2014.04.30

なぜベーシックインカムは賛否両論を巻き起こすのか――「転換X」にのっとる政策その1

松尾匡:連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

経済 #新自由主義#ベーシックインカム

さて、これまでの連載で見てきたのは、次のようなことでした。

──1970年代までの国家主導的なやり方が世界中で行き詰まったのは、うまくいかない理由があった。それを指摘した自由主義的な経済学者の巨匠たちが言っていた要点は何だったのか。

それは「競争がないとみんな怠けて駄目になる」といった議論ではなかった。それは、「リスクと決定と責任が一致しないと駄目になる」という議論だった。ここから、「リスクのあることの決定はそれにかかわる情報を最も握る民間人の判断に任せ、その責任もその決定者にとらせるべきだ」ということが導かれる。

そしてこれと裏腹に、下々の情報を把握しきらず責任もとりきれないのが当り前の政治権力者や官僚は、リスクのある決定からは手を引き、自ら民間人のリスクのタネになったりしないよう、民間人の予想を確定する役割に徹すべきことが導かれる。

これが、この連載で「転換X」と呼ぶ、70年代までのシステムからの転換の本来の課題である。実際には、できるだけ民間企業の自由な営利競争に任せようという「新自由主義」政策がこの転換を担ったが、それは、「転換X」の本来の課題を誤解し、しばしばこれを裏切る逆行をもたらしてきた──

では、新自由主義でないならば、いったいどんなやり方が「転換X」に本当にのっとったやり方なのでしょうか。上のまとめからもおわかりの通り、いわば「ミクロ」と「マクロ」の両極に、まったく違う課題が振り分けられます。

「ミクロ」、つまり現場レベルに近いところでは、事業リスクにかかわる情報を一番持ち、いろいろな影響への責任を一番負えるところに、事業の決定と責任をゆだねるべきだということがわかります。するとこのことは、何でも出資者が主権を持つ資本主義企業にしてしまえばよいということにはならないことは明らかです。

この連載でも、第2回で漁協や医療法人や生協などの例をあげたように、従業者や利用者が、出資者よりもリスクをかぶり、それにかかわる情報をよく把握しているときには、従業者や利用者が事業主権を持つ事業体の方が、出資者に主権のある資本主義企業よりも合理的になります。

また、大資本が力まかせに吸収合併を繰り返して巨大マンモス企業になった結果、現場からはるか遠く離れて事情の届かないところで意思決定が集中されたらどうでしょうか。政府主導の経済がなぜ駄目かというハイエクたちの批判が、そのまま当てはまるようになってしまいます。

これからの日本のように高齢化が進んだ社会では、介護はもちろん、ちょっとした買物のようなものにもケアの要素が入ってきて、現場の具体的な顔のある関係の中ではじめてニーズとリスクが把握できるタイプの事業がもっと増えるでしょう。ですから、資本主義企業だけでなく、協同組合やNPOなど、さまざまなタイプの事業体がコミュニティの中で活躍して、利用者や従業者が直接にニーズを把握しあって、現場の個々人の手の届くところで決定する事業が、もっと発展していくことが展望されます。

このことについては、後の回で詳しく論じることにします。

他方「マクロ」、つまり公共政策のレベルでは、上でもまとめたように、不確実性を減らして人々の予想を確定することが役割になります。

注意すべきことは、このことは財政規模についての「小さな政府」とは何の関係もないということです。行政担当者が、あれこれの具体的な命令を、胸先三寸で決めることはしないというだけです。胸先三寸で決められては、民間人は事前にその内容を予想できませんから。そうならないように、人々の予想が確定するように、行政担当者の判断を縛るという意味では、「権限の小さな政府」かもしれませんけど、財政規模は「大きな政府」であってもかまわないわけです。

さらに、政策の積極的介入も否定されたわけではありません。

これまでの連載で見てきましたように、つじつまのあった人々の予想には、いろんなバージョンが複数あるかもしれません。「つじつまがあった」という意味は、人々が互いの行動の予想のもとで、各自自分にとって一番マシになるように振る舞ったら、もともとの予想が実現されるという意味です。このような、自己実現的に再生産される予想が、2パターン以上あるかもしれないのです。

例えば、ちょっと油断すると詐欺にあうとか、しょっちゅう強盗に遭うとかいう予想のもとでは、誰も他人に投資しないし、取引も萎縮してしまいます。へたに正直にしてカモにされるよりは、すきあらば自分も他人を食い物にした方がましということになり、当初の予想は再生産されます。逆に、詐欺も強盗も滅多に遭わないという予想のもとでは、他人を信頼して投資して、のびのびと取引できます。みんな、自分も正直に商売にはげもうと思い、当初の予想はやはり自己実現されます。

