2014.07.05

現代美術のハードコアはじつは世界の「宝」である

東京国立近代美術館・主任研究員 保坂健二朗氏インタビュー

社会 #現代美術のハードコアはじつは世界の「宝」であ#ヤゲオ財団

東京・竹橋の東京国立近代美術館で、『現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展 ヤゲオ財団コレクションより』という、ちょっと変わったタイトルの展覧会が開かれている。ヤゲオ財団は、世界トップクラスの美術コレクションを持つ台湾の財団で、理事長のピエール・チェン氏は大手パッシブ(電子部品)メーカー、ヤゲオ・コーポレーションのCEOを務める実業家でもある。本展では、約400点のコレクションから74点が展示される。特徴は、「美術史的価値」と「経済的価値」とを並行して提示しているところだ。そのような試みができるのは作品がどれもミュージアム・ピース(美術館に収められてしかるべき一級品)だからであるが、「なぜこの作品が何億円もするの?」という素朴な疑問を一緒に考えようとしてくれた展覧会は今までになかったような気がする。企画者である保坂健二朗さんに話を聞いた。(聞き手・構成/長瀬千雅)

美術作品とともに暮らす家

―― ヤゲオ財団コレクションとはどのように出会ったんですか?

去年、当館で開催した「フランシス・ベーコン展」を担当したんですが、その時の出品交渉相手の一つがヤゲオ財団でした。ヤゲオ財団がベーコンの作品を持っていることを知ったのは、それより前、イギリスのある美術館でベーコンの展覧会を見た時です。そこで初めて、「YAGEO Foundation」が3点も持っていることを知ってびっくりしたんですね。ぼくはベーコンの研究をしていたので、どの美術館が、あるいは誰が、どの作品を持っているかということはある時点までは相当把握していたんですが、ヤゲオ財団の名前はその時初めて見ました。しかも台湾の組織だということも驚きでした。ともかく借りに行こうということで台湾を訪れたら、ご自宅に招いてくださったんですね。それが最初の出会いです。

ご自宅にうかがうと、リビングにグルスキー[*1]の写真があったんです。今回出展されている「メー・デーⅣ」が飾られていたんですが、幅5メートルもあるんです。そのかたわらにリヒター[*2]があって。サンユウ[*3]があって、モディリアニ[*4]があって、という感じで、ぼくが知ってるものも知らないものもありましたが、とにかく、案内してくださるすべてのフロアのすべての場所にアートピースが置いてあるんです。

[*1] アンドレアス・グルスキー 1955-。ドイツの現代写真を代表する写真家。

[*2] ゲルハルト・リヒター 1932-。現代ドイツを代表する画家。

[*3] サンユウ(常玉) 1901-1966。中国の画家。1921年渡仏。途中2年ほどアメリカなどに住んだことがあったものの、亡くなるまでパリで活動した。

[*4] アメデオ・モディリアニ 1884-1920。イタリアの画家。エコール・ド・パリの画家の一人。

―― カタログに載っている写真を見ると、すごい豪邸ですね! これだけ美術作品が飾られているのは個人のコレクターでは他にあまり例がないんですか?

自宅に美術作品を飾っている人はもちろんいます。ベーコンを飾っている人もいるし、ヨーロッパの有名なコレクターでジャコメッティの大きな彫刻を玄関に飾っているという事例を聞いたこともあります。ですが、5メートルの写真というのはあまり聞いたことがないですね。

アンドレアス・グルスキー《V&R》2011年 ヤゲオ財団蔵 ©Andreas Gursky / VG BILD-KUNST, Bonn & JASPAR, Tokyo, 2014 E1016
アンドレアス・グルスキー《V&R》2011年 ヤゲオ財団蔵 ©Andreas Gursky / VG BILD-KUNST, Bonn & JASPAR, Tokyo, 2014 E1016

―― 個人コレクションは、コレクターの好みが反映されますよね。たとえば、最近では、昨年の「アメリカン・ポップ・アート展」(国立新美術館)で展示されたパワーズ・コレクションは、ニューヨークに住んでいたパワーズ夫妻らしく、ポップアートが中心でした。チェンさんのコレクションにはどんな傾向がありますか?

