2013.09.09
スポーツに暴力は必要か
スポーツの価値と意味の理解が体罰撲滅につながる
私が生まれたのは1964年(昭和39年)、東京オリンピックが開催された年である。当時のスポーツアニメ、ドラマを思い起こせば、『巨人の星』や『アタックナンバーワン』といったいわゆる根性ものが全盛の時代だった。苦しくても辛くても耐えて栄光をつかむという物語が多くの人の共感を得た。なぜなら、その時代は日本全体が我慢して骨身を惜しまず働けば、豊かさを手に入れられると信じて突き進んでいた時代だったからだ。豊かさの定義も、テレビや冷蔵庫、車など物質的なものにあり、目に見える、わかりやすいものだった。その後、時代は進み、日本は世界有数の経済大国となり、物が溢れ、何が豊かさなのかも判断できなくなっていった。人々の求めるものや価値観は多様化し、思い描く豊かさや夢は昔のように単純なものではなくなった。
時代が変化したにもかかわらず、スポーツだけは当時の根性主義をどこかに引きずってきてしまったようだ。おそらくそれは、古き良き時代への人々の郷愁なのだろう。“スポーツには変わってほしくない”といった日本人の思いのようなものがあるに違いない。
スポーツと体罰、暴力の問題が根深いのは、指導者や選手のみならず、このように日本の社会がこれらを容認している背景にある。自分たちが育ってきた時代を肯定し、“あの時代があったから今がある”“あの厳しさが今の時代にも必要だ”という思考がある。そのうえ、日本のスポーツは、学校体育、部活動が主体となってきたため、体育とスポーツの棲み分けができていない。確かに、スポーツと教育は重なる部分があり、どちらも厳しさが必要であることも否定しない。しかしながら、分けて考えるべき部分があることを認識する必要がある。スポーツに体罰が必要ないことを説明するには、スポーツの価値や意味を理解することが鍵となる。
現在行われているオリンピック競技は全て近代スポーツと言われるもので、特徴として世界共通の統一したルールや用具で行われる。この近代スポーツの誕生は、議会制民主主義が行われ、力で戦う方法ではなく話し合いやルールに基づいて物事を決めていくようになったイギリスで産業革命が起きた時代にさかのぼる。様々な用具や物が工場で大量生産できるようになり、規格を揃えることが可能となって、スポーツの対抗戦を行える範囲がどんどん広がった。
一方で、新興貴族のブルジョワジーは子弟の教育にスポーツが有益であると考えるようになり、多くのエリートスクールでスポーツが取り入れられるようになった。彼らはいったい何をスポーツに求めたのか。それはゴルフ、ラグビー、テニス等、ヨーロッパ発祥のスポーツを見ればよくわかる。
例えば、ゴルフ。やったことがある人はわかるだろうが、基本的にセルフジャッジである。OBを叩いてコースを外れたら、自分で行ってショットを打つ。そこでの空振りやチョロを打数として申告するかどうかは本人次第である。ここから、エリートに求められるのは“誰かが見ているから”“誰かに言われたから”起こした行動や抑制ではなく、自らを律する力なのだという考え方が読み取れる。ラグビーはなぜボールを前に投げてはいけないのか。どうして、あのように投げにくいボールにしたのか。簡単には前に進めず、手順を踏んで、皆で力を合わせながら一歩一歩前に進んでいく。組織の勝利のための犠牲的な精神も重要だ。おそらく、ラグビーは社会の縮図なのだ。
そして、どちらのスポーツに共通するのは、試合場にコーチが入れないこと。試合になれば自ら判断し、決断する自立がなければならない。つまり、スポーツには『自律』と『自立』を求められ、学ぶことができるのである。これらは社会で生きていく上で必須であり、それらを学ぶことのできるスポーツが青少年には重要だという論理となる。
自ら考える力をつけさせることが指導者の役割
体罰を行う指導者の多くは「なぜ体罰をしたのか」という問いに「何度言っても言うことを聞かなかったから」「強くするためには必要なこと」などと回答する。確かに危険な行為を行った場合には厳しく叱責することも必要だとは思う。しかしながら、その場合、その生徒をその場から退場させれば済むことである。
サッカーにレッドカードがあるように、行ったことに対して責任、罰則が課せられることを学ぶのもスポーツである。殴って言うことを聞かせていると、次第にそれが習慣となって、殴られなければ言うことを聞かない人間が育っていってしまう。スポーツ現場には殴って軌道修正してくれる人がいるかもしれないが、社会に出たらそんな人はいない。自ら事の善し悪しを判断して行動をしなければならない。