そうすると、人々の予想を後者の「詐欺も強盗も滅多にない」という方に確定した方が、世の中全体にとっていいことになります。これが政府の役割になるわけです。どんな新自由主義者でも、詐欺や強盗を取り締まるのは政府の役割だと言うと思いますが、それは、複数ある秩序均衡のうち、みんなにとってよい方を実現するために、それとつじつまの合う方に、人々の予想を確定しているのだと言えます。

連載第3回でご紹介した、ハイエクが必要とみなした政府の役割はみなそうです。その中には例えば、「工場法」のような労働時間を制限するルールや、公衆衛生がありました。工場法も公衆衛生も、19世紀イギリス自由主義国家でもみられたことです。「小さな政府」の典型だった時代なのに……。当時のイギリス政府が労働者階級をまともな人間として見ていたとは思えませんが、労働時間が長過ぎて労働種族が根絶やしになるのも、労働者街区に伝染病が流行って労働者が全滅するのも、資本家階級にとっては困ります。そんなリスクを排除して、労働力が安定的に利用し続けられる予想を確定する政策だったわけです。

そうするとこれ自体、資本家階級の意に反して、労働時間制限が厳しい工場法もあり得るし、公衆衛生に巨額の税金を費やすこともあり得ることになります。人々のリスクを抑えて予想を確定させるという機能が、それで弱まることは何もありません。だから労働者階級にとっては、このシステムを前提した上でそれらを労働者にとって有利なものにするように闘争することに意味があるのです。実際、19世紀のイギリスの労働者は労働時間制限の強化のために階級闘争を闘ってきて、それを受けて現実の労働時間制限も進んでいったわけです。

今回はとくに、このような、担当者のさじ加減を排除した「ルール」としての政策の典型的にわかりやすい例として、「ベーシックインカム」を取り上げてみます。「転換X」にのっとることが、かならずしも「小さな政府」を意味しないということが、明確に理解できる例だと思います。

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

第一回:「『小さな政府』という誤解

第二回:「ソ連型システム崩壊から何を汲み取るか──コルナイの理論から

第三回:「ハイエクは何を目指したのか ―― 一般的ルールかさじ加減の判断か

第四回:「反ケインズ派マクロ経済学が着目したもの──フリードマンとルーカスと『予想』

第五回:「ゲーム理論による制度分析と「予想」

第六回:「なぜベーシックインカムは賛否両論を巻き起こすのか――「転換X」にのっとる政策その1

第七回:「ケインズ復権とインフレ目標政策──「転換X」にのっとる政策その2

第八回:「新スウェーデンモデルに見る協同組合と政府──「転換X」にのっとる政策その3

右にも左にも賛成者と反対者

「ベーシックインカム」とはよく知られているとおり、すべての人に、一定の所得を無条件で分配する社会保障政策のことです。日本では、ホリエモンこと堀江貴文さんが熱心に提唱したり、大阪維新の会の「維新八策」にこの名称があがったり(実際には採用されていない)して、新自由主義的なイメージが強いのですが、マルクス経済学者の伊藤誠さんが近年一生懸命紹介しています[*1]ように、もともと欧米では社会主義者たちの議論の中で検討されてきたものです。

例えば伊藤さんもあげていますが、この連載の第3回で名前のあがったオスカー・ランゲはその先駆者の一人です。あのときにも説明しましたが、ランゲの社会主義モデルは基本的に普通の新古典派の一般均衡と同じものなので、計画計算の均衡解において、利潤や地代が発生します。工場も土地もみんな国のものですから、この利潤や地代は全部国のものになり、全国民で頭割りされて無条件分配されることになります。

こんなふうに、世間で言う「右にも左にも」支持者がいる一方、反対者もまた「右にも左にも」います。日本語版ウィキペディアの「ベーシックインカム」の項目を見て、あまりの見事さに驚いたのですが、2010年の参議院選挙の立候補者で見ると、(「新党改革」の唯一の回答者が反対だったのを除けば)なんと議席のある全政党で賛成者と反対者がいます[*2]。

こんなことになる政策なんて滅多にないことですね。やはり何か理由のあることでしょう。それはこれが「転換X」に極めてフィットした政策だからだと思います。「転換X」はとても根本的な社会システムの転換で、当然賛否両論が起こり得ますが、その対立軸と、従来の労資や保革の対立軸とは別のものです。しかしそのことを自覚しない反対者の目からは、この転換は敵を利するものに見えてしまう。「右からは左に見え、左からは右に見える」わけです。

労働と所得は切り離されていない

もちろん、あまり本質的でないテクニカルな批判はたくさんあります。財源問題をめぐる批判は一番ありふれたものです。小沢修司さんがとても早い段階で、おおざっぱに月8万円のベーシックインカムが5割の税率で実現可能という試算を出し[*3]、日本におけるベーシックインカム論議を切り開きましたが、その試算の当否はさておき、税率を上げれば原理的には当然可能である以上、本質的議論にとってはあまり重要な論点ではないと思います。

