内集団ひいきの武士道vsウィン・ウィンの商人道──システム転換と倫理観のミスマッチ?

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コントロール幻想が内集団ひいきをもたらす

 

ところで、社会心理学や社会規範の進化理論の分野で、「内集団ひいき」と呼ばれる現象があります。これは、社会心理学者のヘンリー・タジフェルが行った「最小条件集団実験」と呼ばれる有名な実験で明らかにされたことです[*12]。

 

[*12] 以下この節の議論は、山岸俊男『心でっかちな日本人──集団主義文化という幻想』(日本経済新聞社、2002年)、139-162ページ。

 

この実験は、ごく短時間スクリーンにたくさんの黒点を写し、被験者各自にその数がいくつあったと思うか見積もってもらいます。そして、その見積もりが多い人と少ない人で分けたと称して、二グループに被験者を分けます(実はただランダムに分けただけ)。そうした上で、各自全員に、互いにわからないようにして、同じグループの人と別のグループの人におカネを振り分けてもらいます。そうすると、他のグループの人よりは自分のグループの人にたくさんおカネを分ける傾向が見られた結果になりました。

 

この実験のキモは、グループ分けに何の意味もないことです。住んでいる場所とか民族とか職業とか文化等々の特質は何もない。だから「最小条件集団」と呼んでいます。何の意味もなく分けられたグループであることを当人が重々分かっているにもかかわらず、自分が所属するグループをひいきする行動、「内集団ひいき」行動を多くの人がとったということで、この実験結果は衝撃をもって受け止められました。そしてこれ以降内集団ひいきをテーマにした数多くの研究が生み出されています。

 

そんな中で、山岸俊男さんたちは、このような内集団ひいき行動がとられる原因を明らかにする実験を行いました。

 

それは、タジフェルの実験同様に被験者を二グループに分けた上で、おカネをわける人と受け取る人を別にしたのです。おカネを分ける人は定額の実験報酬を受け取るだけです。対照実験として、タジフェル実験同様に全員がおカネを分ける人でも受け取る人でもある実験も行ったのですが、その場合はタジフェル実験と同じ結果が得られました。ところが、おカネを分ける人と受け取る人を別にした場合には、自分のグループの人にも他のグループの人にも、きっちり平等におカネをわける傾向が観察されたのです。

 

あとで、タジフェルのと同じ実験の方の被験者に、「自分のグループの人にたくさんおカネを分けると、自分も同じグループの人からおカネをたくさんわけてもらえると思ったか」と質問すると、「そう思った」と答えた人は、極端な内集団ひいきの分け方をしていた傾向にありました。それに対して、「そう思わなかった」と答えた人は、おカネの分け方に差がない傾向が見られました。

 

つまり、実際には互いにどんなおカネの分け方をしたかはわからないようにしているにもかかわらず、自分のグループの内部では、いいことをしたらお返ししてもらえるという「幻想」が働いたのが内集団ひいきの原因だったわけです。山岸さんはこれを、「コントロール幻想」と呼んでいます。

 

 

固定的人間関係であてはまる内集団ひいき

 

山岸さんのグループは、このことを明らかにするために、同様の最小条件集団実験を10種類以上行ったそうです[*13]。例えば、被験者に互いに匿名のペアを組ませて、相手のためにコストを払って協力しあう度合いを調べる実験では、各自とる手を互いに同時に決めるときには、内集団ひいきが観察されたのに対して、相手が協力したかどうかわかるように、順番をつけて、とる手を交代で決めるようにすると、内集団ひいきが観察されなくなりました。つまり、協力に対してお返しが期待できるかどうかについて、同じグループに属すかどうかという手がかりに頼らなくていいならば、内集団ひいきの行動をとらないということです。

 

[*13] 以下この節の議論は、同上書201-209ページ。

 

