2015.04.13
立ち止まることで、新たな世界が見えてくる――「当たり前」を問い直すこと
「哲学」と聞いて、みなさんはどのようなイメ―ジを思い浮かべるでしょうか。昔の偉い学者が、難しいことを長々と述べていると感じる方も多いかもしれません。しかし、哲学者の古田徹也先生は、哲学は当たり前と思っていたものについて改めて考える、「身近な学問」であると言います。果たして、その実態とは。今回の「高校生のための教養入門」では、難しいと思われがちな哲学を知る、そのきっかけを皆さんにお届けできればと思います。(聞き手・構成/若林良)
哲学とは「立ち止まる」学問
――古田先生が専門とされている哲学は、そもそもどのような学問なのでしょうか。
「立ち止まる」学問だと思います。立ち止まって、いままで当たり前と思って通り過ぎていたものを、いろんな角度から見つめ直すといいますか。
実際にちょっとやってみましょう。たとえば、ある人が車を運転していたとします。完璧な安全運転をしていたのですが、急に道に飛び出してきた子どもと衝突してしまった。どうやっても避けようがない不可抗力ではあったのですが、子どもは亡くなってしまい、その人は大きなショックを受け、責任を感じています。こんな時、友人であったらどのように声をかけると思いますか?
――たぶん「君のせいではない」と慰めると思います。
そうですね。それが普通だと思います。しかし、その慰めによってその人がすぐに、「うん、そうだね! 運が悪かっただけだし」とケロリと立ち直ったとしたらどうでしょうか。
――それはちょっと……「なんだこいつ」となるかもしれません。
だと思います。友人たちはその人に対して不信感を抱くでしょう。自分を責めないようにと勧め、相手がちゃんとその勧めに従ったのにもかかわらず、なぜこのようなことになるのでしょうか。感覚的にはなんとなく分かるのですが、なかなか説明はできない。たとえばこのような問いかけのもとに、哲学は成り立っています。
――哲学と他の学問には、どういった違いがあるのでしょうか。
哲学と他の学問とは、問い方の違いが存在するように思います。自然科学では、基本的に、自然のメカニズムがどうなっているのかを問います。たとえば、台風のメカニズムを解明してその進路を予測するとか、人体のメカニズムを解明して病気を治す、といったことです。
けれども、哲学の場合は違います。いまの交通事故の例では、「責任を感じる」とか「責任をとる」って結局どういうことなんだ、という問いが浮かび上がっていると言えるでしょう。それはつまり、「責任」という言葉の意味をわれわれはどう理解すべきなのか、という問いなんですね。同様に、たとえば「正義」であれば、そもそも「正義」とはどのような意味なのか、どのように理解すればいいのか、といったことを様々な視点から考え直すのが哲学の持つ役割です。
もう少し具体的に見てみましょう。たとえば、「信じている」という言葉。神の存在を信じていることと、これから雨が降ると信じていることとでは、同じ「信じている」でも、ずいぶん違うことであるように感じられます。では、そのふたつの信念の違いはいったい何だろうか。哲学ではたとえばそのように問うのですね。
つまり、「信念」や「責任」や「正義」等々の言葉によって、われわれはふだん何を理解していたのか。あるいは何を理解したつもりになって、この言葉を通り過ぎていたのか。われわれはこれらの言葉を普通に使ってはいるのですが、改めて考えると、よく分からなくなってくるわけですね。日常生活とかニュースなどでふだん耳にして理解しているはずなんだけど、ちょっとその中身を問い始めると、もやもやしてきてしまう。
もうひとつ、「幸福」という点から、哲学と他の学問の違いを見てみましょう。人間というのはしばしば幸福について考え、幸福を求める生き物です。そして、自然科学は、病気を治すメカニズムを探ることなどによって、「幸福になるにはどうすればいいか」ということを問うていると言えるかもしれない。それに対して哲学は、「そもそも、幸福とは何か」ということを考えるわけです。