それから、提唱者があまりに、「労働と所得を切り離す」のが本質と言ってきたために、余計な誤解を生んでいる面もあると思います。「怠け者を助長するのか」とか「働く誘因が殺がれるぞ」とかいった反発を煽ってきたように思うのです。本当は、ベーシックインカムを支給して税金をとったあとの純所得は、稼げば稼ぐほど高くなりますから、労働と所得は切り離されていません[*4]。現行生活保護給付は一旦受け取ったら稼ぐだけ損になっていますから、そっちの方がよほど働く誘因が殺がれます。

正確に言うならば、ベーシックインカムの理念は、「労働と生存を切り離す」だと思います。労働と所得との対応は、飢えることのない範囲でつけるということです。

自由主義者が理想的に想定している「おとぎ話」のモデルは、いわば、無主の荒野を各自が好きなだけ開墾して、働きに応じた収穫を得る「大草原の小さな家」の世界です。そこでは元来、たくさん働いてたくさん収穫を得るか、収穫は少なくていいので自由時間をたくさん楽しむかは、個人個人の自由な選択の結果であり、等しく尊重されるはずです。自由時間を重視する選択をした人が、道徳的に劣った人であるようなレッテル付けはありません(「働かなくていい」というベーシックインカム論のスローガンは、あくまでこの意味と理解すべきで、ここでは働くほど収穫が得られるという関係は肯定されている)。

ところが、現実のこの社会では、自由に利用可能な無主の荒野などありません。強いられた失業もあり、倒産もあります。一旦そうなると食っていくすべはありません。とてもそんな自由な選択ができる社会ではありません。そこで、生存に必要な最低限の食い扶持は保障されるようにして、「大草原の小さな家」の世界をなんとかして近似的に実現してやろうという話なのだと思います。

新自由主義的ベーシックインカムへの危惧

左派側からの批判で目立つのは、「新自由主義に利用される」といったタイプのものです[*5]。「ベーシックインカムがあるのだからいいだろう」と言って、福祉や医療や教育などのいろいろな公的な社会サービスをなくしてしまうのではないか。最低賃金制度も要らないとされて廃止になるのではないか……。

例えば、橋下徹さんは、ベーシックインカムに賛意を示すツイッターで、「それによってバサーッと色んな制度がなくなり、公の組織がなくなるのではないか」という期待を表明しています[*6]が、新自由主義側の提唱者は、明らかにこれを狙っています。

新自由主義は歪曲満載とはいえ、これまでのところ「転換X」への最もメジャーな適応でしたから、その典型的な政策たるベーシックインカムが新自由主義者にとって親和性があるのは当然のことです。もし反対する左派の人が、もともと「転換X」そのものに反対する立場ならば、それにのっとるいかなる政策も新自由主義といっしょに見えるのも無理ありません。たしかにその批判には本質的な論点が含まれているでしょう。

しかし、そうではなくて、単に新自由主義者の側が公福祉解体的なベーシックインカムを唱えているからという理由だけで反対しているならば、そういうベーシックインカムもあるけど、そうでないベーシックインカムもあると言うだけです。小沢さんは、常々「ベーシックインカムと社会サービスの充実は車の両輪」と言っています[*7]。その通りだと思います。

そうは言っても、いまの政治的な力関係とか新自由主義的な改革の流れの中では、こっちがどんな理想的なことを言っても、結局新自由主義的なベーシックインカムに飲まれてしまうのではないかという反対論も聞かれます。ですが、この理屈を使えば、いかなる仕組みも、いまの政治的力関係の中で実現されるかぎり新自由主義的か右翼的なものになってしまうことは明らかなのですから、左派側からの新しい仕組みの提案などは一切できないことになってしまいます。どれだけベーシックインカムを積極的に提唱した身だとしても、いざ体制側から出されたベーシックインカムの案がよくないものだと思ったら、「もっとよいベーシックインカムを」と言って反対すればいいだけのことだと思います。

極端なたとえ話をすれば、左翼政党で「天皇制廃止」というスローガンを掲げようとしたときに、「いやいや天皇制廃止には改憲を必要とするが、現状で改憲を政治論議の場に乗せると、9条改憲に道を開いてしまうから反対」と言うようなものでしょう。現状で改憲を政治論議の場に乗せると9条改憲に道を開く恐れはとても現実的なのですが、そのことと、天皇制廃止を掲げるかどうかの問題とは論理次元が違うことは明らかでしょう。

[*1] 「ベーシックインカム構想とマルクス経済学」『季刊経済理論』第49巻第2号(桜井書店、2012年)。「ベーシック・インカムとマルクス経済学」『経済科学通信』第133号(基礎経済科学研究所、2013年)。