また、自分も相手も互いに同じグループに属していることが周知されているときには、内集団ひいき的な行動が観察されますが、自分は相手が同じグループであることを知っていても、相手が自分のことを同じグループの一員かどうかわからない状態では、内集団ひいきは観察されなくなります。つまり、自分と同じグループの人に対してひいきするのは、見返りが期待できると思うからであって、同胞に心から同情するせいではないということです。

 

固定的人間関係の中では、いいことをしても悪いことをしても集団内に知れ渡って、すぐ本人に返ってきます。でも固定的人間関係の外の人はそうではありません。親切にしてやったのにあだで返されても制裁できないし、相手の集団に我が名が知れ渡ってメリットが返ってくるわけでもありません。そしたら、特定の固定的人間関係の中に漬かって生きている人にとっては、協力によって自分にメリットが返るように、その人なりにコントロール可能な「ウチ」には厚く、コントロール不可能な「ソト」には冷たく振る舞うことが有利になります。このような状態に慣れると、「集団」と言えば、「内部者はコントロール可能」と発想する「思考のショートカット」ができてしまいます。そうすると、実際にはコントロールできないタジフェル実験のような状況でも、このショートカットが自動的に発動して、あたかもコントロールできるかのように思って内集団ひいき行動をとるというわけです。

 

 

内集団ひいきが完全協力を引き出すとき

 

タジフェルが内集団ひいきを取り上げた頃は、ことは自分の所属アイデンティティを高揚させたがる心理の問題のように思われていました。しかし、今日では多くの研究が、山岸さんの実験のように、広い意味での合理的な行動や機能から、内集団ひいきを説明するようになっています。

 

私にとって多少身近な領域は、社会規範の形成を生物進化のモデルを応用して分析する研究です。そこでは、人々の間の協力を安定的に維持するような社会規範は、「いい人に協力する人はいい人」「いい人を裏切る人は悪い人」「悪い人を裏切る人はいい人」という性質を持つことが明らかになっています。ただ、悪い人に協力する人に関しては、「いい人」とする規範も、「悪い人」とする規範も、ともに協力を安定的に維持できることがわかっています[*14]。

 

[*14] 巌佐庸「協力の進化:人間社会の制度を進化生物学からみて」(亀田達也編『社会の決まりはどのように決まるか』勁草書房、近刊)

 

この、悪い人に協力する人を「悪い人」とするタイプの社会規範は、これを扱った神取道宏さんにちなんで「カンドリ型」と呼ばれています[*15]。ただし、神取さん自身は決して、授業をさぼった学生と仲良くしていたら怒るような怖い先生ではないそうですので誤解のないようにして下さい(笑)。

 

[*15] 別名を”stern judging”と言う。

 

世の中が、このカンドリ型規範をそれぞれ共有するグループに分かれていた場合、内集団ひいきが強化されやすいことが示されています[*16]。他グループの誰かから自グループのメンバーが被害を受けたとき、加害者は自グループのメンバーみんなから「悪い人」認定されますが、相手のグループの中でその人が「いい人」とされるかぎり、相手グループの中で出会う人はその人に協力します。そうすると、こちら側のグループでは、その協力者たちや、その協力者たちと協力した人たちが、ことごとく「悪い人」と認定されるので、相手グループの人と出会うと多くの場合裏切ることになります。そうすると、今度はその人は相手グループから「悪い人」認定され、こちらのグループでその人と協力した人もみんな「悪い人」認定されるので、たちまちのうちに、自グループのメンバーはみんな「いい人」で、他グループのメンバーはみんな「悪い人」という状態にお互いに落ち着くことになります。

 

[*16] Nakamura, M. & Masuda, N., “Groupwise Information Sharing Promotes Ingroup Favoritism in Indirect Reciprocity,” BMC Evolutionary Biology, vol. 12: 213, 2012.