たとえば、誰かが「あなたはこうすれば幸福になれます」と言ったときに、その人に対して、あなたの言う幸福とはそもそも何なのか、と問い直してみる。いままで通り過ぎていた言葉に、もう一度いろんな角度から注目したり目を向けたりする。そうやって「立ち止まる」ことが、哲学という学問の基本なのではないかと思います。
――前提を疑う、ということでしょうか。
そうですね、敢えて疑うという場合もあるでしょうし、すでにもう疑ってしまっている場合もあると思います。正義とか幸福ってなんかうさんくさいと、そういう風に引っ掛かっている人は多いと思うんですよ。そういう疑いや違和感のようなものがあるときに、それだけで終わらせずに、もっと粘って考えてみる。
つまり、「何が正義や幸福かなんて、人それぞれに違う」みたいな単純で無責任な見方で終わらせるのではなく、もっと食いさがるわけですね。自分が感じている違和感に蓋をしてやりすごすのではなく、その違和感の正体を探ろうと考え抜くのが哲学です。
繰り返すように、哲学の基本は「立ち止まる」ことです。けれども、難しい問題を前にして単に途方に暮れているだけでは、何も考えたことにはなりません。「立ち止まる」というのは、そこからもう一度歩き始めるための準備に他なりません。
たとえば、正義とは何かを問いなおし、よく考えて、自分なりの答えを手にする。そのとき、正義についての見方は、この言葉をぼんやり理解した気になっていただけの時とはかなり違っているはずです。そのように、いったん立ち止まり、自分たちが用いている言葉に対して明確な理解を得ることによってはじめて、正義に関して、あるいは他の重要なことがらに関して、われわれは力強く責任ある一歩を踏み出すことができるのではないでしょうか。
つかみどころのない問いを考えること
――古田先生と哲学との出会いも、そういった「立ち止まる」経験にあったのでしょうか。
そうですね。最初は中学生とか高校生のときで、「なぜ世界はあるんだろう」とか、「自分が見ている色と、他人の見ている色は同じなのだろうか」と、ふと思ったこともありました。
たとえば、いま目の前にあるお茶の色は緑色だ、ということはみんな同意すると思うんです。けれど、自分が見ている緑色の「この感じ」を、他人も同じように感じているのだろうかと。
でも、こうした問いはそれ自体、本当につかみどころがありません。自分が何を疑問に思っているのかも、よくつかめない。「なぜ世界はあるんだろう」という問いもそうです。だから、深刻に思い悩むということもなく、そういう問いが湧き出ても、「考えたってしょうがない」とやりすごしていた。でも、こういう問いから、いわば自分を支えているものが崩れるような、不安に近いものを感じていたことも確かです。
哲学という学問に出会ったのは、大学に入ってからです。授業のなかで先生が「こういう本がある」と哲学書の紹介をされていて、それでいくつか本を読んでみたんですね。そしてその中で、自分がかつて考えていたような問いが実際に扱われていることを知りました。
そのとき、一種の解放感のようなものを感じたんです。そういう「つかみどころのない問い」に蓋をしないでいいんだ、大真面目に取り上げていいんだ、という解放感です。中高生の頃は「考えたってしょうがない」と達観していたけど、そもそも考えてすらいなかったじゃないか、とも反省しました。過去の哲学者たちは、自分なんかよりもずっと粘り強く考え抜いていたんですね。哲学史上の「古典」と呼ばれる著作を読むと、そうした人々の姿を生き生きと体験することができました。
たとえば、いま申し上げた色に関する認識というのは、哲学における伝統的な問いのひとつです。また、なぜ世界はあるのだろうという問いも、昔から人間が考えてきたことなんですね。問いあぐねることを、いろんなやり方で問い続ける。それは人間がずっとやってきたことで、哲学という学問は、そうしたまさに人間の人間らしい部分を引き受けている。大学に入って、はじめてそのことを知りました。