[*2] 「2010年参院選政党所属候補者に対する意識調査」日本語版ウィキペディア「ベーシックインカム」、2014年4月26日閲覧。

[*3] 小沢 修司「ベーシック・インカム構想からの思考──日本における導入の姿とその効果」『月刊自治研』第46巻(533)、2004年。

[*4] この点は、「負の所得税」や「給付付き税額控除」では強調される。ベーシックインカムとの違いを力説する論者も多いが、可変的な細事を除き、数学的には同値である。実際には事務コストが最小になる方法で実装されるので、数学的に同値なものは、本質的に同じである。現代の規範理論では、さまざまな再分配制度を評価するときに、それと数学的に同値になる仮想的な「せり」や保険を考えて、その本質的性質を議論するが、実際の制度で「せり」や保険契約が行われるわけではない。

[*5] 例えば、萱野稔人編『ベーシックインカムは究極の社会保障か』(堀之内出版、2012年)に収録されているさまざまな議論のうち、左派側からの反対論には、こうした危惧を訴えるものが多い。

[*6] 2012年2月14日https://twitter.com/t_ishin/status/169547778048016384

[*7] 例えば、小沢修司「ベーシック・インカム論議を発展させるために」『季刊経済理論』第49巻第2号(桜井書店、2012年)、19ページ以降。萱野編前掲書収録の小沢のインタビュー「ベーシックインカムと社会サービス充実の戦略を」の論旨もこれで、最後が「「BIと社会サービス充実」の両輪が必要」との言葉で締められている。

さじ加減の判断が要らないのが本質

ベーシックインカムの何が本質的に重要なのかというと、誰にどれだけ分配するかについて、行政担当者が何も決めなくていいことだと思います。あらかじめ決まった額を一律に支給するだけです。政策から行政担当者のさじ加減を極力減らし、人々があらかじめ予想できるものにすることが「転換X」の課題でしたから、究極にこの課題にのっとった仕組みだと言えます。

「転換X」を新自由主義的に読み込んだら、行政担当者のさじ加減を減らすということは、コストと人員を削減して「小さな政府」にすることと同じだと理解されてしまいますから、なるべく安上がりな給付のベーシックインカムを導入して、見返りにいろんな社会サービスをなくしてしまおうという志向になってしまうのは当然です。しかし本当は、行政担当者のさじ加減のないルールを目指すことと、財政支出が大きいとか小さいとかいうこととはまったく別のことです。税率が高く給付も大きく、公的な社会サービスも充実したベーシックインカム制度もあり得るわけです[*8]。

つまり、「転換X」にのっとった政策で確定すべき「人々の予想」がどんなものになるかは、いろいろな可能性があり、労働者・庶民の側と資本家側との綱引きによってどちらの有利なものにもなり得ます。選挙か街頭の圧力か利害団体の話し合いによるかはわかりませんが、ベーシックインカムの場合は、給付水準や税率のシステム等々を確定することがそれにあたるわけです。これが一旦決まれば、あとは行政が何をするかに不確実性はなく、各自はその予想のもとで自由に行動できることになります。

不要なリスクを減らす効果

「転換X」はたしかに「結果の平等」は志向しません。結果として所得が減ったことを公金で補うことには反対します。しかしそれは、「しばき主義」者が考えるように、格差があった方ががんばって働くからという理由ではありませんでしたね[*9]。

世の中にはリスクのある判断をしなければならないものがある以上、それは、それにかかわる情報が一番ある民間人の自由な判断にゆだねるほかないのです。でも、自由な判断であるかぎり、それがはずれて失敗する可能性は必ずあります。そうしたら、その責任は決定者にかぶらせなさい、そうでないとリスクの高い判断がどんどんされてしまいますよ──ということでした。

そうすると、間違った決定をして他人よりもソンする人がどうしても出ます。ソンの可能性ばかりあるならば、だれもリスクのあることに手を出さなくなりますから、他方で、判断があたったときには、他人よりトクするご褒美も必要になります。人々がリスクに手を出すのが大胆すぎもせず慎重すぎもせず、世の中にとってちょうどいいものになる程度のものならば、結果としての格差が多少でることは容認されるというわけです。

「しばき主義」的に格差を煽る論者から見れば、ベーシックインカムは人々を甘やかして格差の社会的メリットを弱めてしまうと批判されるかもしれません。しかし、「転換X」が容認する格差のプラスの機能が上述のようなものならば、その機能はどんなに手厚いベーシックインカムが導入されても弱められてしまうことはありません。

なぜなら、もし人々が合理的にリスク計算するならば、どんな選択肢をとろうとも関係なく得られる確定的な所得は、最初から計算には含まれないからです。ベーシックインカムのない世界で3万円損することも、10万円のベーシックインカムがある世界で3万円損して結果として7万円の所得になることも、3万円の損は3万円の損で同じとみなすのが合理的計算です。手厚いベーシックインカムのせいで過剰にリスク愛好的になることはありません。

いや、人間そんな数字だけで確率計算するのではないぞとおっしゃるかたがいるかもしれません。所得が少ないときの所得の変動は生か死かを分ける重大事ですけど、所得が多いときには、同じ幅の所得の変動でも評価はたいして変わらないものです。だとしたら、ベーシックインカムがなくて失敗したら生存にかかわる世の中と比べて、ベーシックインカムのおかげで失敗しても餓死することはない世の中は、人々が過剰にリスクの高いことに手を出すことになりはしないかと懸念されるかたがいてもおかしくありません。