ポップアートもありますが、それだけではないですね。チェンさんのコレクションの傾向として言えるのは、まず、政治的なメッセージが強すぎる作品はあまりありません。それから、ミニマルにすぎる作品もあまりない。たとえば、買えるかどうかは別として、ジャクソン・ポロック[*5]、バーネット・ニューマン[*6]、モーリス・ルイス[*7]などのような、色だけ、線だけで描かれている抽象的な作品はほとんど含まれていません。どちらかというと具象的な要素を含んでいる作品が多いです。

[*5] ジャクソン・ポロック 1912-1956。アメリカ抽象表現主義を代表する画家。

[*6] バーネット・ニューマン 1905-1970。アメリカ抽象表現主義の画家。カラーフィールド・ペインティングで知られる。

[*7] モーリス・ルイス 1912-1962。同じくアメリカ抽象表現主義の画家の一人。村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の装丁のルイスの「Pillar of Fire」という作品が使われている。

ただ、チェンさん自身は、具象を集めているわけではなく、自分にとって生活空間の中で心地いい作品を集めたら結果としてこうなっているんだとおっしゃっています。よくも悪くも、理論的に系統立てて収集しようとは考えていない。そこもおもしろいところです。人の言うことを気にせず、論理性や整合性も関係なく、好きなものを集められるのが、本来個人コレクターの醍醐味であるはずなので。

―― 現代美術というとインスタレーションとかコンセプチュアルアートみたいな難解なものをイメージしますが、タブローと彫刻が中心で、素直に「美しい」と思える作品が多かったです。ところで、パワーズ夫妻もそうですし、「ハーブ&ドロシー」のヴォーゲル夫妻[*8]もそうですが、アーティストと積極的に交流を持つタイプのコレクターもいると思うのですが、チェンさんは、そうではないようですね。

まず一つに、チェンさんは、人は自分をコレクターと言うけど、自分で自分をコレクターだと思ったことはないと言っているんですね。仕事とプライベートのバランスをとりたいから美術品を買うのであって、コレクションすること自体は主たる目的ではない、と。そういう考え方をしていくと、ただでさえ多忙な日常の中で、アーティストとの交流に時間を割くことはたぶん、物理的にできないだろうと思います。

[*8] ハーバート・ヴォーゲル、ドロシー・ヴォーゲル夫妻はアメリカの現代アートコレクター。ニューヨークの郵便局員、図書館司書としてつつましく暮らしながら5000点を超えるコレクションを築いた二人の歩みは『ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人』『ハーブ&ドロシー2 ふたりからの贈りもの』という映画になっている。ハーブは2012年89歳で亡くなった。

コレクターの中には、ある種の社会的役割としてやってる人もいると思うんですよ。たとえばアメリカの社会ではソーシャライト(Socialite、社交界の名士)というポジションがあるように、一般人から見ると奇妙な、富豪特有の立ち位置がありますよね。社交を仕事とする、あるいは、財を成した後に社交に重きを置く人たちです。その層と、いわゆるコレクターは重なる部分があると思います。アーティストと交流したり、アーティストと他のコレクターをつないだりする役割があったり。しかし、チェンさんの場合は、今なお第一線の実業家でもある。

それから、これはチェンさん自身が言っていることではなく、今の質問を受けてのぼくの予想ですけど、彼のベースはあくまでも台湾なので、やっぱりアジアに住んでいるという「地の不利」があるんじゃないか。

―― ああ、パリやニューヨークに住んでいれば。

違うでしょうね。でも、チェンさんの場合、ニューヨークに仕事で行ったところでアーティストに会おうとするわけでもないようなので、そういうスタンスを潔く守られているなという気はしています。

高まる個人コレクターの存在感

―― 購入の方法も、いろんなケースがあるのでしょうけど、たとえば、パワーズ夫妻は主にギャラリーから、ヴォーゲル夫妻はアーティストから直接購入することが多かったようです。一方で、チェンさんは、オークションで買われることが多いというのも、へえ、と思いました。社交じゃなくて、「お買い物」に近い気がして。お買い物というには桁が違いすぎますけど。でも、系統立てて収集していないということからも、純粋に自分が欲しいもの、癒やされるものを買っているという感じがします。