また、哲学の本を読むことが単純に刺激的だったということもあります。大学生の頃は主にウィトゲンシュタインの『哲学探究』という本を読んでいたのですが、そこでは、自分がいままで疑問に思っていたことについて、思いもよらなかったような鋭い洞察がいろいろと書かれていたんですね。こんな風に考えられるのかと、強い衝撃を覚えました。
また、そうした箇所を読んで、自分なりにさらなる疑問も生まれてきます。そして、その疑問についての応答が、次の箇所ですぐ書かれていたりもする。つまり、ウィトゲンシュタインと擬似的な対話を繰り返すような読書ですね。それはウィトゲンシュタインの思考を追体験することでもあるし、自分自身で思考することでもある。そういう読書体験はそれまでなかったので、すごく新鮮で面白かったんです。
――なぜ、そのような哲学の本を手に取ろうと思ったんですか? もともと哲学には興味があったのでしょうか。
全く興味はありませんでした。それこそ、いきなり本屋でウィトゲンシュタインを手に取るようなことはありませんでしたよ。論理学の授業で紹介されていたのがきっかけです。
そして、その授業に出たのも偶然です。大学のクラスのなかで、その授業の試験対策用のプリントを作る係になったので、仕方なく頑張って出続けたんですね。で、ちゃんと聞いていると、だんだん面白くなっていった。そんな中、授業でウィトゲンシュタインが紹介されたりしたんです。
――まさに、偶然の出会いから興味を持たれたという。
そうです。具体的に哲学の内容を知り始めたおかげで、大学に入る前と後とでは、哲学に対するイメージは全然違ったものになりましたね。最初は、「ひげをたくわえたお偉いさんの名言」というイメージが強くて、むしろ反感の方を持っていました。でも、実際の中身を知ってみるとずいぶん違ったんですよ。
哲学者に「偉人」とか「天才」というのは、実はあんまりいない。むしろ、等身大の人間がいろいろと考えあぐねているんです。考えあぐねても何とかたどり着きたいと必死にもがき、かろうじて言葉にしたものが、古典となって読み継がれているんですね。だから、どうしても言葉足らずで読みにくい文章が多いし、その意味では確かに難しいと言えるけれど、そこで問われていることは本当は身近なものなんですよ。
なので、高校生や大学生の皆さんも、あまり怖がって敬遠せずに、プラトンでも、ヒュームでも、ニーチェでも、古典を気軽に手にとって読んでみてほしい。自分にとって意外なほど「分かる」本もあれば、ひたすらちんぷんかんぷんな本もあるでしょう。それは、文体の好みとか、自分が「立ち止まっている」ところとどれだけ近いかとか、いろいろな理由によります。だから、ひとつ読んで全然分からなくても、それで「哲学は苦手だ」と決めつけずに、いろいろな古典をつまみ食いしてみてください。必ず自分に合う本が、しっくりくる哲学者が、見つかると思います。
――哲学と出会う前は、どのような学問に興味があったのでしょうか。
もともと僕は消極的な人間で、何をしたらいいか全然分からなかったんです。先ほどの「立ち止まる」経験ともつながるんですけど、高校時代までは、意図せず立ち止まってばかり、つまずいてばかりでした。その根底には、自分が何をしたらいいか分からない、これからの一歩をどう踏み出したらいいのか分からないという不安というか、困惑があったんですね。
高校までは、やるべきことを先生が用意してくれますよね。目の前に与えられた課題をやればいいという形で、それで何とかやりすごせてはいたんですけど、あなたの夢は何ですかとか、進路を決めて下さいと言われた時に本当に困ってしまって……。だから、とりあえず学部や学科の選択をしなくていい大学に進みました。
具体的には、東京大学の文科三類という所にしたんですけど、そこは進路は基本的になんでもありで、モラトリアム(執行猶予)としては理想的だったわけですね。選択を先延ばしにするために、とりあえず選択肢が最も幅ひろい所を選んだという形でした。だから、本当に消極的な選択ですね(笑)。【次のページに続く】
