、美的規範がその議論に入ってくることの有用性や危険性について、どのように考えられると思いますか。

吉永 環境を「整備」する試みはこれまでなされてきて、そこには美的な整備も含まれています。都市計画の分野では「景観創造」という言葉で、美しい街づくりが称揚されていますし、自然保護の分野でも、自然再生事業のなかには美的な要素もあります。

2005年ごろに行われたソウル市の「清渓川復元プロジェクト」は、自然再生事業と言われていますが、生態系の回復というより、街の美的なイメージアップの要素が強いですね。これは環境の「制作」と言ってよいでしょう。環境の制作に美的な要素が入り込むのは古くからあったと思います。パリの大改造も政治的・社会的必要性だけの問題ではないでしょう。

このテーマで興味深いのは、神奈川県真鶴町の「美の条例」(真鶴町まちづくり条例)です。これは「美」の実現を図るための条例と思われがちで、美的規範が「条例」という強制力を含む規範のなかに入り込んでいるという点で、異常かつ危険な印象を与えます。

つまり立法者の美的な好みを、条例で住民に強制するような印象を与えるのです。詳しくは拙著『都市の環境倫理』で論評しましたが、結論を言えば、この条例に書かれている「美の基準」は、住民による真鶴の魅力をキーワード化したもので、それをできるだけ残していこうという趣旨になっています。

この条例の基本的な目的は、街の景観を「できるだけ変えない」ことにあります。実際、真鶴町のなかで素晴らしい美的体験があるかというと、そうでもありません。それよりも何度訪れても印象が変わらないという点に、「美の条例」の効果があるように思います。それを「美」と表現したことで有名になったわけですが、基本的な考え方は「できるだけ変えない」という点にあるのです。

松原隆一郎『失われた景観』では、新しい(美しい)景観を創出したいという自治体と、景観の連続性を求める住民の訴え(景観を急激に変えないでほしい)が対比されていますが、「美の条例」は景観の連続性を保障するための条例といえるでしょう。

私は都市アメニティについての授業で次のように話しています。「私はアメニティの専門家だ。私の言う通りの街をつくればアメニティが実現する」と語る人は危険人物で、その人が思うアメニティが住民に押しつけられることになる。そうではなく、実際にそこに住んでいる住民が感じている、または必要としているアメニティを掬いあげて街づくりをすることが大切だ、と。

環境を美的に制作するというのは、これと同じ配慮が必要ではないでしょうか。つまり誰にとっての美なのか。個々人によって異なるということをふまえつつ、先ほどおっしゃっていたように、間主観的に共有される部分があることに注目して、その間主観的に共有される部分をうまく掬い上げることがポイントではないかと思います。真鶴町の「美の条例」はそれをやっているといえます。

環境美学と環境倫理学の結節点

青田 昨年、The Oxford Handbook of Environmental Ethics(アメリカ環境倫理学の標準テキスト)の環境美学に関する記事を昨年まとめました。そのなかでブレイディが、自身の「批評的多元主義」は自然の多様性を考えるという意味で「環境プラグマティズム」と連動するという話をしていました。しかし、環境プラグマティズム的な発想には、ただ自然の多元性を考えるというだけではなく、理論の有効性を実践とのつながりのなかで評価するという点もあると思います。環境プラグマティズムの枠組みのなかで美的価値に関する議論が持ちうる意義について、どのように考えられますか。

吉永 環境プラグマティズムのなかでは、市民に環境保全への動機を持たせるにはどうすればよいか、ということが議論されています。そのなかでアンドリュー・ライトは、実際のところ人々が環境を守るのは「将来の人々も良い環境を享受できるようにするため」ではないか、つまり、自分だけが良い環境に住めればよいのではなく、将来の人々のことも考えるという、「弱い人間中心主義」の動機が主流なのではないか、そこにアピールすることが重要ではないかと述べています。

