新しい「ことば」の学び方――「一身にして二生を経る」時代を生き抜くために

■「新しさ」をそのつど好奇心旺盛に楽しむ

 

最後に、より広義の新たな分野における「ことば」の習得についてお話します。私の個人的な実感としては、「新たな環境を好奇心旺盛に楽しんだ者勝ち」だと思います。

 

みなさんも、これから本当にいろいろな分野に進んで行くことになるでしょう。新潟を離れる人もいるでしょうし、新潟に残っても、今までとは想像もつかないようなところで就職するかもしれません。人によっては日本を離れて、全く違う別の国で働くという人もいるでしょう。しかし、どんな環境に行ったとしても、その新しい環境で、いかに好奇心旺盛に、それこそRPGで新しい呪文をどんどん覚えていくように楽しめるかどうか、が分かれ目だと思います。

 

もちろん、一人ひとり、環境や能力は千差万別で、一般化したことは言えません。ただ、私のこれまでの経験から、いくつかヒントになることを伝えたいと思います。

 

まず、「まずはスタンダードな『教科書』から」ということです。

 

昨年度の講義でもお話しましたが、「教科書」というのは、とにかくコストパフォーマンスがいいんですね。過去100年、200年くらいの一流の学者が「ああでもない、こうでもない」と議論した結果、「これは間違いない」という結論に至ったエッセンスが詰まっているのが、入門編の教科書です。しっかりした概要をまず読むのはコストパフォーマンスが高い。「巨人の肩に乗る」というのは、これまで築き上げられてきたものを土台にすれば迷わないし、語弊を恐れずに言えば、楽もできます。スタート地点で、自分独りで地面から登っていかなくても、巨人の肩の段階から始めればいい、というわけです。

 

逆にマズいのは、いわゆるトンデモ本に飛びついてしまうことです。明らかに科学的知見が欠如しており、これまで中学、高校の教育を受けていれば「あれ、そんなことないだろう」と思うようなことが書かれた本に引っかかってしまうと、そこから先は大変です。そのネタで盛り上がれる人たちだけと集まって「タコツボ」化してしまい、違う意見を持った人たちからの批判に対して、「あなたはこの有難さを分かっていないんだ!」とムキになって反論するようになってしまう。どんどんドツボにハマって、ダメなネットワークの中にズブズブと入り込むことになります。

 

ですから、まずは、これまで小中高、大学で築いてきた一般常識、教科書のスタンダードから始めることが重要です。

 

次に、「信頼に足る参照先を見つける」ということです。良い仲間を見つけてください。いろいろな新しい「ことば」を学んでいくうえで、一人でやっていくことはとてもつらいことです。ぜひ、良い仲間とともに歩んでいってください。逆に悪い友達を作ってしまうと、これまでいた良い友達は、音もなく去っていきます。本当に音もなく、去っていくんです。「お前、そういうのは止めたほうがいいと思うよ」と忠告してくれるのは良いほうで、普通は関わり合いになりたくないから何も言わずにいなくなります。そうなると、残るのは悪友ばかりです。良い仲間を見つけ、あなた自身が良い参照先として信頼されることは、死活的に重要な問題です。

 

あなたが話題にする人、誰々から褒められたとか、けなされたとか、と言う時に、どういう具体的な名前を出すのかということも、周りの人はよく見ています。もしかしたら、周りから「あいつはあんなことを言っていた。あんな名前を出した。関わらないようにしよう」とそっと距離を置かれてしまうということがあるかもしれません。

 

最後に、「これまで培った能力の活用を図る」ということです。

 

冒頭で福澤諭吉の話をしました。それまでオランダ語の勉強をしていた福澤諭吉は、いきなり英語に出会い、勉強をするようになりました。しかし、ゼロから始めたわけではありません。「世界でオランダ語は超マイナーだ、英語を始めなければいけない」となったときに、福澤諭吉がまず手にしたのは、英蘭辞典だったんです。つまり「英語のこの単語は、オランダ語のどの単語に該当するのか」が分かる辞書です。

 

このエピソードからも、今の私たちにとって大きな教訓を導き出すことができます。つまり、いきなり新しい分野に飛び込むのではなく、それまで自分が得てきた能力を土台にして、新しい「ことば」を学んでいく、ということです。

 

 

浅羽05

 

 

桂三輝(かつら・さんしゃいん)というカナダ人の落語家の例を紹介しましょう。最近、ニューヨークのブロードウェイで落語の英語公演をしたことで有名になった人で、本名はグレッグ・ロービックです。日本文化に興味を抱いた彼は、日本に留学した後、六代桂文枝に入門し、「三輝(さんしゃいん)」という面白い名を得たわけです。

 

カナダ人、あるいは英語を母語とする人はゴマンといます。落語家も、日本国内を見ればやはりたくさんいます。しかし、「英語ができる」「落語家」と条件を2つ足した瞬間に、その数は劇的に減少します。そうすることで、市場における付加価値が生まれるわけですね。オイシイところに目を付けて、「落語の面白さを英語にする」という今までほとんど誰もやってこなかったことを、ニューヨークやロンドンでチャレンジしたことで、桂三輝はいま売れてきています。誰もやっていなかった分野で、自分がやってきたことを生かせることを思いついた人は強いですね。