考えるとは、誰かに向かうこと
――ウィトゲンシュタインの『哲学探究』を読まれて、それから研究者になるまではどのようなプロセスがあったのでしょうか。
これも消極的です(笑)。学部時代はウィトゲンシュタインをきっかけに、何人かの哲学者に興味を持って、彼らが書いた本を読みました。それはそれで面白かったんですが、最初は、学部を出たらちゃんと就職すべきだと思っていたんです。
でも、やはり「自分は何をしたらいいか」という問題が首をもたげました。どういう仕事をして、どういう所で働きたいかという「夢」なるものが相変わらず全然イメージできなかったんですね。
そこで迷ったんですが、まず卒業論文をしっかり書いてみようと。書いた後もう少しやるべきことがあると思ったら、大学院に進もうと考えました。逆に、これで区切りがついたと思えたり、あるいは全然駄目な論文しか書けなかったとしたら、留年して就職をしようと。
結果としては、卒論を書くのが意外と面白かったんですね。それから、まだちゃんと理解できていない問題や、読み込めていない本がたくさんあると実感しました。「もう少しやりたい」と思う部分があったこと、また、卒論を審査した先生方が論文を面白いと言ってくださったこともあって、修士課程に進むことを決めました。
修士に入ってからも、大体そんな感じですね。「やっぱり、就職して真っ当に働くべきだ」と思って(笑)、就活を行った時期もあったのですが、やはり修士論文を書き始めると、もう少しやりたいと思えてきて……。その繰り返しで、気が付いたら博士課程まで行っていました。博士まで行ったことによって、ようやく覚悟ができました。
また、大学院にいたあいだ、卒論にしろ、他の論文にしろ、面白いとほめてくださる先生が折々にぽつぽつといらっしゃったのも大きかったですね。そうでなければ、研究を続けようなどとは思えなかったと思います。自分にとって重要な先生、尊敬する先生にほめてもらうことで、自分にもやれることがあると、かろうじて思うことができた。だから、「ほめる」って、人生を左右するくらい大事なことですよ。
とはいえ、博士課程まで行っても、僕の意識のなかでは、「就活」というレールに乗れなかったことは大きな挫折でした。実際、その当時は少し落ち込んでいたんですね。自分は「かたぎ」の道から外れてしまった。真っ当な道を自分は歩めないのかと。
だから、最初から哲学に夢中になって一直線、という形ではまったくないんです。研究者の知り合いの方の中には、最初から脇目も振らず哲学一筋という方も多いのですが、自分の感覚からするとすごいなあ、と感じる部分が大きいんですよ。自分とはずいぶん違うなと。
――先生が哲学をずっと学ばれてきた中で得た教訓としては何があると思いますか。
たくさんありますが、たとえば、「頭の中でぐるぐる考えているだけでは、本当はほとんど考えてないんだ」ということでしょうか。つまり、実際に誰かの話を聞いたり、誰かの書いたものを読むこと。そして、自分が誰かに対して発言したり書いたりすること。そういう働きかけが不可欠だということですね。
誰かに質問したり相談する中で、「ああ、そういうことだったのか」というのが自分で見えてきたりする経験はないですか? そのように、「考える」というのは、基本的には誰かに向かうこと、誰かと一緒にすることだと思います。
それから、ものを書く時も、自分で書いたはずのものなのに、思いもよらなかった内容が出てきたりする。そういう時には、自分が書いたものと対話しているのではないでしょうか。
――そのように意外な思考が自分の中から出てくるというのは、自分が複数いるようで面白いですね。
そうですね。ウィトゲンシュタインは、「人がものを書いているときには、頭ではなく手で考えているんだ」ということを言っているんですけど、そのことをいまは深い実感を持って理解できます。喋っている時は、口やのどで考えている。書いている時は、手で考えている。その意味でも、誰かに向かって話したり書かないと駄目なんですね。