それと同じように、人びとが自然を守ろうとする本当の動機は、「この美しい自然を残さねば!」という美的な使命感ではないかと思うのです。先ほど、環境美学はこのような「本当の動機」にストレートにアプローチする分野のように思う、と述べたのは、環境プラグマティズムの議論をふまえています。このあたりに環境美学と環境倫理学の結節点があると考えます。The Oxford Handbook of Environmental Ethicsに環境美学の論文が収録されているように、環境美学の論集のなかに環境倫理学が入ることはあるのでしょうか。

青田 美学のトップジャーナルのひとつであるJournal of Aesthetics and Art Criticismでは、2018年に特集号 “The Good, the Beautiful, the Green: Environmentalism and Aesthetics”を組んでいます。タイトルに環境保護論と出ていますが、まさにこの特集号は環境美学と環境倫理学の交差する地点の問題を扱う論文が収録されています。

この特集号の元になったのは、2016年にアメリカのインディアナ大学で開催されたワークショップで、私もそこに聴講に行きました。そのときも肌で感じたのは、環境美学者にとって広い意味での環境保護が、1970年代から今まで連続してアクチュアルな問題になっているということです。

拙著では初期の環境美学と環境倫理学の接点について触れていますが、現在ではたとえば、カールソンは中国の環境美学に注目することで新しい議論を展開しようとしています。また、気候変動問題にアプローチする論者もいて、そうした新展開をこの特集号では見ることができます。私も『現代思想2020年3月号 特集=気候変動』掲載の「環境美学における気候変動の問題」で、気候変動と環境美学についての議論状況を整理しています。

吉永 ますます環境美学と環境倫理学が接近してきているわけですね。今後も議論を続けていければと思います。本日はどうもありがとうございました。

文献

・青田麻未(2020)「環境美学における気候変動の問題」『現代思想2020年3月号 特集=気候変動』青土社、144-153

・――― (2020)『環境を批評する 英米系環境美学の展開』春風社

・鬼頭秀一(1996)『自然保護を問い直す』ちくま新書

・タカーチ、デヴィッド(2006)『生物多様性という名の革命』日経BP社

・西村清和編(2012)『日常性の環境美学』勁草書房

・日本自然保護協会(2002)『自然保護NGO 半世紀のあゆみ 日本自然保護協会50年誌』平凡社

・松原隆一郎(2002)『失われた景観 戦後日本が築いたもの』PHP新書

・マリス、エマ(2018)『「自然」という幻想』草思社

・吉永明弘(2014)『都市の環境倫理 持続可能性、都市における自然、アメニティ』勁草書房

・Brady, E, Brook, I, and Prior, J. (2018) Between Nature and Culture: The Aesthetics of Modified Environments. Rowman and Littlefield.

・Budd, M. (2002) The Aesthetic Appreciation of Nature. Clarendon Press

・Carlson, A. (1986) “Is Environmental Art an Aesthetic Affront to Nature?” Canadian Journal of Philosophy 16 (4), 635-650

・Light, A.(2010) “The Moral Journey of Environmentalism: From Wilderness to Place”

Pragmatic Sustainability: Theoretical and Practical Tools Routledge,136-148

・Tafalla, M. (2010) “From Allen Carlson to Richard Long: The Art-Based Appreciation of Nature.” Proceedings of the European Society for Aesthetics 2, 491-515

・Saito, Y, (2007) Everyday Aesthetics. Oxford University Press

プロフィール

吉永明弘環境倫理学

1976年生まれ。2006年千葉大学大学院社会文化科学研究科修了。現在、法政大学人間環境学部教授。専門は、環境倫理学、公共哲学。著書『都市の環境倫理――持続可能性、都市における自然、アメニティ』(勁草書房、2014年)、『ブックガイド 環境倫理――基本書から専門書まで』(勁草書房、2017年)、編著に『未来の環境倫理学』(勁草書房、2018年)。

この執筆者の記事

青田麻未環境美学

東京大学大学院人文社会系研究科単位取得退学(博士:文学)。現在は、日本学術振興会特別研究員PD(成城大学)。桜美林大学、明治学院大学、明治大学で非常勤講師を務める。著書に『環境を批評する――英米環境美学の展開』(春風社、2020年)

この執筆者の記事