それに近いと思いますよ。仕事柄、いろんなコレクターにお会いすることもありますが、コレクターってある意味無償の愛にあふれているところがあって“いい人”が多いんですが、ぼくが知ってる限りでは、チェンさんはその中でも相当“いい人”なんです。つまり、人間としてもいい人だと思うし、やっぱり、美術が相当好きな人なんだというのは、話していればわかります。なによりも彼は、最近、自分で描いているんですよ。実際に描いてみると、この色の隣にこの色を置く理由がなんとなくわかったりすると言われたりして。絵を掛ける時には色や形の組み合わせを考えるのがお好きなようですし、絵の秘密を少しでもより深くわかろうとしているんでしょうね。

―― 本当にお好きなんですね。

本当に好きじゃないと忙しい時間を縫って自分で描くなんてできないはずです。

サンユウの作品の展示風景。手前から、《アヒルとボート》《蓮に白鶴》《六頭の馬》。
サンユウの作品の展示風景。手前から、《アヒルとボート》《蓮に白鶴》《六頭の馬》。

―― 東京で展覧会ができることは純粋に喜んでくださっている感じですか。

純粋に喜んでいます。経緯としては、日本で展覧会ができないかという話は、最初、ヤゲオ財団のほうからありました。それを受けてぼくらのほうで検討したんですが、じつは、個人コレクションの展覧会をするという経験がぼくらにはなかったんです。

東京国立近代美術館では、1984年の「ティッセン・コレクション名作選:近代絵画の展開」展や1995年のポンピドゥーセンターのコレクションによって企画された「身体と表現 1920-1980」展など、他の美術館のコレクションに基づく展覧会をいくつか開催しましたが、そのあとしばらく、なるべくやらない方針を事実上とっていました。

日本の美術館としてはちょっと珍しいと思うんですが、やっぱり、自分たちもコレクションを持っている美術館である以上、他館のコレクションを紹介するということにはどう意味があるんだろう、ということをよく話しているんですね。集客目的では成立するかもしれない。けれど、明確なテーマが何もない、名品展みたいなコレクション展には疑問がある。

そのように、美術館コレクションのレベルでもコレクション展はやってないところへ、この個人コレクションの話がきたわけです。チェンさんには最初、個人コレクションを開催するのは難しいんですよと伝えました。すると、いやいや我々は財団であって、個人ではないんだと言うんですね。バイエラー・ファウンデーション[*9]と一緒なんだという言い方をされたんです。つまり、バイエラー財団の展覧会はきっとできるだろう、なのにヤゲオ財団の展覧会ができないのは論理的におかしくはないか、と。

[*9] バイエラー財団 スイスの画商、エルンスト・バイエラー(1921-2010)、ヒルディ・バイエラー(1922-2008)夫妻のコレクションを保護・管理する。バーゼル郊外にあるバイエラー財団美術館は1997年開館。

―― つまり、公的な組織なんだというわけですね。

そうです。公的に運営しているのだから、単なる個人コレクションではない。ただ、理事長はチェンさんだし、作品形成にかかわっているのはチェンさんだけだから、チェンさんの個人コレクションとも言える。また組織としても、ヤゲオ財団とヤゲオ・コーポレーションは、同じ「ヤゲオ」という名前を使っている。ぼくらが躊躇した理由の一つはそこです。日本でヤゲオ財団の展覧会をやれば、これまでヤゲオという名前を、あるいはその名前を冠した会社を知らなかった人が、数万人の単位で、おぼろげにでもその名前を覚えるわけです。

―― 広告になってしまう。

そうです。それはいいのかという議論には当然なりました。

でも、さっき「美術館コレクションのレベルでもあまりやってこなかった」と言いましたが、ヤゲオ財団が持っている作品がミュージアム・ピースであることは間違いないし、ものによっては、美的な価値のみならず、大きさであるとか、値段であるとか、いろんな意味で美術館が持てないクラスの作品をたくさん持っている。作品のレベルはやらない理由にはならない。

あとは、さっき言ったように、個人コレクションだということをどう考えるかですが、そもそも文化的なパトロンはそういう側面を含んでいます。さらに、オークションを中心とした公的なトレーディングの場がこの20年ぐらいの間にいろんな意味で整備されて、美術品はそこで、いわば公に評価を受けるようになってきている。つまり、美術品の評価のされ方が変わっているわけです。そういう中で、個人コレクターの存在意義や存在感は非常に高まっています。それを否定するのは時代に逆行するし、そういう状況を含めて、日本の多くの観客に知ってもらうことも必要だろうということで、むしろやるべきだという結論になりました。