人生に必要な「哲学的姿勢」
――先生の、哲学に対するスタンスについてお聞きできればと思います。『それは私がしたことなのか――行為の哲学入門』は難解な哲学の概念をすごく分かりやすいたとえで伝えられている本でしたが、大学生をはじめとする若い世代や、あまり哲学に詳しくない人に対して「哲学の魅力を伝えていきたい」という思いはお持ちなのでしょうか。
そうですね、哲学にはそれ自体の魅力や楽しさもあるのですが、それ以前に、本当はみんなに切実に必要なものだと思っています。だから、できるだけ多くの人に、「ものごとを哲学的に考える」とはどういうことかを伝えたい、という思いがあります。
ただ、それを伝えるのは結構難しいんですね。というのも、哲学は、知識や概念の集まりであると同時に、ものを考える技術そのものでもあるからです。
「技術」というものを習得するためには、実際にやってみないといけませんよね。たとえば、「自転車の乗り方」という本をいくら読んで、いくら知識を詰め込んでも、自転車に乗れるわけではない。実際に自分で試行錯誤して漕ごうとしないといけないわけです。それと同じように、本当の意味で哲学を学ぶためには、自分自身で哲学をしようと試みないといけない。
なので、『それは私がしたことなのか――行為の哲学入門』では、ひとつの問題に対して僕自身がよたよたしながら考えあぐねて、なんとか答えにたどり着こうとするプロセスを一通りやってみせようと思いました。しかも、哲学にはじめて触れる人がそのプロセスを追体験できるように、たとえ話をたくさん出したり、細かい理論や立場はかなり省略したりしています。そうした専門的な話に行く前に、「哲学する」という営みの感触をまず体感してほしいと思ったんですね。
――哲学はどうして必要なのでしょうか。
「正義」とは何か、「幸福」とは何か、そうしたことを何らかえりみることなしに、正義や幸福の実現に向かってただ前のめりに突き進む――そういう社会や政治ほど恐ろしいものはありません。だから、社会全体にとっても、哲学というのは欠かすことができないと思います。
また、個人個人にとっても、哲学は本当に大事だと思うんですね。一回も立ち止まらずに、自分の人生をひたすらなめらかに、一直線に突っ走れる人など、まずいません。みんなどこかでつまずくときがあります。それは、自分の仕事にやりがいを見出せなくなったとか、仕事をクビになったとか、恋人と別れたとか、様々なことでありうるでしょう。いずれにせよ、それまで立ち止まったことがなく、自分のしていることの意味を問いなおすことがなかった人が、いきなりつまずいてしまうのは非常に危険です。そのまま途方に暮れ、意味を見失い、潰れてしまうことがある。哲学は、そうなってしまう前に「ほどよく立ち止まる」予行演習、つまずく訓練をすることだと捉えることもできます。それは、他の分野ではできない、すごく貴重な訓練だと思うんですよ。
そして、そのように「ほどよく立ち止まる」すべを身につけるためには、ある程度の時間が必要です。ひとつのものを多角的に見つめ直す視座というものは、一朝一夕に身につくようなものではありません。週1コマくらいでいいので、大学の4年間の中で、哲学を継続的に学んでほしい。繰り返すように、「哲学を学ぶ」というのは単に知識を身につけることじゃなくて、考える技術、考えるための姿勢を身につけることです。
正直言って、哲学はみんなが年がら年中やるようなものではないと思います。みんなが立ち止まってばかりいたら社会はまわりませんから。けれど、同時に、みんながおりにふれてやらなければならないものだとも強く思います。誰でも、ときおり、「責任」とか「信念」といった言葉について、あるいは自分自身について、あれこれ振り返ってみる機会が必要だと思うんです。
――これから大学に入る高校生に向けて、メッセージをお願いしてもよろしいでしょうか。