スポーツに「・・たら、・・れば」はないと言われるが、現実はその連続である。柔道では技をかけるかどうか判断して決断、実行し、その技がうまく行かなかった場合は、なぜうまくいかなかったのか「・・・だったら、・・・れば」と検証、評価、反省して次の技につなげていくのだが、これらのことを瞬時に判断、決断することが求められる。試合時間は限られ、ときに勝敗は一瞬で決まるからである。柔道に限らず、こういった思考が早く適切に行えるのがトップアスリートに求められる資質の一部であろう。つまり、強くするため必要なのは、体罰ではない。「自ら考える力」であり、それを身につけさせるのが指導者の役割なのである。
そのために重要なのは、選手が考えなければいけない場面や、判断を迫られる場面で、どのように論理的な思考を展開すればよいのかを学べるよう、指導者が声かけをすることである。選手が行った一つのプレーの後に「なぜ?」と問いかけをする。このことによって選手は、多くのプレーの中で指導者がそのプレーに注目したのはなぜなのか、どこに問題であったのかを考え、気付きを得ていく。
この問答が積み重なっていくうちに、選手は指導者なしでも自問自答によって問題解決の糸口を見つけていけるように成長していくのである。その一方で、指導者は大きな大会を前に「私はこのプレッシャーのかかる舞台で戦い抜くだけの知恵と勇気を選手に授けることができたのだろうか。」という考えが頭をよぎる。手塩にかけた娘を嫁に出すような気持ちとでもいったらいいのだろうか。親であれ、指導者であれ、子どもを守ってあげたい気持ちがどんなに強くとも、どこかで独り立ちさせる時が必ず来る。そのときに自分の足でしっかり立って歩いていけるような手助けをしてあげるのが指導者の役目なのである。
体罰で育った選手は社会でも生き残れない
近年、スポーツはバブルとも言うべき盛り上がりを見せている。一般紙の一面をスポーツ記事が飾ったり、NHKのトップニュースにスポーツが報道されることも珍しくない。スポーツ選手の書いた本は、小説やビジネス本を凌ぐ勢いで売れている。その一方で、経営状態の悪化等を理由に歴史ある名門企業スポーツの休部や廃部が相次いでいる。
年間の運営費が負担になることも大きな理由だろうが、それ以上に企業の成長戦略の中でスポーツを支援していく明確な存在意義が示せないことに問題の核心がある。企業スポーツもかつてのスタイルとは大きく形を変えている。以前は社員として午前中は勤務し、午後を練習にあて、引退後は職場に戻って一般の社員と同様に終身雇用のケースが多かった。しかし、競技が高度化したことで選手はほぼフルタイムで強化に専念することが求められ、企業もその実態に合わせてなのか、選手活動期間中のみの契約社員として雇用するスタイルも増えている。選手を取り巻く環境は大きく変化しており、トップアスリートとして活躍した選手でも、引退後のセカンドキャリアを築くことが容易ではない時代になった。
このように、スポーツに熱狂する一方で、なぜ企業はアスリートを選手の間だけ雇用し、その後は放り出してしまうのだろうか。
少し前までは、「体育会出身者」というだけで就職が有利と言われた。今は、「体育会=勉強していない、即戦力にはならない」といったマイナスイメージもあるようだ。おそらく、前述したような以前の日本とは必要な人材に差が生じていることに要因はあるのだろう。我慢や献身的な労働が求められた時代には、厳しい訓練に耐えられる従順なスポーツ選手は有用であったが、現代社会ではそういった単純な人材は求められていないということなのだ。
スポーツの夢や目標は、金メダルのように明確で、物質的な豊かさを求めることに近い。しかしながら、社会に出れば金メダルという目標は消滅し、自らが目標設定をして誰に促されることも強要されることもなく、取り組んでいかなければならない。殴られても蹴られても、‘強くなる‘というたった一つの価値観に向かってひたすら進んできた人間が社会に出たとき、コーチも具体的な目標なしでやっていけるのか? 企業は利益を追求することに正直だ。トップアスリートが本当に有用で能力が高ければ引退後に手放すわけがないし、その会社が手放したとしても引く手数多のはずである。
IPS細胞の研究でノーベル賞を受賞した山中伸也教授はなぜあのような研究に取り組み、成果をあげることができたのか。80歳にしてエベレスト登頂に成功した三浦雄一郎さんの原動力は何なのだろうか。大きなことを成し遂げる人に共通しているのは、常識や慣習に囚われない自由でクリエイティブな発想と、「誰かにやらされて」やっているわけではないことだ。苦しいとき、辛いときこそ、自らの夢の実現であったり、未開の境地に達したいという、湧き出るような欲望があるから突き進んでいける。体罰に頼って作り出される人間は体罰によってしか動かない。そんな人間を社会は必要としていないことを指導者もスポーツ界も認識する時期にきている。