しかし私は、ちょっと失敗しただけですぐさま生存にかかわる世の中の方が、過剰に慎重になってしまってよくないのだと思います。

いま、ベーシックインカムがなかったとしましょう。さしあたり人々の経済状態が平等でそこそこ豊かならば、自ら起業したり、仲間と協同組合を作ったりして、リスクのある事業に乗り出す人が多いかもしれません。それが多ければ多いほど、多様な試みが自由になされることで、人々の(しばしば自覚すらされてなかった)未知のニーズが発見され、それらが満たされて人々の暮らしが改善されることが期待されます。

ところが、さしあたり人々の間で貧富の格差があれば、多くの貧しい人は、失敗したら生きていけないと恐れて、みんなリスクのある決定には手を出さず、決定の責任を負わなくていい賃金労働を続けるでしょう。その場合には、リスクのある決定を担うのは一部のお金持ちに限られますので、事業の試みのバリエーションは平等な場合よりも少なくて、満たされないニーズがたくさん出てしまうと思います。

これまでは「リスクのあること」と言えば、技術開発みたいなのが中心でしたから大企業ばかりがそれを担っていてもよかったかもしれませんが、これからは介護や弁当宅配や育児支援等々が世の中の仕事の中心になってきますから、暮らしの現場の中に、満たされないニーズを見つけることが、「リスクのあること」の中心になります。ですから、普通の人ができるだけたくさんこうした試みに乗り出すことで、試みのバリエーションを増やすことが望ましいのです。

そうだとすれば、ベーシックインカム制度が導入されれば、もともとの稼ぎがそんなに多くない普通の賃金労働者だったとしても、失敗したときに生存の危機におちいる心配なく、自ら起業したり、仲間と協同組合を作ったりして、リスクのある事業にいまよりももっと乗り出せるようになるでしょう。

リスクと決定と責任を一致させる「転換X」の世界では、民間人の不要なリスクを減らすことが公共政策の役割になるのでした。ベーシックインカムは、事業リスクが各自の生存にかかわる重大なものになることを防ぐ機能を持つ点で、この役割に合致しているのです。

[*8] 小沢は前掲論文注22で、「政府支出の大小ではなく、官僚統制の大小での評価軸が必要となろう」(21ページ)と述べている。

[*9] ハイエクのこの議論については、本連載第3回4ページで見た。

措置制度擁護論が本質的反対論

実は、ベーシックインカムに反対する本質的な議論は、これまでの「措置制度」を守ろうとする立場からのものだと思います。ここで「措置制度」と言ったのは、広い意味でのことですが、個人個人が本当に福祉を受ける必要があるかどうか、行政が条件を審査して、個人個人の「必要」に応じた福祉を提供する仕組みのことをさします。

現行の生活保護制度もこの意味での措置制度の一種と言えます。受けさせてもらえるかどうか、担当官の判断に任されている部分が大きくて、事前にはどうなるか予想がつきません。その意味で「転換X」の志向とは対極にある仕組みだと思います。

この措置制度を守ろうという立場からのベーシックインカム批判にも、保守派の側からと左派側からの両方があります。

保守派の側からの批判者は、働けるのに働かない人にまでおカネをばらまくことが気に入らないわけです。だから、本当に働けないのかどうか、その人を養うべき親族がいないかどうか、行政によって厳しくチェックし、本当に必要な人だけにおカネを渡すよう求めます。そしていざおカネを支給することになったら、今度はそれがパチンコに使われないか、ぜいたくに使われないか、行政がきちんと監視することを求めます。そのために、そのときどきの個々のケースを見極めて、臨機応変に判断できる措置制度に賛成します。

他方で、左派の側からの批判者は、行政が、個々のケースに合わせて、困った人のさまざまな必要をきめ細やかに把握して、適切な支援を行うことを求めます。例えば、家賃の高い都市に住んでいればそれだけ多めに家賃補助を出す、子どもがいればかかる費用に応じて育児手当を出す等々といったことです。介護や就学支援や職業訓練などのさまざまな社会サービスもケースごとにいろいろ必要になるでしょう。ところがこれを一切判断することをやめ、一律にバサーっと切って一定金額の支給にしてしまっては、こぼれ落ちてしまう人がたくさんでてしまうだろうということになります[*10]。

現実に見られる判定システムは最悪

この左派側からの批判について一言コメントしておくと、自分が提唱する方は親身で配慮にあふれた措置制度を想定しておいて、批判する方は新自由主義的な最低のベーシックインカムを想定するという対照の仕方は正当ではないと思います。親身で配慮にあふれた措置制度と対照すべきは、もれる人の出ない充実したベーシックインカムですが、後者の方が前者と比べて、予算的にも労力的にも政治的にも困難だといいきることはできないでしょう。ただ一つ確かなことは、新自由主義的なベーシックインカムは、現在のところそうなるかもしれない可能性にとどまりますが、しばしば見られる生活保護制度の運用が、最低最悪の措置制度であることは、可能性ではなくて目の前の現実です。

