肉食と環境保護――非菜食主義の環境倫理学者が言えること

「いただきます」と「ごちそうさま」で解決?

 

ここまで肉食の問題点を、環境問題の文脈で取り上げてきたが、じつのところ、両者を結びつける視点は目新しいものではない。環境破壊の哲学的議論の口火を切った歴史学者のリン・ホワイトJr.は、自然は人間に利用されるために創造されたのだとするキリスト教の人間中心主義が、自然破壊を推し進める価値観を作り上げてきたと批判した。しばしば、これをもって環境倫理学の始まりとし、日本はその後の英語圏の議論を輸入してきたという見方がなされることが多い。

 

しかし、ホワイトがこの考えを最初に発表したのが1966年12月の講演であるのに対し、それに先立つ同年1月、やはり歴史学者である鯖田豊之が『肉食の思想』という新書を刊行している。そのなかで鯖田は、ヨーロッパ社会の自然観・動物観とキリスト教の人間中心主義の結びつきを論じていたのである(なおホワイトの講演内容は、1967年に論文としてScience誌に掲載され、1968年にその論文を含む書籍が『機械と神』として刊行されている)。

 

私は環境倫理学の講義で毎年のように鯖田の名前を出しているが、学術論文や専門書はともかく、環境倫理学の紹介文や入門書で鯖田の名が言及されることは残念ながらほとんどない(2017年に刊行された吉永明弘の『ブックガイド環境倫理』が『肉食の思想』を基本文献のひとつとして取り上げているが、『肉食の思想』に触れている入門書は、これぐらいではないだろうか)。

 

ところで、私の講義でホワイトと鯖田の主張を交えつつ、キリスト教の人間中心主義を紹介すると、受講生たちは人間中心主義をきわめて「傲慢」な態度だとして、批判的に受け止める傾向があるようだ。ところが、その後の講義で、動物を殺すことを基本的に反道徳的と見なす動物倫理学・環境倫理学の学説を紹介したり、捕鯨論争の話題を取り上げると、彼らの態度は急変する。

 

「人間が動物を利用するのは当たり前」という人間中心主義の見本のようなコメント、「日本には『いただきます』と『ごちそうさま』の文化があり、感謝している」などの現状肯定意見、ときには菜食主義を偽善として攻撃する意見も提出される。とりわけ、「いただきます文化」の人気は高い。

 

さすがに動物には一切の配慮は必要ないと考えた17世紀の哲学者デカルトほどの開き直りは見られないものの、CAFOで行われている動物の福祉に明らかに反する処置について説明しても、彼らの反応に大きな変化は見られない。(注)コメントで表明される意見の大半は、自分たちの食習慣を批判するような議論への防衛的反応であって、現行の食料生産・供給システムへの批判的な見解ではない。

 

(注)動物倫理学でCAFOが批判されるときによく言及されるものに、「妊娠ストール」や「バタリーケージ」がある。前者は豚、後者は鶏の飼育で用いられるもので、どちらも窮屈な飼育用の檻である。妊娠ストールの中の豚は、方向転換も足を伸ばして寝ることもできず、種付けと分娩のとき以外、そこから出されることはない。ストレスのために、異常行動が多くなり健康状態も悪化する。EUでは2013年に使用が禁止されているほか、オーストラリアやアメリカでも禁止に向かっているが、日本では禁止されておらず、畜産技術協会の平成27年の調査報告書では88.6%の業者がストールを使用していると答えている(ただし、使用しているストールのサイズはまちまちで、幅が150cmとややゆとりのあるストールを使用している業者もあるが、その割合はわずか0.3%に過ぎず、大半は60cmから70cmの幅しかない)。

 

バタリーケージについても状況は似たようなもので、こちらもEUを皮切りに使用禁止へと向かう流れのなかで、日本は規制がない。ケージは卵を取り出しやすいよう傾斜がついており、止まり木や砂浴び場がないなど、鶏の習性を無視した構造になっている。こうした環境に置かれると鶏は他の鶏をつつくようになるので、その嘴はデビーク(嘴を切断する処置のこと。ビークトリミングともいう)することが多いが、基本的に麻酔は用いられず、デビーク時のみならずその後も痛みを味わうといわれる。上述の報告書によれば、日本ではおよそ84%のひながこの処置を施されている。

 

確かに「いただきます」と「ごちそうさま」を言う文化の根底には、私たちの食事のために犠牲となった生物への感謝や供養の念が込められているのだろうし、それは、自然は人間に利用されるために存在していると考えるキリスト教的人間中心主義の主流の態度には見られなかった要素だと言って良いだろう。その意味では、現代の日本人の自然観・動物観と、人間中心主義批判以前のキリスト教社会のそれとを同一視することは適切ではない。

 

しかし、食事の前後に儀礼的な言葉を発しただけで、食材として犠牲になった動物、犠牲になるまでにCAFOで虐待され続けてきた動物に対して、何もなかったことにできるというのは、それはそれでやはり「傲慢」な態度ではないだろうか。