 

しかし、こんなことになると、集団の外との交渉が一切なくなってしまうので、集団を超えた協力関係がある場合と比べて、人々の厚生がみんな低下してしまいます。

 

そこで、外のグループのメンバーの評判については、一人一人の情報は手に入りにくいので、他のグループの誰か一人が自グループのメンバーに対してやった行いで、そのグループ全体に「いい」「悪い」とレッテル貼りしてしまう「グループ評判」と呼ばれる評価付けをすることにしたらどうなるでしょうか。一見、なおさら内集団ひいきが強化されそうです。たしかに、完全な内集団ひいきになってしまう均衡が存在します。しかしその一方、この場合、内外かかわらず、みんな完全に協力が維持されるケースも起こり得ます[*17]。

 

[*17] Masuda, N., “Ingroup Favoritism and Intergroup Cooperation under Indirect Reciprocity Based on Group Reputation,” Journal of Theoretical Biology, vol. 311, 8-18, 2012.

 

どうしてそうなるかというと、他グループの人に対して害を与えた者が出たら、そのせいで自グループのメンバー全員がそのグループから「悪い人」認定されて協力してもらえなくなるので、そいつは同胞みんなに迷惑をかけたとして自グループ内で「悪い人」認定されて仲間から協力されなくなるという仕組みがあり得ることになるからです。

 

私の乏しい歴史知識の中で思い出すと、日本の中世での「国質」「郷質」などと呼ばれている慣行がこの一例ですね[*18]。これは、よそ者が代金を踏み倒したりしたとき、そこにたまたまいる無関係の同郷者が捕まって、財産没収されて補償させられるという仕組みです。はなはだしいのでは、同郷者がそこで人を殺したせいで、何の関係もないのに殺されたりします。これは、日本だけではなくて、前近代には世界中いたるところで見られた仕組みのようで、マックス・ウェーバーも「一債務者、例えばジェノヴァあるいはピサの商人がフローレンスまたはフランスにおいて支払ができないか、または支払を欲しない場合には、彼の同国人が拘留せられるという制度」[*19]があったことを指摘しています。

 

[*18] 歴史はしろうとですので、日本語版ウィキペディアの参照でご容赦下さい。http://ja.wikipedia.org/wiki/質取行為

 

[*19] ウェーバー『一般社会経済史要論』下巻、(黒田巌、青山秀夫訳、岩波書店、1955年)、27ページ。以下本書の引用は漢字は現代常用漢字に変えてある。

 

この慣習は、共同体が内部メンバーをきっちり把握して統制できるかぎり効果的に機能するでしょう。自分の行為のせいで同胞にとばっちりをかけたなら、共同体内部で制裁を受けることが予想されるかぎり、みんな共同体の外に出かけても悪いことはできなくなりますから。

 

しかし、固定的人間関係の縛りがゆるんで、昔よりも匿名性、流動性が高くなってくると、この仕組みはうまく機能しなくなります。共同体の外で悪事をやったせいで同胞にとばっちりをかけても、もともとの悪事を誰がやったことか把握できず、制裁が効かなくなるからです。それなのにこんな仕組みが残っていると、罪がない者への復讐が復讐を呼んで、たちまち互いのグループを悪と認定しあって協力関係が途絶えることになります。なんとか関係が保てても、いつ身に覚えないことで身ぐるみはがされるかと思うと、恐ろしくて商売に出かけることができません。実際、江戸時代には、国質・郷質はスムーズな取引の妨げになるとして禁止になっています。

 

こんなあからさまな制度こそ禁止にはなっているものの、自分が見聞きした少数のひどいケースだけ取り上げて「だから○○人は」等々と、よそのグループの者全体のマイナス評価にしてしまい、関係ない人にまで連帯責任を負わせようとする志向は現代でも蔓延しています。一旦こんなことになると、各自ただ自分が不快な思いをしないように、不利益を被らないように、合理的に振る舞うだけで、グループどうし差別、敵視しあう均衡が固定してしまいます。松井彰彦さんが、それ自体は何の意味もない差別・偏見が、ゲーム理論の均衡として合理的に発生してしまうことを分析しています[*20]。これがなければ、全員がもっと厚生が高まるはずなのに、それが実現できないことになるのです。