「美しい」だけじゃないから、現代美術はおもしろい

―― かなり議論されたんですね。慎重な意見もあったでしょうね。

もちろんありました。今、日本の経済状況はけしてよくないわけです。なかなか就職できない人がいたり、正規雇用が減っていたり、いろんなことが言われている中で、なんと言うか、「大富豪展」とも捉えられかねない展覧会をやるのは、国立の名前を冠した機関としてどうなんだという話も出ましたね。

杉本博司《最後の晩餐》と《海景》の展示風景。
杉本博司《最後の晩餐》と《海景》の展示風景。
ゲルハルト・リヒター《叔母マリアンネ》1965年 ヤゲオ財団蔵 ©Gerhard Richter, 2014
ゲルハルト・リヒター《叔母マリアンネ》1965年 ヤゲオ財団蔵 ©Gerhard Richter, 2014

―― そのわりには、「50億円でアートを買う」という、コレクター・シミュレーション・ゲームみたいな仕掛けがあったりして、振り切った展示をしていますよね(笑)。

そうですね(笑)。やるならいっそ振り切ったほうがいいと思いました。

現代の美術って、いろんなおもしろい要素があるんです。作品そのものの美術史的な価値ももちろんあります。一方で、現代美術作品が非常に高額で取引されるようになり、それをもう美術館は買えないという現状がある。日本のみならず、欧米においてもそうなんです。

だけど、美術館がいくら「それはおかしい」と異論を唱えたところで、翌日から何かが変わるわけじゃない。ただ、美術館をそうしたことについて考える場にはできるだろうと思いました。極端に言えば、紙をくしゃっとしたようなものが何千万円もするかもしれないような、錬金術的なところがあるのが現代美術です。じゃあ、その値段にははたしてどんな意味があるんだろうかとか、公的な美術館はそういう現状とどうつきあっていくべきなのとか、そういうことも含めて、美術とお金を考えるようなかたちにすれば、「大富豪の名品展」のようなものにはならないだろうと。

とはいえ、別に絵に値札がついているわけではありません。これぐらいするのかな、と想像できるようにはしてありますが。

―― 解説が上下に分かれているんですよね。記者発表会の時に、「ヤゲオ財団コレクションの特徴の一つは、アジアと欧米の両方のアートがあること。一つの空間の中で適切なテーマのもとに展示するようにした」とおっしゃっていましたが、たとえば、ロスコ[*10]、杉本博司[*11]、リヒターが「崇高」というテーマのもとに一緒に展示されていて、上段の解説を読んで作品を見ていくと、現代美術をよく知らない人でもなぜそうなっているのかがわかるようになっている。一方、下段はアート・マーケットや文化資源学の視点からの解説になっていて、そっちをたどっていくと、現代美術が高値をつけている状況とか、個人コレクターたちが存在感や影響力を増している背景が感じとれるようになっています。

マーケットのことに関しても、書かれている情報はインターネットとかで調べれば簡単にわかることなんです。ぼくらもそうやって、マーケットの中で適正な価格かどうかを調べて、作品を購入する時に交渉したり、展覧会の時の保険評価額を検討したりしていくんですね。

[*10] マーク・ロスコ 1903-1970。アメリカ抽象表現主義の画家。当時ロシア領のラトビアに生まれ、1910年にアメリカへ移住。DIC川村記念美術館に「シーグラム壁画」を展示する「ロスコ・ルーム」がある。

[*11] 杉本博司 1948-。現代美術家。東京都出身。写真作品を手がける。日本古美術の収集家としても有名。

通常、美術館の展覧会の中ではそういうものを一切抜きにして、この作品は美術史的にはこのように優れているんですよ、というふうに見せるわけですが、今回は、裏でぼくらが普段やっていることの一部を、企画展の中でちょっとお見せする、という感じですね。