国際社会で活躍する人材を育てるために
「日本人がある競技で活躍するとルールを変えられてしまう」ということが一般的に良くいわれる。確かにヨーロッパ発祥のスポーツの場合には、彼らが勝つのが当たり前で、日本人やアジア人が勝つというのはルールが間違っているという発想があることは否定できない。
しかしながら、各競技団体の国際組織は独裁的に支配されているわけではない。各国の委員で構成された委員会での議論の上でルールの決定や変更が行われていることを忘れてはならない。もしも日本人に不利なルールが作られているとしたら、相手を責める前に、そういった議論の場に日本は適切な能力のある‘人‘を送り込んでいるのか、その人間が公の場できちんと自らの主張を展開しているのかということを検証する必要がある。
正直に言って柔道界では目上の人間に「はい」しか言わない人間が出世する印象が否めず、自分の意見を持ち、主張する議論好きの人間は遠くに追いやられていくのが現実だ。上層部に従順で「はい」しか言わない人間を養成して国際の舞台に出しても、その人に何が訴えられるのか。とつぜん、豹変して自分の意見を述べたり、活発な議論をすることはないだろう。
スポーツは今や指導者と選手だけが頑張ればよいのではなく、サポートスタッフ、組織力などが融合し、機能してこそ勝利を勝ち取ることができる。スポーツが国際舞台で結果を残すためには選手の国際競技力をあげることと、情報収集や国際組織の意思決定機関に人を配置する等の国際競争力が必要である。日本は国際競技力を高めることには熱心だが、国際競争力をつけるための人材の育成、養成は遅れていると言わざるを得ない。日本スポーツ界の上意下達の伝統を大切にしていては、残念ながら世界で通用する人物が発掘される可能性は低い。
さらに、組織のマネージメント能力もスポーツには不可欠である。スポーツにおいてルールが変わるということは、それまでの努力が無になってしまうリスクがある。柔道でも、昨年、歴史的にも大きなルールの改正があった。ヨーロッパ、ロシア系の選手を中心にタックルのように足を掬って投げる技が多く見られるようになり、レスリングと柔道の棲み分けがしにくいという理由から、帯から下の柔道衣を直接持つことが禁止された。
このルールが決まったとき、日本では“日本選手に有利か不利か”といった議論が起こった。しかし、問題の本質はそこではない。こういった大きなルール変更を事前に情報としてつかんでいたかどうかという、組織の情報マネジメント力にある。これができていれば、早い段階から強化に反映させるからだ。上下関係の中で従順であるだけではなく、このような能力を育成することも、今後の日本のスポーツ界の発展に大切である。
スポーツにおいて体罰や暴力が必要かという議論は、スポーツに何を求めるのか、目指すもの、目指すところの前提を合わせて話をしなければ議論が噛み合ないように思う。現場にいる指導者は目の前の生徒や選手を強くしてあげることが最大の目標であるかのごとき視野狭窄に陥ってしまう可能性があり、熱心な指導者ほど危ない。指導者自身が、ときにはスポーツだけではなく、顔を上げて社会を見渡してみて、スポーツに求められているものについて考えてみることが必要なのかもしれない。
(本稿は、「α-Synodos vol.125(2013/06/01) 『誰がための「暴力」か』(https://synodos.jp/a-synodos)」からの転載です。)
サムネイル「Judo Europameisterschaft」Bundeswehr-Fotos Wir.Dienen.Deutschland.
http://www.flickr.com/photos/augustinfotos/7703435644/
誰がために「暴力」か
「経済ニュースの基礎知識TOP5」片岡剛士
「読書、時々、映画日記」荻上チキ
「スポーツに暴力は必要か」山口香
プロフィール
山口香
昭和39年生まれ。小学校1年生から柔道を始め、4年生のときから男の子に混じって試合に出場。昭和53年、第1回全日本女子体重別選手権大会(50㎏級)に最年少(当時13歳)で優勝。以後、同大会10連覇(第3回以降は52㎏級)。世界選手権では、4個の銀メダルを獲得のほか、昭和59年第3回大会で、日本女子として初の金メダルを獲得。63年、ソウルオリンピックでは銅メダル。翌年に現役を引退。筑波大学女子柔道部監督、全日本柔道連盟女子強化コーチとして活動。シドニー五輪、アテネ五輪と2大会連続して日本チームのコーチを務めた。現在は、筑波大学大学院にて教鞭をとる傍ら、全国で「キッズじゅうどう」を開催し、柔道の普及発展に努めている。