性別違和を有する方々が挑む性別二元論からの脱出――出生時とは異なる性別で生きる

―――あなたの「性別」は?

 

この問いの答えに窮したことはあるでしょうか。

 

大抵の人は、“男性”あるいは“女性”と即答できると思います。ですが、さまざまな理由によって、この問いを前に立ち尽くすことになる方々がいます。産まれたときに“男性”か“女性”のどちらかに指定された「性別(gender)」(以下、身体的性別とします)と自らの性別に対する認識(以下、性自認とします)とが合致していない方たちも、その一例です。

 

精神医学の分野では、こうした性別に関する不一致が人にもたらす不快感を「性別違和感」と呼び、その精神的苦痛によって健康な生活機能が障害されている場合には、「性同一性障害(gender identity disorder)」との診断を与えることになっています。

 

 

「性同一性障害」はもう古い?

 

日本ではここ十数年のうちに、「性同一性障害」という言葉の認知が飛躍的に高まってきました。耳にしたことがある読者の方も多いと思います。でも実は、精神医学やその関連領域の研究者の多くは、もう「性同一性障害」という診断分類名を使っていません。2013年5月に、精神疾患に関する診断基準・診断分類の国際的統一を図る米国精神医学会が発刊しているマニュアルが、19年ぶりに改訂されたからです。

 

世界中の医師や研究者が参照しているこのマニュアルは、『精神疾患の診断と統計マニュアル(原題は「Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders」)』と言い、今回発刊されたのはその第5版になります。

 

第5版ではさまざまな精神疾患が19に大別されていますが、その診断分類のなかに「性同一性障害」という言葉はありません。第5版から新たに採用された診断分類「性別違和(gender dysphoria)」がその代わりに相当しますが、概念自体が大幅に改められていますので、「性同一性障害」=「性別違和」という理解は正しくありません。

 

今すぐにというわけではありませんが、そう遠くないうちに、日本の診察室で「性同一性障害」という言葉を聞くことはなくなるはずです。

 

マニュアルの改訂は研究・臨床におけるさまざまな最新知見が参照されますが、「性同一性障害」から「性別違和」への改編にあたっては、これまで性同一性障害と診断されてきた方々の訴えと社会運動が一部結実している点が特徴的です。

 

 

旧概念「性同一性障害」と新概念「性別違和」

 

ここでは、「性同一性障害」から「性別違和」への改編にあたって、大きな争点となった重要な違いの1つを、ごくごく簡単に紹介したいと思います。特別な知識がなくとも十分に理解できると思います。

 

「性同一性障害」は、以下の2要素をどちらも満たす方に与えられるものでした。

 

 

(a-1)生物学的性が反映された肉体への嫌悪感

(a-2)生物学的性とは反対の性別への帰属感

 

 

これに対して、「性別違和」が必要とする要素は、以下の2つになります。

 

 

(b-1)指定された性別と当人が経験・表現している性別の不一致

(b-2)指定された性別とは異なる性別になりたい・扱われたいという強い欲求

 

 

違いをおわかりいただけるでしょうか。「性同一性障害」は、「生物学的性と反対の性自認を持つために、性別違和感が生じている」という理解の上に成り立っている概念です。生物学的性が“男性”なのに性自認は“女性”に帰属されている場合は「性同一性障害のMTF(Male to Female)」、生物学的性が“女性”なのに性自認は“男性”に帰属されている場合は「性同一性障害のFTM(Female to Male)」、といった具合です。

 

この理解には、「人の性別は“男性”と“女性”のどちらかに振り分けられ、その人の性別は生まれたときの生物学的性によって決まる一貫したものである」という社会的価値観(性別二元論)が反映されています。

 

しかし、心理的・社会的観点から、いえ、生物学的・遺伝学的観点から見ても、人の性別を“男性”と“女性”の2つのみで捉え切ることはできません。「性別二元論からの脱却」を試みた結果が、新概念「性別違和」の採択なのです。文字で追うと大差ないように見えるかもしれません。まだいくつかの課題が残されていることも事実です。しかしそれでも、大胆かつ的確な刷新を遂げたと言ってよいと思います。

 

 

ここに書かれていること

 

前置きが長くなりましたが、そろそろ本題に入りたいと思います。筆者は20歳のときに「性同一性障害」との診断を得たFTM当事者(注)です。自身のFTM当事者性を活かした心理学分野の研究に着手し始めてから、まもなく8年が経とうとしています。

 

(注)Female to Maleの略。出生時に指定された性別が“女性”であることを意味する。

 

ここでは、筆者の研究成果や所感を交えながら、性別違和を有する方々の「性別移行」とそこからわかることについて述べていきたいと思います。

 

ちなみに、筆者の専門分野は精神医学ではなく「臨床心理学」です。精神科医がその人が呈している症状の原因を突き止めて治療することを志向するのに対し、臨床心理士は、心理社会的葛藤・課題に直面して苦悩や困難を感じている人が、自らそれらを乗り越えていけるように援助することを志向します。

 

精神医学にとって「正確な診断」は、治療方針の決定にも関わる大変重要な情報です。しかし、臨床心理学において、援助する相手が精神医学的診断を受けているかどうかはさほど重視されません。診断の有無によって援助方針が大きく変わることもありません。

 

ここから先の文章では、「性別違和を有する方(注)」という言葉が使われていますが、精神医学的診断を得ているかどうかとは関係ありません。学術研究の世界では、精神医学的診断を得ている方だけを「性同一性障害当事者/性別違和当事者」と呼ぶのが通例ですから、それより広義な言葉として読み進めて欲しいと思います。【次ページにつづく】

 

(注)筆者は、「性別違和を有する方」について、「指定された性別(assigned gender)への不適合感に類似するような性別違和を有することで社会適応上の葛藤があると自認しており、自らの本来的な生き方を得るために性自認に関する言語・非言語的カミングアウトをともなう性別移行を要する人」との定義を設けている。

 

 

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