ウィレム・デ・クーニング《無題Ⅴ》1975年 ヤゲオ財団蔵 ©The Willem de Kooning Foundation, N.Y. / ARS, N.Y. / JASPAR, Tokyo, 2014 E1016 ウィレム・デ・クーニング(1904-1997)はオランダの画家。26年に渡米。ジャクソン・ポロックとともにアメリカ抽象表現主義を代表する画家である。
ウィレム・デ・クーニング《無題Ⅴ》1975年 ヤゲオ財団蔵 ©The Willem de Kooning Foundation, N.Y. / ARS, N.Y. / JASPAR, Tokyo, 2014 E1016
ウィレム・デ・クーニング(1904-1997)はオランダの画家。26年に渡米。ジャクソン・ポロックとともにアメリカ抽象表現主義を代表する画家である。

美術品をめぐる市場は大きく変化した

―― 今まで見せていなかった「美術品にまつわる数字」を見せようということですね。そうしようという発想になったのは、数字的なことを隠したままでは、今の時代では、広く一般の人の理解が得られないんじゃないかと思う部分もあったんですか?

それはありますね。いろんな思いがあるんですが、一つには、たとえば、「なんでも鑑定団」というテレビ番組がありますよね。みんなすごく好きじゃないですか。「うーん、これが2000万かあ」とか言って(笑)。それが悪いということではなく、あまりにも美術館がお金のことを言わないがゆえに、「鑑定団」のような番組がすごく重要性を持ってしまう状況というのは、少なくとも美術館としてはあまりいいことではないなと思っています。

けれど、公的機関である美術館としては、出しづらい情報というのもあるわけです。たとえば、ある作品を購入したとして、「この作品はいくらですか」と聞かれた時に答えるべきなのは、購入した時の金額なのか、その時点での評価額なのか。安く買った作品がその後ものすごく値上がりすることはありますから。また、金額を書いちゃうとそっちにばかり目がいって、作品をちゃんと見てもらえなくなる可能性はやっぱりあります。というようないろんな理由で所蔵品ではなかなかできないんです。

一方で、企画展ではもう少しいろんな方法が考えられます。たとえば、おととし「ジャクソン・ポロック展」をやった時は、イランのテヘラン現代美術館に収蔵されて門外不出となっていた「インディアンレッドの地の壁画」という大作を借りることができたんですね。それで当館はポスターに「保険評価額200億円」と書いたんです。惹句として。ポロックを知らない人に対して、それでもこの作品は200億円の価値がある、そこに興味を持ったならぜひ見にきてください、とアピールしたわけです。

惹句としてはある程度機能したと思うんですが、一方で、「それが機能してしまう状況が、果たしていいんだろうか」という疑問も、ポロック展の担当者ではないぼくとしてはありました。いっそ、そのこと自体をコンセプトにできないだろうか。と思っていたところに、今回は、ほとんどの作品が、200億円とはいかないまでも、数億円、数十億円単位の作品だった。とはいえ、どれか一つをとって「これが何億円です」と言ってもあまり意味がない。それなら、発想を変えて、これがいくらあれがいくらとは基本的には言わないけれどお金のことを考える展示にはしよう、と思ったんです。

そうしていけば、経済的な価値と美術的な価値が、じつはそんなに整合性はないんだっていうことが、わかってもらえるのではないかと。

―― 逆説的に、たいした問題じゃなくなるということですか?

よくわかんない、ってことは、「ここには法則性はないんじゃないかということが、わかってもらえるんじゃないか」とは思ってます。

―― でも、こういう展示をすることで、美術がマーケット品になることを積極的に認めてしまうことになるのではと、危惧する声もありますね。

それについては説明が必要ですね。まず、アート・マーケットの成立にはオークションハウスの隆盛が関係するわけですが、オークションハウスの存在感がここまで大きくなっているのは、たぶん、この20年ぐらいのことなんですね。

―― けっこう最近なんですね。

ええ。オークションハウスが非常にグローバルな活動をするようになったことと、経済のグローバル化はパラレルだし、オークションハウスが現代美術を強力に扱うようになることもパラレル、全部が軌を一にしている。

じゃあそれ以前は美術品はどう売られていたかというと、「人」が売っていた。主にはギャラリストや、店を持たないディーラーですね。人が売るとはどういうことかというと、その人たちが値段を決めて、しかもお客さんをある程度選ぶわけです。客から見たら、その人がこの作品は1000万円だと言えば1000万円。しかも、じゃあ1000万払うと言っても、いやあんたのようなよく知らないやつには売らない、と言われることもある。