 

ちなみに、桂三輝はカナダ時代には劇作家だったそうです。英語で劇を作っていただけでなく、ギリシャ悲劇の基礎も学生時代にしっかりと学んでいました。本人は、落語の展開はギリシャ悲劇に似ているということに気づいたので、落語の理解も速かったと記しています。これまで学んでいた一見関係のなさそうなことをうまく生かしている人なのだと分かります。

 

 

■「鸛鵲楼」からの眺め

 

逆に注意しなければならないこともあります。「一発退場にご用心」です。

 

まず、どの分野にも共通して言えることですが、「基礎的データに関するミスには特に注意が必要」です。人名や地名、数値などが誤っていた時、あなたの言うこと、あなたの提出するレポートは、その間違いだけでなく、全体のクオリティに対して「こいつ大丈夫か」と見る目がとたんに厳しくなります。ぜひ気をつけてください。

 

例えば、現在のドイツの一部である「プロイセン」について、「プロセイン」と書いていた人を目にしたことがあります。たぶん間違えて覚えていたんでしょうが、それ以降、私はその人の文章を一切信用しなくなりました。そんな間違いをする人が、他にマトモなことを書けるわけがない、とみなしたからです。こういう恐ろしい落とし穴は、今後みなさんが生きていく中でいくつもあります。人名や地名、数値は基礎的データで、間違いようがないように思えるのですが、ここで間違えると一気に信頼を失います。そのサークルでは当然、良い仲間とはみなされなくなります。

 

次に、「知らないことを「知ったかぶり」しない」ということです。これも非常に難しいことです。新しい「ことば」を学んでいく中で、知らないことでもあたかも知っているように振る舞いたい、という欲求は誰でも持っています。しかし、これも、度を過ぎると失敗することになります。一番いいのは、知らないことについては黙っている、ということです。黙っておいて賢そうなフリをするのは重要な延命術です。逆に、知りもしないのに生半可なことを言うと、世の中には各分野の専門家がゴロゴロいますから、「お前、間違ったことを言っているぞ」と指摘されてしまいます。特にTwitterには各分野の専門家で暇人がウヨウヨいますから、何か間違ったことを言うと、いきなりリプライが飛んでくるという恐ろしい世界です。よく知らない分野について、自分の名前を出して対外的に発言するのは避けたほうが無難ですね。

 

そして「心身の健康を損ねて破綻しない」ということです。

 

みなさんの中には、漫画家・地獄のミサワの「カッコカワイイ宣言!」を読んだことがある人もいるでしょう。こういう人、よくいるよね、と笑いのネタにしているわけです。眠らない自慢、徹夜した自慢をしたい気持ちは分からないわけでもありませんが、「オレ、一時間しか寝てないからつれーわー」「レポート、徹夜で仕上げたわー」といっても、徹夜したこと自体には何の意味もありません。むしろちゃんと寝て、しっかりとしたレポートを書いた人のほうが、はるかに評価されます。これから新しい「ことば」を身につけて生きていくうえで、有限な時間の中で、どのようにモノを仕上げていくのか、ということが問われます。きっと、この講義に関するレポートもそうでしょうね。

 

与えられた時間は有限である中で、タスクごとにそれぞれの配分をよくよく考えて、どう結果を出していくのか。ぜひ睡眠時間をしっかりととるとともに、悲劇のヒーロー、ヒロインにならないようにしましょう。しっかりとした休みをとってください。ストレスの解消も重要です。

 

最後に、中国の唐代の詩人・王之渙の「鸛鵲楼に登る(登鸛鵲楼)」という詩を紹介します。私は中学生の時に、尊敬する先生からこの漢詩を教えていただき、憧れを抱きました。

 

白日依山尽

黄河入海流

欲窮千里目

更上一層樓

 

白日、山に依りて尽き

黄河、海に入りて流る

千里の目を窮めんと欲し

更に上る一層の楼

 

楼を登る途中に、ふと立ち止まって周囲を見渡すと、日が山に沈むところも、黄河が海に流れ込むところも見える様子を想像してみてください。眺めがよく、爽快だ。だが、それで良しとせず、もっと遠くを、千里先も見たいと願って、もう一段上って高みを目指す、という意味です。

 

内容だけでなく、「山」と「海」、「千」と「一」、「白」と「黄」が対照になっていて、リズムもいい詩です。私自身、新しい「ことば」を学んでいくにあたって深い示唆を与えてくれるものとして、ずっと大事にしています。

 

みなさん、これからいろいろなステップを踏んでいくことになると思います。ぜひ眺めの良いところを目指してください。そして、より良い眺めを得るためには、一歩一歩、層を登っていかないといけません。新しい「ことば」を学ぶうえで、もどかしい思いをすることが出てくるでしょう。それでも、いちど良い眺めを体験すると、その素晴らしさは筆舌に尽くしがたいもので、また味わってみたいと思うようになります。今後の人生において、みなさんが新しい「ことば」を学ぶうえで何らかのヒントにしてもらえればと思います。

 

私の話はここまでにして、浅羽先生とのクロストークに移ります。ありがとうございました。【次ページにつづく】

 

 

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