私は四半世紀近く前の大学院生時代に、水島宏明さんの『母さんが死んだ──しあわせ幻想の時代に』というルポ本[*11]を読んで怒りに震え、その後大学に就職してからしばらくこれを授業で紹介し続けてきました。三人の子どもを抱えた母子家庭のお母さんが、生活保護が受けられない中、働き詰めに働いたあげく身体を壊し、衰弱しきっても福祉事務所から助けられずに餓死した事件のルポです。

この福祉事務所がある札幌市白石区では、この事件の前にも深刻な事件が続発していました。生活保護を打ち切られて電気も止められていた母子家庭で、お母さんが夜勤めに出ている間、子どもたちがろうそくで明かりをとったまま眠り、火災になって子どもが一人焼死する事件。生活保護で福祉事務所から「就労指導」を受けていた人が、それを苦にして自殺する事件……。

そして、餓死事件が報道されたあとで、札幌のテレビ局に続々とかかってきた告発の電話が載っているのですが、福祉事務所では、生活保護が受けられるかどうかまだわからないのに、まず家財道具を冷蔵庫まで全部売ってからこいと言われたとか、「身体を売れ」とか、「泥棒まがいのことでもしろ」と言われたとか、「死んでしまう」と言ったら「じゃあそうしたら」と言われた等々の暴言の数々が証言されています。そして、ケースワーカーが生活保護を受けている監視下の女性を食事に誘ったり、身体を求めたり、あるいは飲み屋で「未亡人をずいぶんごちそうになった」と自慢したりしていたことも証言されています。

その一方で、そんな福祉事務所から出てきた暴力団員から、机を叩けば簡単に生活保護が不正受給できるという話を聞き出したことも書いてあります。

最近、雨宮処凛さんが、ウェブ雑誌「マガジン9条」の連載でこの本を読んだ感想を報告されていて、2012年にやはり札幌市白石区で起こった姉妹餓死事件を連想したと述べておられます。

雨宮処凛がゆく!第292回『母さんが死んだ』――27年前の餓死事件、そして更に広がる子どもの貧困。の巻

曰く「舞台は、やはり札幌市白石区。姉妹の姉は3度も福祉事務所に助けを求めていたが、「若いから働ける」と追い返されていた」──私がこの本を読んだときは、将来は少しは福祉が充実して、こんなひどい時代もあったんだねと昔話になるだろうと信じていました。ところがどっこい。四半世紀たっても何も進歩していないとは。

措置制度の本質的問題

このような最悪の運用に歯止めをかけるための闘いは、現行制度を前提した上でも喫緊の課題でしょう。ですが、生殺与奪の力を握る者に判断が委ねられる制度では、どんなにがんばっても、あらゆるところに腐敗の誘因がぶら下がっていると思います。

さらに、担当官がみな清廉で善意にあふれた人たちだとしても、根本的な問題があります。現在はますます多様な背景を持った人々が、複雑に入り交じってきています。困った事情にある人のニーズは、本人でさえ自覚するのが難しく、ましてや他人が把握することはもっと困難です。だから、行政の担当者が判断するニーズは、どこまでいっても推測でしかあり得ません[*12]。

そうすると、行政の判断するニーズで措置されたサービスが、実は本人のニーズに合わない可能性はいくらでもあります。しかし他に選びようがないならば、当事者は受け入れるほかなくなります。さらに、例えば、もし行政の担当者の判断で強制した就労訓練などが、心身のコンディションに合わずに事故が起こったとき、行政は責任を負いきれるのかといった類いの問題も生じます。

だから、当人の同意があれば行政の責任が免れるわけではないでしょうけど、当人の同意は前提条件にしないわけにいきません。すると今度は、コストをかけて準備されたサービスが、人々に受け入れられない可能性も生じます。しかし判断した担当官はその責任を負わなくていいので、人々に受け入れられないサービスに公金が費やされ続けるという事態も起こり得ます。

すなわち、人々のニーズを把握して適切な措置をすることには、いろんな意味でリスクがあるのですが、行政の担当官はその判断に自腹で責任を負うことがないということです。そうなればリスクの高い判断が横行して、利用当事者や社会一般を傷つけてしまう可能性があります。

よって、行政はそのような判断から手を引いて、NPOなり協同組合なり、自分の判断に自分で責任を負う民間事業体に判断を委ねるのが筋になります。行政は自らそのような判断を行うのではなく、これらの民間の事業主体の後方支援に徹するのがいいということになります。障害者福祉など、いろいろな分野で措置制度がなくなっているのは、(少なくとも大義名分としては)このような理由からだと理解していますが、生活保護制度についても、同様の発展的解消が期待されるのだと思います。

