福祉国家という『反戦後』  

世の中、北欧ブームである。といっても、北欧家具のことではなく、社会経済政策についてである。

 

 

新たなモデル

 

90年代からゼロ年代が、アメリカやイギリスの政治行政を参照する「ネオリベ・モデル」の流行をみたとすれば(たとえば独立行政法人の誕生はサッチャー改革の模倣である)、政権交代と相まって、2010年代は「北欧モデル」が陰に陽に参照されている。

 

非正規と正規雇用との壁をなくした「同一労働同一賃金」、家族ではなく個人を単位とする「普遍主義的政策」、「セーフティネット」を整備した柔軟な労働市場、失業給付ではなく職業訓練などの「人的投資」の必要性、あるいは「強い社会保障」による「強い経済」等々、社会福祉改革で唱えられているものの多くは、スウェーデンやデンマークといった北欧諸国の政策体系からヒントを得たものである。

 

たしかに、北欧諸国は高い成長率と安定した社会を実現している国々として、先進国の中でも突出した存在である。

 

 

「北欧モデル」の魅力

 

こうした指向性が間違っているわけでない。また、日本だけではなく、北欧モデルは当のヨーロッパ諸国の参考にもなっている。

 

たとえば、ドイツのメルケル政権は、同国の出生・育児政策としてスウェーデンを参照、男性の正規雇用者を軸にしていた政策の反省から、育児休暇拡充や保育所整備などに力を入れるようになった。社会福祉政策における、いわゆるドイツ的な「保守主義レジーム」から、北欧的な「社民主義レジーム」への転換の試みである。

 

正規か非正規かを問わず、様々なライフ・リスクに備え、高負担だけれども高福祉を実現する―こうした北欧モデルは魅力的である。

 

 

「高福祉高負担」を支えるもの

 

しかし、「モデル」はどこまで行っても「モデル」にすぎない。

 

「高福祉」のイメージとは裏腹に、スウェーデンが90年代に、イギリス以上の激しい市場開放と競争を経験し、かなり極端な行財政改革を行ったことは余り知られていない。

 

この時代にはスウェーデンだけでなく、デンマークもまた、10%近くもの失業率を経験した。そこでモデル化されたのが「フレクセリュリティ」、すなわち「柔軟な労働市場」と「手厚い社会保障」の組み合わせである。

 

これは、競争力の基盤となる技術開発力と、そのための人材を育成する職業訓練(『雇用可能性』の強化)によって支えられる。しかもこのモデルも、若年層の高失業率という日本と同じ状況を克服するに至っていない。

 

「北欧モデル」で特徴的なのは、「強い社会」をも備えた国であることだ。

 

政治家と市民との距離が近く、共同体の構成員の相互信頼も厚い。それゆえ大胆な改革もできるし、高負担が市民に受け入れられるのである。

 

この「北欧モデル」を支えているのは、個々人のあいだに高度の信頼を醸成する「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」が担保している、社会での強固なネットワークである(こうした側面については「朝日新聞GLOBE 覚悟の社会保障」http://globe.asahi.com/feature/100628/index.html で特集されている)。

 

 

福祉国家の陰

 

ここから北欧モデルの裏の顔もでてくる。

 

たとえば、優生学にもとづいて精神障害者やマイノリティに対する強制断種を70年代までつづけていたのも、スウェーデンやノルウェーといった国である。優生学は、何も北欧だけでなく、戦前のナチス・ドイツはもちろん、アメリカ、日本といった先進国でも当たり前に採用されてきたから、北欧だけが特段非難されるべきではない。

 

しかし優生学がかくも当たり前のように受け入れられてきた事実と、「強い社会」を基盤にした「福祉国家」であることとは無関係ではない。

 

北欧モデルからは外れるが、「世界で最も美しい国」であるスイスもまた、こうした優生政策を継続していた国として有名だ。

 

これらの国に共通するのは、高度の市民間の信頼を前提とした濃密な共同体を基礎にしていることである。それは排除の論理を伴うものであるし、それゆえ可能になる政策がある。

 

 

忘れ去られようとしている事柄

 

じつはこうした問題意識は、M.フーコーを引くまでもなく、すでにポストモダン思想が60年代に提起していたことだ。

 

時代は一巡し、福祉国家そのものが危機に晒されると、福祉国家のもつこうした「生政治」の側面は意識されなくなりつつある。

 

出生・育児やライフコースへの公権力の介入は、是非はともかく、私的領域への侵入をも意味する。共同体の人びとを生かす政策は、誰が共同体の一員かをも決める政策と表裏一体である。

 

スウェーデンでも、社民主義的な福祉国家建設と国民国家形成は車の両輪として機能していた。少なくとも日本で「戦後」という言葉でもって象徴されていた諸々の概念―「自由」や「解放」、「自己決定」―と「福祉国家」は、ある程度までトレードオフであるという想像力は必要ではないか。

 

もし、「生」の維持そのものが「自由」よりも優先されるのだとしたら、戦後そのものは破産宣告を受けたのに等しい。

 

ユートピアはどこにも存在しない。しかしユートピア論はいつも存在する。この後者が持つ誘引にこそ、わたしたちは自覚的になるべきなのだ。

 

 

AWS Access Key ID: AKIAJSA5SEKND2GVG7TA. You are submitting requests too quickly. Please retry your requests at a slower rate.

 

 

 

 

シノドスのコンテンツ

 

●ファンクラブ「SYNODOS SOCIAL」

⇒ https://camp-fire.jp/projects/view/14015

 

●電子メールマガジン「αシノドス」

⇒ https://synodos.jp/a-synodos

 

●少人数制セミナー「シノドス・サークル」

⇒ https://synodos.jp/article/20937

 

 

 

 

1
 
 
シノドス国際社会動向研究所

vol.2019.4.15 

・打浪文子「知的障害のある人たちと「ことば」」

・照山絢子「発達障害を文化人類学する」
・野口晃菜「こうすれば「インクルーシブ教育」はもっとよくなる」
・戸谷洋志「トランスヒューマニズムと責任ある想像力」
・濵田江里子「「社会への投資」から考える日本の雇用と社会保障制度」
・山本章子「学びなおしの5冊 「沖縄」とは何か――空間と時間から問いなおす」
・鈴木崇弘「自民党シンクタンク史(6)――設立準備期、郵政民営化選挙後」