それにはさまざまな意味があって、作品を転売しないかとか、他の人や美術館が借りたいと言った場合に貸してくれるかとか、売る側としてはいろんな希望があるんです。だから、突然ギャラリーへ行って「これください」と言っても、売らないケースがある。売るかもしれないですよ。でも、作家のレベルが上がれば上がるほど、難しくなる。

要するに、美術作品が一般の人には手の届かないものとしてクローズドなサーキットの中で流通していた時代はたしかにあった。でも、今は状況が全然違うわけです。ギャラリーの果たす役割は今ももちろん重要ですが、オークションハウスを中心としたマーケットの場合、そこに作品がぽんと出されれば、それに対していちばん高い値をつけた人が、その人が誰であろうと買える。

―― アートフェアはどっちに入るんですか?

アートフェアは中間的ですね。ギャラリーが運営するブースの集まりなので、その意味では前者に近いんですが、フェアという言葉がついているように、集合体として公的な場所で来場に対してオープンな姿勢でやっているという意味では後者です。

―― ギャラリーがあって、オークションハウスがあって、アートフェアがあってという状況がそろってきたのがこの20年ぐらいということですか。

オークションハウスが、フェアもそうですけど、すごく進化したのがこの20年ぐらいということですね。オークションハウス自体は以前からありましたから。フェアも70年代くらいからどんどん生まれています。でも、今のように経済の専門家を入れたり、広報も積極的にするようになり、世界各都市を回ってプレビューをしたり、というようになったのは、きっとこの20年くらいでしょう。そういう状況の中で、美術作品が商品になることをどう思うかという問いがあるわけです。

ロン・ミュエク《若者》2009年 ヤゲオ財団蔵 ©Ron Mueck Photo: Alex Delfanne ロン・ミュエク(1958-)はオーストラリア出身の彫刻家。イギリスで活動している。
ロン・ミュエク《若者》2009年 ヤゲオ財団蔵 ©Ron Mueck Photo: Alex Delfanne
ロン・ミュエク(1958-)はオーストラリア出身の彫刻家。イギリスで活動している。

「世界の宝」、そのこころは?

今回の展覧会に即して言えば、チェンさんは美術作品を買うにあたって二つのコンセプトがあると言っています。一つは「living with art」、アートと暮らす。これは実践されている。もう一つは「art is accessible」です。これは複数の意味で考えられる言葉で、美術館のような場所で作品を見られることも「accessible」だし、作品を買える、手に入れられるというのも「accessible」です。チェンさんは基本的に後者の意味で言っているわけですよね。アートは手に入れられるもので、身近に置いて楽しむことができるんだと。ただ、おもしろいのは、そのこと自体はどんな人でもなんとなくわかってはいると思うんですね。だけど、このレベルでやられるとちょっと驚きますよね。これらの作品を見せられて「アートはアクセシブルなんだ」と言われても、チェンさん、説得力ありませんよ、みたいな(笑)。

―― はい。現実味がありません(笑)。

それだけにどこか純朴なところも感じるわけですが。ところで、ぼく、昨日、洋服を捨てたんですよ。けっこうたくさん。

―― はい。(?)

その時に、これ、買った時の値段を足したら相当な金額になるなと思ったんです。洋服って、へたれるし、流行も変わるし、消耗品のはずなのに、意外と高い。なのに月日が経つと捨てる対象となる。でも美術作品はそれがないんですね。10年後20年後でもいろんな意味で使える。時代遅れになったとしても、それが好きであれば飾っていくことが許される。

動産なんだけど消耗品でなく、ひょっとすると市場価値が上がるかもしれないというものは、他にあまりありません。前にビックリマンシールがすごく流行って高値で取り引きされましたけど、流行が終われば価値はないですよね。そういうものとはちょっと違うんです。

―― なるほど。そう考えると、美術品は経済活動に組み込まれたように見えるけど、やっぱり独特なものなんですね。

そうだと思います。今回、いろんな文献を読んでいて思ったのは、どうして経済学者たちがここまで美術作品や美術市場に興味を持つんだろう、ということでした。専門の学問領域もできているし、論文もたくさん出ている。だけど、ぼくが見たうちの3〜4割は、美術業界の人間であれば知っているようなことばかりが書かれているんです。

―― 外にいる人にはわからないことなんですね。

情報として知ることが困難ということもありますが、それだけではなくて、なんでそういうシステムになっているのかが、経済学者からするとわからない。なんでそんな不合理なことをやっているんだとか、なんでそんな不可解なシステムで動かしているんだっていうこと自体がわからないらしくって。

―― その「なんで?」に答えは出てるんですか?