[*10] 萱野編前掲書では、後藤道夫「「必要」判定排除の危険──ベーシックインカムについてのメモ」。

 

[*11] 文庫本になっている(社会思想社、1994年)。本文の雨宮記事によれば、復刊されたとのこと(ひとなる書房、2014)。

[*12] 行政による必要判定を擁護する後藤は、「ニーズ」一般の中から「必要」を区別すべきことを強調する。「空腹を満たす必要とヨットを持ちたいという要求の違いを認めなければ、最低生活保障という課題そのものがきわめて抽象的なものとなる」として、「社会保障における「必要」の判定は、この二つの間に本質的な差異があり、ヨットを持ちたいという要求は社会保障の問題としては排除されるべきだ、という考え方を前提したものである」(前掲書171-172ページ)と言う。「生活保護でパチンコするとはけしからん」といった類いの立場から生活保護受給者の私生活を逐一監視している現行の運用思想が、これと同根であることは明白である。

景気の自動安定化作用が働くかも

さて、今回の残りの部分では、ベーシックインカム制度が「転換X」に合致した性質を持っていることについて、あと二点私見を述べたいと思います。

一つ目の論点です。仮にベーシックインカムを金額で固定するなり、あらかじめ決まった一定の率で引上げることにするなりしましょう。そして、税収から一般の政府経費を引いた残りでベーシックインカムがまかなえなければ、足りない分はおカネを発行してあてることにします。逆に、政府が一般経費の他にベーシックインカムを払っても、なお税金に余りが出たときには、そのおカネは中央銀行が吸収してしまうことにします。

そうすると、自動的に景気が安定化する仕組みができるかもしれません。

なぜならこの場合、不況のときには、どれだけ失業者が増えてもベーシックインカムの分は需要の下支えが働きます。デフレで賃金も利子収入も下がるかもしれませんが、ベーシックインカムの金額だけは下がりませんので、物価が下がる分それで商品が前よりたくさん買えるようになって、その分いくらかは需要が増えます。しかも不況なら税収が減るので、足りない財源をまかなうためにおカネの発行が増えて、景気が刺激されます。

逆に、好況が加熱してインフレがひどくなったときには、税収が増えて、ベーシックインカムを超過して吸収されるおカネが多くなります。それは需要を冷やします。また、物価が上がってベーシックインカムで買える財の量は減って、その分需要が抑えられるとともに、それで前より暮らしが厳しくなって労働供給を増やす人々が出てきます。景気過熱期で人手不足ですので、労働供給を増やせばそれは簡単に雇われて、生産が増えて、いろいろな商品の供給量が増えます。それは、需要超過状態を緩め、インフレを抑える役割を果たします。

こうした効果がどこまで大きくできるかはわかりませんけど、景気対策について、そのときそのときの政府の判断に頼る度合いを少しでも減らす方向にある点で、「転換X」の課題にのっとっていると言えると思います。

エグジットによる自動改善作用

二番目の論点は、いいことだと言い切れるか自分でもわからないところがあるのですが、かなり根源的な問題です。

例えば、ひどい労働条件の「ブラック企業」に勤めていても、ベーシックインカムがあれば、みんな飢える心配なく簡単に辞めることができます。そうしたら、ひどい労働条件では人が集まらなくなりますから、ある程度は労働条件を改めないわけにはいかなくなります[*13]。

あるいは、ベーシックインカムがあれば、たとえ住民税を払わない無職の人、低所得の人でも、ただ住んでいるだけで需要が発生して地域経済にプラスになります。だから地方政府としては、無職でも低所得でも、ともかくたくさんの人に住んでもらうことがメリットになります。すると、住民サービスが行き届かない地域からは住民が出ていって、役所がきちんと住民サービスをするところに集まってくるので、地方政府どうし、住民サービスを競って良くしていく力学が働きます[*14]。

これはとてもいいことだと思います。しかし、この意味することを反省してみると、労働者は仲間と団結して労働組合運動を闘わなくても、各自自分だけのために「辞める」という行動をとるだけで、それが合成されて事態の改善をもたらすということです。あるいは、デモや請願や選挙などの民主主義的な政治手段で合意形成を図らなくても、各自自分だけのために「引っ越す」という行動をとるだけで、それが合成されて事態の改善をもたらすということです。

このことはまさに「転換X」の基本精神に通じているのですが、もしこうしたメリットが人々の公共的な積極性を衰退させる恐れがあるならば、それをどう評価するかはよく議論すべきでしょう。もっとも現実には、失業率が低くて職を辞めやすい環境ほど労働組合運動は活発だし、末期東ドイツではハンガリー経由で西側に脱出する人の波が起こった後になって、たくさんの人々が民主化デモに立ち上がったのですけど。

あくまで資本主義システムの一環

最後に、いまの論点と密接にかかわっているのですが、しばしば社会主義者の側からの賛成論に、前述したように、ベーシックインカムを社会主義的システムとして位置づける議論が見られることにコメントしておきたいと思います。