大学生活は、「すぐ役に立つ」とか「即効で使える」とか、そういう目先の実利的なことはいったん保留にできる、本当に貴重な機会です。だから、「時間を無駄にせず、一直線に将来への近道を通ろう」というのではなくて、まず手探りでいろんなものや人に触れてみるのが肝心です。
高校までの授業は、カリキュラムがかっちりと決まっていて、ある意味では基礎トレや筋トレをずっと続けてきたようなものですね。公式や英単語をたくさん覚えたり、たくさん問題を解いたり。それはそれでとても大事なんですけど、大学の授業では、もっと冒険してみてほしい。
具体的には、実用的な知識を得られる授業とか、ある学問の全体像を大雑把につかめる概論的な授業みたいなものだけではなくて、なんというか、細かい内容を扱っているマニアックな授業もどんどん受けてみてください。その授業を行っているのが第一線の研究者で、そのときその人が打ち込んでいる内容を熱意を込めて教えているのであれば、どんな分野の話でも、まず面白いと思います。僕自身も、大学時代で印象に残っている授業はすべてそういう授業でした。
だから、大学では、偶然に身をゆだねて、偶然を楽しむことをおすすめします。あらかじめ自分の向き不向きや好き嫌いを決めこんでしまうのではなく、一見興味がなさそうな授業でもいろいろ受けてみる。そして、そこで紹介された本をいろいろ読んでみる。そうやってはじめて、いままで自分にはなかった視点を得たり、自分が知らなかった世界の面白味を理解することができます。自分が夢中になれるような分野や、本や、人を、ぜひ大学の4年間で見つけてください。
哲学がわかる! 高校生におススメの3冊
現役の日本の哲学者が書いたもののなかで、おそらく最もスリリングな読書体験ができる本。にもかかわらず、哲学に関する専門的な知識はほとんど必要とせずに読める。人間の「心」とは何かという大きなテーマが、「他者」、「行為の意図」、「コミュニケーション」という小テーマごとに探究されている。巧みに問題を整理し、意外な答えを導いていくその鮮やかな筆致を追うことで、「哲学的にものを考える」ことの醍醐味を体得できる。
古今東西の哲学者に触れる前の、最初の導きとなるシリーズ。「早わかり」を目指す概説的なものではなく、核心的な問題に絞って紹介しているのが特徴。本ごとに方向性の違いはあるものの、多くの場合、古典からの引用がふんだんにちりばめられ、各哲学者の思考や文章の手触りを知ることができる。特にすすめたいのは、熊野純彦著『カント』と、頼住光子著『道元』。ちなみに、このシリーズの本の中には絶版になってしまっているものもあるが、それらも図書館に行けば比較的容易に手に取ることができるだろう。
哲学上の古典をやはり一冊紹介しておきたい。20世紀中頃に公刊された、いわば「最新の古典」だが、哲学のみならず、言語学、法学、政治学、心理学など、後代の学問全体への影響はすでに計り知れない。ただし、最初からこの本を読破できる人は誰もいないだろう。ちんぷんかんぷんな箇所は読み飛ばし、引っ掛かった文章をまずはゆっくり咀嚼していけばいい。読み方は読者の自由に任されている。なお、この本も全国の図書館に置いてあるので、借りるのは簡単だろう。
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プロフィール
古田徹也
新潟大学人文社会・教育科学系准教授。1979年熊本県生まれ。東京大学文学部(倫理学)卒業、同大学院人文社会系研究科(倫理学)博士課程修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員等を経て、現職。専門は哲学・倫理学。著書に、『それは私がしたことなのか――行為の哲学入門』(新曜社、2013年)ほか。訳書に、『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇――ケンブリッジ 1939年』(共訳、講談社学術文庫、2015年)ほか。