だからここに「宝」と書いているんです(笑)。そういう不可解なものが世の中にあってもいいでしょ、という。よくあるオチかもしれませんが、よくわからない価値観を認めるって豊かな世界をつくることへの第一歩だと思うんですよ。その意味も含めて、「現代美術」は「じつは」「世界の宝である」。経済や市場というものがある種の合理性で動いていると思われている中で、よくわからないロジックで動いている世界が世の中にあるっていうのは、なんか、救われるなあという気がするんです。

―― たしかに、その仕組みが全部解明されてしまったらおもしろくないかもしれないです。

去年の秋に、ベーコンの作品がニューヨークのオークションで141億円で落札されましたが、日本ではまだベーコンがそれほど知られていない中で、「ゴッホでもないのに百数十億円って意味がわからない」と思われる人も多いと思うんですね。

―― そうかもしれません。だけど、美術にとりたてて詳しくなくても、そのニュース自体には興味があると思うんです。「なんでそんなに高いの?!」「誰が買ってるの?!」みたいな。

そうですね。だからこそ今回のような展覧会をやろうと思ったし、また、そうでもなければこんな企画は普通、通らないと思います(笑)。

「国家補償制度」って知っています?

―― いいえ、チラシの隅に書かれているのは見ましたが、よく知らないです。

美術品損害の政府補償制度、通称「国家補償」と言いますが、万が一美術作品に損害が発生した時は国が支援しますよと約束することで、損害保険料を軽減する仕組みです。その制度の適用を受けるためにはさまざまな書類を書いて審査を受けなければなりませんが。ともあれ、展覧会をする時、作品の値段が高いと保険料が上がっていくんですね。かなりの金額になります。そうなると、入場料金を上げるか、それができない場合は入場者数を増やさなきゃいけない。入場者数が増える見込みが立たなければ展覧会が成立しない。そこで、保険料を軽減する制度として国家補償制度が2011年に作られました。万が一何かあれば国の資金が使われるわけなので、税金のストラクチャーと密接につながっています。

「500年後の価値」を、今作っているのかもしれない

何が言いたいかというと、そういう制度がなければ、相当数の集客が見込めるもの以外は、展覧会が運営できないような状況になっているんですね。今そういう状況にあるということは、美術界に身を置いて、ある程度の規模の展覧会を運営している人なら、みんな感じていることです。やっぱり、5年前に数千万円だった作品が今は数十億円するとか、常識的に考えて何かがおかしいと思いますよね。

―― 国家補償制度って意味があるんですね。

その制度を広く一般に知ってもらおうというつもりはあまりないんですが。制度を運営している人たちはぜひやってくれと言うかもしれないけど(笑)。でもどこかで、こういう制度がなければ展覧会が開けない状況や、それが税金とつながっているということは、ぜひ知って欲しい。

また、よく日本の美術館にはいい作品があまりないということが言われますが、一方で、欧米のような寄付文化も根付いていません。そうするとやっぱり、税金が財源であるところの資金を使って作品を買っていかなければいけないんですが、かつては年間予算が1億円あればかなりの作品が買えたけど、今は全然買えないんです。だから予算を拡大していかなければいけないんですが、このご時世、理解が得られるかどうか。しかも、多くの人が、現代美術の現在をあまりご存じない中で……。

特に美術作品は余剰品と思われていますし、美的価値と経済的価値について考えると、やっぱりそこはほとんどブラックボックスだから、「なんでこの絵が5億円するんだ」って言いたくなる気持ちはわかるんです。美術館側からしたら、「5億円で売られているから」としか言いようがないんですが(笑)。でもそういう事実を胸を張って言える状況を作っていかないといけないなとは思います。そのためにも、いい企画、いい展覧会をして、たくさんの人に見てもらわないといけないなと思いますね。

―― チラシに書かれていますが、「上野でも、六本木でもなく、竹橋の美術館」にきてくださいと(笑)[*12]

2005年にゴッホ展を開催したんですが、その時、タクシーに乗って「ゴッホ展を見にいく」と言ったら、気を利かした運転手さんに上野に連れて行かれちゃった人がいたんですよ(笑)。竹橋にも「地の不利」があるんです。

[*12] 上野には国立西洋美術館、東京都美術館、東京国立博物館などが集まっている。六本木には国立新美術館、森美術館などがある。

―― じゃあ、竹橋にある、東京国立近代美術館の売りをアピールするとしたら、何でしょう?

