2026.08.25
他人に合わせなくても生きられる社会――「反社交の世紀」の先にあるもの
友人との約束がキャンセルになって、少しほっとしたことはないでしょうか。
会えば楽しいことは分かっています。それでも出かけるには準備が必要です。
髪を整え、服を選び、相手と時間を調整し、待ち合わせ場所まで移動しなければなりません。
疲れていても、ある程度は相手に合わせることになります。
予定がなくなれば、家で好きなものを食べ、好きな動画を見て、好きな時間に眠ることができます。
しかも、いまやひとりでいることは、さほど退屈でも不便でもありません。
アメリカのジャーナリスト、デレク・トンプソンは、こうした傾向が広がる現在を「反社交の世紀(The Anti-Social Century)」と呼んでいます。
彼が紹介している American Time Use Survey(アメリカ人の時間の使い方調査)によれば、アメリカ人が対面で人と交流する時間は、20年前より20%以上減少しています。
ひとりで過ごす時間は、信頼できるデータが残る範囲で、過去最高の水準に達しています。
この数字をもとにトンプソンが強調するのは、人びとがただ孤独を強いられているだけでなく、ひとりでいることを自ら選ぶようにもなっているということです。
ここには、従来の「孤独」論だけでは捉えきれない変化があります。
孤独ではなく、「反社交」
孤独については、これまで多くのことが語られてきました。
地域社会が衰退し、人間関係が希薄になり、SNSが人びとを分断した。
こうした見方では、人間は他者とのつながりを求めているにもかかわらず、それを失ってしまった存在として描かれます。
孤独とは、社会的なつながりを求めているのに、それが持てないという状態です。
たとえば、ひとりでテレビを見ながら、「誰かと飲みに行きたい」と思う。
その意味で孤独感は、人を他者へと向かわせる、生物としての健全な本能だとトンプソンは言います。
しかし、トンプソンが見ているのは、まったく違う現象です。
彼が持ちだすのは、TikTokで流行している「cancel-ation」と呼ばれる動画です。
友人から約束をキャンセルされた人が、「これで、家でひとりでいられる」と喜んで踊る。
そこでは、失われたつながりが嘆かれるのではなく、社交の機会がなくなったことが歓迎されているのです。
だからトンプソンは、対面で交流する時間が大きく減った現在を、「孤独の世紀」ではなく「反社交の世紀」と呼ぶわけです。
彼によれば、この現象の背後には、テクノロジーによる生活の「個人化(privatization)」の歴史があります。
自動車は人びとを都市中心部から郊外へ運び、生活を個人化した。
テレビは娯楽を家庭のなかへ運び、余暇を個人化した。
そしてスマートフォンは、人と同じ場所にいながらひとりになることを可能にし、注意(attention)まで個人化した。
いまや、カフェやパーティーにいても、手元の画面に注意を向ければ、その瞬間に目の前の人びとから離れることができます。
トンプソンにとって「反社交の世紀」は、人間が本来持っている社交性が損なわれていく、警戒すべき時代です。
「便利になる」とは、どういうことだったのか
しかし、トンプソンの診断からいったん距離をおくと、同じ変化が別の姿で見えてきます。
私たちの生活を個人化してきたテクノロジーは、同時に、生活を便利なものにもしてきました。
そして、便利であるとは、時間や労力を節約できることだけを意味するのではありません。
現代のサービスを眺めていると、便利さにはもうひとつの側面があることに気づきます。
それは、他人や外部の都合に自分を合わせる必要を減らすことです。
テレビ放送なら、番組の時間に自分を合わせなければなりません。
ストリーミングなら、自分の好きな時間に見ることができます。
店で買い物をするなら、営業時間内に店へ行かなければなりません。
オンラインなら、どこからでも好きな時間に注文できます。
どちらも同じ方向への変化です。
自分を環境に合わせるのではなく、環境の側を自分の時間や場所、好みに合わせていく。
しかも、これは私たちが長く望んできたことでもあります。
他人の都合に振り回されたくない。