「社会主義」とは何を指すのか論者によって一致しないところがありますが、マルクスの唱えた、資本主義体制に替わる新しい社会システムとしての「アソシエーション」のことだとすると、ベーシックインカムはまったく社会主義的ではないと思います。

というのは、この場合、社会主義というのは一にも二にも「決定」の問題です[*15]。実際に働いて暮らしている末端の個々人の、合意と自己決定で、生産のあり方をまわしていこうということです。とすると、ベーシックインカムの本質的利点は、(基準を定めたあとは)何も決めなくていいことにあるわけですから、社会主義の本質的価値とは対極にあるわけです。

小沢修司さんは、ベーシックインカムを、労働時間規制をした「工場法」になぞらえています。適切な比喩だと思います。マルクスは労働時間制限立法が資本家階級全体の利益(労働力の再生産保障)のためにあることを指摘しながら、それを目指す労働者の闘争を支持しています。それは、資本主義体制を超えるものではなくて、資本主義体制の一環として労資の闘いの土俵をなすものです。その土俵が労働者にとって有利なものになれば、闘いは労働者の境遇を改善し、社会主義者にとっては次のステップにつながるところが大事なのです。ベーシックインカムもまったくその点で同じだと思います[*16]。

* * *

さて、次回は5月下旬です。そろそろ消費税引き上げの悪影響で、景気回復も胸突き八丁にさしかかってくる頃で、追加の景気対策をどうするかといった議論も出てきているかもしれません。次回は、まさにその景気対策のお話をしようと思います。

昔のケインズ理論では、景気が悪くなって失業者が出たら、政府が財政支出を増やしたり、中央銀行がおカネをたくさん出したりして、財やサービス全体の需要を拡大して雇用を増やしてやりなさいという政策が唱えられていました。しかし、その後80年代から広まった「転換X」の新自由主義的な読み込みでは、そんなことをやっても無駄だから、政府は経済のことに手を出さず小さくなっていなさいということになって、「ケインズはもう終わった」とされてきました。

果たしてこの読み込み方は正しかったのでしょうか。「転換X」にのっとった本当の政策課題──よりよい均衡が実現されるように人々の予想を確定する──からは、景気についてどんな政策が導かれるのでしょうか。次回はこのことを考えたいと思います。

 

[*13] マルクスが『資本論』第1巻の終わり、第25章「近代植民理論」で描くように、アメリカ北部やオーストラリアでは、民衆が簡単に自営農民になれるので、資本主義が搾取する労働者を容易に入手できず、高賃金などに苦しめられた。それと同様の力が働く可能性がある。逆に、よく指摘されるように、低賃金でも生きていけることが、賃金を抑える可能性もある。実際には、ベーシックインカムのために成り立つ低賃金セクターで生きていけることが、人手不足部門での賃金上昇をもたらすのかもしれない。

 

[*14] このことは、地方自治体自体が、利用者にとって(居住で)選択でき、判断の誤りに住民転出で損を受ける分責任をかぶる点で、協同組合などの民間事業体と似た存在になることを意味する。それゆえこの場合には、生活保護のような選別的給付を自治体の判断で行うことは正当化される。昨今の合併後の「市」のような単位は、このためには大きすぎると思う。

 

[*15] 置塩信雄が強調していたことである。「生産手段が社会の全構成員によって共有されているということは、社会の全構成員がこの生産手段による生産の決定に関与するということである」置塩『経済学はいま何を考えているのか』(大月書店、1993年)。その後田畑稔『マルクスとアソシエーション』(新泉社、1994年)や、大谷禎之介の一連の論考(大谷『マルクスのアソシエーション論』桜井書店、2011に所収)で、マルクスの展望した未来社会像「アソシエーション」が、自立した諸個人の水平的連合であることが明らかになった。

 

[*16] 小沢前掲論文17ページに詳しく論じられているので参照されたい。

(本連載はPHP研究所より書籍化される予定です)

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

第一回:「『小さな政府』という誤解

第二回:「ソ連型システム崩壊から何を汲み取るか──コルナイの理論から

第三回:「ハイエクは何を目指したのか ―― 一般的ルールかさじ加減の判断か

第四回:「反ケインズ派マクロ経済学が着目したもの──フリードマンとルーカスと『予想』

第五回:「ゲーム理論による制度分析と「予想」

第六回:「なぜベーシックインカムは賛否両論を巻き起こすのか――「転換X」にのっとる政策その1

第七回:「ケインズ復権とインフレ目標政策──「転換X」にのっとる政策その2

第八回:「新スウェーデンモデルに見る協同組合と政府──「転換X」にのっとる政策その3

サムネイル「Houses and money」Images Money

http://www.flickr.com/photos/59937401@N07/5474211395

プロフィール

松尾匡経済学

1964年、石川県生まれ。1992年、神戸大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。1992年から久留米大学に奉職。2008年から立命館大学経済学部教授。

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