 

[*20] 松井彰彦『慣習と規範の経済学──ゲーム理論からのメッセージ』(東洋経済新報社、2002年)、第16章、第17章。

 

 

対内道徳と対外道徳が正反対

 

さてそうすると、前回、固定的人間関係のシステムでは、身内を裏切ることは絶対の悪だが、よそ者はもともと危険視するので裏切っても悪とはされないと述べましたが、ここに内集団ひいきが重なるので、この傾向は倍加されることになります。

 

各自のなすべきことは、固定的人間関係の中の役割として、いくら自分にとってメリットが少ないと感じても勝手に降りられないものとして与えられています。だから、当事者たちの頭の中の理想像としては、私利私欲を交えない一方的な奉仕が、あるべき姿ということになります。現実にはそんなことはあり得ないのですが、肉親どうしが尽くしあうような姿勢が望ましいと意識されるわけです。

 

したがって、こういう人間関係の中にあっては、自己利益を交えた「取引」というものは、本来自分の集団内部の者とするべきものではないと意識されます。それは汚いものであって、だからこそもっぱら集団の外部の者とするべきものとされます。

 

そして、外部の者とする以上は、取引とは「食うか食われるか」であり、自己集団の利益のために正当化される汚れ仕事だと意識されます。集団内部へのひたむきさと、集団外部へのニヒルな利益追求の両極振り分けになるのです。

 

これについては、ウェーバーが非常に明瞭な整理をしています。

 

 

……一方においては、「同じ種族とか同じ氏族とかの仲間同志の間では、経済的交渉について如何なる自由も問題たりえない」という原則が完全に支配するように、親しい仲間同志の間では、たがいに原始的に厳重な拘束に服するところの、いわば対内経済Binnenwirtschaftがあり、他方においては、「相手が共同体の外の縁もゆかりもないものならば、どんな行為をとってもまったく差支えない」という態度があり、この二つの態度がまったく正反対のものであるにかかわらず、そのまま併存するという事実、これである。言葉をかえていうと、同じ共同体に属する仲間に対する道徳、すなわち対内道徳Binnenethikと、外部のものに対する道徳、すなわち対外道徳Außenethikとがまったく対称的であり、後者の対外道徳にもとづいて良心の呵責を知らぬ、絶対に無拘束なる金貸の行動がおこなわれるという事実である。……これに反してこの対内経済と対外経済との間の、また対内道徳と対外道徳との間のけじめを廃棄したこと、言いかえれば、対内経済の中に商人的生活態度das händlerische Prinzipが浸透したこと、さらにこういう基礎に立脚して労働が新しく組織されていること、これらの事実こそ西洋的資本主義の第二の特徴である[*21]。

 

[*21] ウェーバー前掲書170-171ページ。

 

いまの引用の最後で「西洋的資本主義」の特徴と言っているのは、流動的人間関係である市場システムの特徴です。ウェーバーがこれを書いた当時にあっては、市場システムが社会の全面を覆っていたのは西洋だけであると考えられていたわけです。

 

流動的人間関係の中では、取引自体が他人のためになされる善行であるとみなされます。他人の役にたつからこそ報酬を受け取る。取引当事者が双方ともにトクをするウィン・ウィンの関係なのであって、得の裏に損があるわけではありません。リカードの比較生産費説の示すことはまさにこの典型です。あらゆる点で優れた人と、あらゆる点で劣った人の間でも、互いに分業して取引することで共にトクをすることができるというわけです。

 

多くの人がこのような態度で取引に臨んでこそ、流動的人間関係はうまくまわることになります。固定的人間関係でふさわしかったような「食うか食われるか」の取引観で多くの人が取引をしていたら、流動的人間関係はたちまち社会システムとして正常に機能しなくなってしまいます。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

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