今回の展覧会じゃなくて、全体のですか?

―― はい、美術館としての。

それは、たぶん、言うと売りにならないかもしれない(笑)。

―― どうしてですか?

基本的に日本の観客の多くは、「秘仏ご開帳」が好きなんです。

―― たしかに。超有名だけど、普段は見られないものが、今だけ見られる。

そう。で、「秘仏」は1点でいいんです。たとえば、「世界一有名な少女」[*13]のように。今年は「世界一有名な少年」[*14]が来日しますね。

[*13] こう呼ばれているのは、2012年の「マウリッツハイス美術館展」(東京都美術館)に出展されたフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」。

[*14] 7月から国立新美術館で開催される「オルセー美術館展」にマネの「笛を吹く少年」が出展される。

それで、近代美術館はと言うと、「秘仏」がないんです。というより、「秘仏以前」のものがある。それは歴史がまだ浅いこともあります。ひょっとするとぼくらは、500年後に秘仏になるものを今、作ろうとしているのかもしれない。

もう一方で、秘仏ご開帳のようなやり方を、どこかで否定しようとしているところもあるんです。価値を相対化するとか、いろんなものに等価にアクセスすべきだという考え方を、どこかで近代美術館は持っています。

その意味で、日本の大多数の観客が求めている方向性と、「近代美術館」という概念が持っているあり方は、ぴったりとは重ならないかもしれません。でも、個人的に望むのは、秘仏ご開帳を求めている人ばかりではないはずなので、そういう人たちがもっと美術館にくるようになって欲しいし、そういう人が増えていけばいいなあというふうには思っています。

ヤゲオコレクションは日本でほとんど知られていないですが、だからこそやる意義がある。すばらしいコレクションであることは間違いないですし、いろんな楽しみ方ができるように企画しました。ぜひ多くの人に見ていただきたいと思っています。

ケイト・モスがヨガのポーズをとる、マーク・クインの《神話(スフィンクス)》(2006)。マーク・クイン(1964-)はイギリスの現代美術家。
ケイト・モスがヨガのポーズをとる、マーク・クインの《神話(スフィンクス)》(2006)。マーク・クイン(1964-)はイギリスの現代美術家。

■展覧会情報

『現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展』

http://sekainotakara.com/

東京国立近代美術館で開催中。8月24日まで。その後、名古屋市美術館、広島市現代美術館、京都国立近代美術館を巡回。

・一般1,200円(900円)/大学生500円(250円)

・開館時間

 10:00-17:00 (金曜日は10:00-20:00)*入館は閉館30分前まで
・休館日

 月曜日(7月21日は開館)、7月22日(火)

*高校生以下および18歳未満、障害者手帳等をご提示の方とその介添者(1名)は無料。

*( )内は20名以上の団体料金。いずれも消費税込。

*上記料金で入館当日に限り、同時開催の「美術と印刷物」、所蔵作品展「MOMATコレクション」および、工芸館で開催の「こども+おとな工芸館 もようわくわく」もご覧いただけます。

プロフィール

保坂健二朗東京国立近代美術館主任研究員

1976年生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程(美学美術史学分野)修了。企画した主な展覧会に、「建築がうまれるとき―ペーター・メルクリと青木淳」(2008)、「現代美術への視点6 エモーショナル・ドローイング」(2008)、「建築はどこにあるの? 7つのインスタレーション」(2010)、「イケムラレイコ うつりゆくもの」(2011)、「ヴァレリオ・オルジャティ」(2011)、「フランシス・ベーコン」(2013)など。『アール・ブリュット・アート』(監修)、「すばる」、「朝日新聞」等執筆多数。

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