自分の時間の使い方を自分で決めたい。
技術とサービスは、こうした欲望に応える方向へ発展してきました。
その結果、私たちは以前よりはるかに広い領域で、自分の都合に環境を合わせられるようになっています。
自由の成功が「反社交」を生んだのか
だとすれば、「反社交」を人間関係の希薄化としてだけ捉えるのは、事態の半分しか見ていないことになります。
他人に合わせなくてもいいということは、多くの場合、自由になったということでもあるからです。
行きたくない飲み会に行かなくていい。
職場に毎日出勤しなくてもいい。
近所の人と親しくしなくても生活できる。
誰かが暇になるのを待たなくても、自分の好きなことができる。
こうした変化をすべて元に戻せば、人びとは「社交的」になるかもしれません。
しかし、それを望む人は多くないでしょう。
私たちは、他人に合わせなくてもいい社会を望んできたのです。
そもそも、かつての人びとがいまより社交的に暮らしていたからといって、いまより他者との関わりを好んでいたとはかぎりません。
買い物をするにも、働くにも、楽しむにも、他者と同じ場所に行き、同じ時間を共有する必要があった。
人びとを社交的にしていたのは、社交への欲求だけではなく、他者との接触を避けにくい生活の仕組みでもあったはずです。
その仕組みが、いま崩れつつあります。
人間そのものが急に「反社交的」になったというより、ひとりでいることを選べる条件が、はじめて大規模に整ったと考えることもできます。
誰かが「反社交の世紀」を設計したわけではありません。
一人ひとりが、より便利で、より自由で、より自分の都合に合ったものを選び、企業がその需要に応え、技術がそれを可能にしてきた。
「反社交の世紀」は、近代社会の失敗というより、その成功が生んだ帰結です。
だからこそ、「人間関係が希薄になったから、もう一度つながりを取り戻そう」というだけでは、問題の核心には届かないのです。
「反社交の世紀」の先で
生活の多くが個人に合わせて最適化されるなかで、他者だけは最後まで最適化されない存在として残ります。
友人も、恋人も、家族も、自分のためにつくられたサービスではありません。
こちらの求めにいつでも応じてくれるわけではないし、欲しい言葉だけを返してくれるわけでもない。
一緒にいて退屈なときもあれば、意見が食い違い、ぶつかることもあります。
譲歩しなければならない局面もしばしばあります。
もちろん、他者がそうした存在であることは昔から変わりません。
変わったのは、環境です。
いまや他者と関わらなくても、生活のかなりの部分が成り立つようになりました。
トンプソンは、AIコンパニオンが広がっていくことも懸念しています。
AIコンパニオンは、生身の人間とは違って、話したいときに話しかけられ、こちらの関心に沿って応答してくれる。
そうした、自分に合わせてくれる疑似的な他者まで、すでに私たちの生活に入り込んでいます。
そこで問われるのは、他者を必要としなくても生きられるのに、なぜ他者と関わるのかということです。
必要だからつき合い、必要だから合わせ、必要だから我慢する。
そうした理由が弱くなれば、人間関係はより自由になります。
それでも他者とつき合うのなら、その理由を自分たちで見つけなければなりません。
これは、昔の共同体へ戻れば解決する問題ではありません。
便利さを捨てればすむ話でもありません。
私たちが望んできた便利さと自由を手に入れた先で現れてきた問題だからです。
自分に合わせてくれる世界のなかで、自分に合わせてくれない他者と生きることに、どんな意味を見いだすのか。
「反社交の世紀」は、私たちにこの問いを突きつけています。
プロフィール
芹沢一也
1968年東京都生まれ。株式会社シノドス代表取締役。
言論プラットフォーム「SYNODOS」を立ち上げ、編集・運営に携わる。研究者や専門家とともに、政治、社会、科学技術などの複雑な問題を、社会にひらかれた言葉で伝える活動を続けてきた。
現在は、私たちが生きる世界を新たな視点から捉え直す「SYNODOS Future」を展開。また「シノドス英会話」を主宰し、「分かっているのに話せない」がなぜ起こるのかを起点に、大人のための英語教育にも取り組んでいる。