 

しかも、私は週に数回は大学の学食で昼食をとるのだが、そこで学生たちがきちんと「いただきます」や「ごちそうさま」という言葉を発する光景を目にすることはきわめて稀なのだ(心の中で呟いているのかもしれないが、会話や身振りの様子から判断するとそれも疑わしい。教えられた日本のマナーを忠実に守っているのか、アジアやアフリカの留学生が、そうした言葉を発したりそれらしい身振りをしている様子は何度か目撃している)。

 

 

肉を食べ続ける肉食批判

 

前節で随分と批判的なことを書いたが、私も「いただきます」と「ごちそうさま」が、それに見合う心構えを伴っているのであれば意味のあることだと考えるし、自分の子どもにも、こうした言葉を言うように教えている。また、私にとって肉食の魅力は大きいので、当分は菜食主義者になる予定はない。菜食主義でもきちんと勉強すれば健康的な生活が可能だとの説明もあるが、わざわざ勉強不足から生じうる栄養の偏りや不足といったリスクを引き受けてまで、自分の子どもや家族に菜食主義の生活をさせるつもりはさらにない。

 

当然、学生や読者に菜食主義を強く勧める意図もない。こう書くと、それではこの記事は何のために書いたのかという疑問を持つ人もいるだろう。肉食に問題があると理解しているのであれば菜食主義者になるべきではないか、と責められるかもしれない。しかし、私としてはまったく後ろめたさがないわけではないにせよ、そのように硬直的な態度で迫ることにも問題があると考える。

 

というのも、肉食だけでなく、その他の環境問題に関する事柄も、そして社会問題一般についても、その解決に貢献するために、自分の生活のなかで一定以上の比重を占める楽しみを自主的に放棄しなければ道徳的に断罪されるというのは、私を含む多くの人にとってあまりに過酷な条件であるし、問題解決のための広い支持を集めるうえでも妨げになると思われるからだ。

 

原子力発電によるエネルギー供給に反対する人は、原子力発電所から供給された電気が送られてきている可能性がある限り、家電を放棄しなければならないという極論に同意する人はほとんどいないだろう。温室効果ガスの排出量が多すぎると現代社会を批判するからといって、自家用車に乗ってはならないという主張も同様に現実離れしている。ある行為や習慣を支えるシステムの現状を批判し改善を求めることと、そのシステムを利用し続けることは必ずしも相いれないわけではないということである。

 

一定の基準を境に、白か黒かと色分けする硬直的姿勢は、社会問題に取り組むためのハードルを上げるばかりでなく、問題に加担しているという罪悪感を煽り立てることで、人びとの関心すらも損ねる可能性がある。(注)

 

(注)ところで、過激な動物愛護団体などのイメージからか、菜食主義者が肉食をする者に攻撃的な姿勢を持っているイメージを持つ人も少なくないようだ。しかし、少なくとも私は菜食主義者に肉食の放棄を迫られた経験も、肉食習慣を攻撃されたこともない。この節で述べている内容も、菜食主義者に向けてのものではなく、むしろ肉食を批判するのであれば一切肉を口にしてはならないかのような思い込みに反対するためのものである。

 

 

おわりに

 

倫理は、人びとの言動を強制的に変えるものではない。強制力を伴う取り組みは、法律や政策を通じて達成されるのである。だが、倫理的思考は、私たちがどのような法律や政策、ひいてはどのような社会を作り出すかに決定的に関わる。倫理の役割は、問題解決のためには大きなものがあるが、あくまでも間接的なのである。

 

肉食を含む環境に負荷を与える私たちの習慣についての倫理的思考もまた同じである。現代社会における肉食の問題点を知り、それについて倫理的に考えることは、動物の福祉により配慮した肉を求めたり、肉の摂取量を減らしたり、途上国への支援を考えるきっかけとなりうる。また、たとえ即座に行動に移さないにしても、いずれハードルが下がったときにそうした行動を生み出したり、ハードルを下げるための法律・政策に賛同したりする可能性がある。

 

肝心なのは、私たちの生活習慣が、環境問題やその他の社会問題と関連しているのではないかという批判的視点を持つことである。また、そうした問題意識から活動している人びとの見落としや活動成果の不十分さを、冷笑したり偽善として責めたてるのではなく、問題解決のための助けや補完の道筋を探ることである。

 

肉食についていえば、まずは食肉生産の実態を学び、そのうえでどのような食料生産のあり方や食生活が望ましいかを考えること、そしてその実現に近づけるための方策を知り、そのなかで自分にできることを探すことが大事だろう。

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

未来の環境倫理学: 災後から未来を語るメソッド

未来の環境倫理学: 災後から未来を語るメソッド書籍

作者吉永 明弘, 福永 真弓

発行勁草書房

発売日2018年4月3日

カテゴリー単行本

ページ数186

ISBN4326603054

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