ケインズ復権とインフレ目標政策――「転換X」にのっとる政策その2

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ケインズ死後の「物価が下がらない」という解釈

 

さて、ケインズが、自分の登場以前の古典派や新古典派の経済学を批判した一番の論点は、彼らケインズ以前の主流派経済学は「セイ法則」を前提しているということでした。「セイ法則」というのは、モノやサービスを「売りたい」という額を全部合わせた「総供給」は、モノやサービスを「買いたい」という額を全部合わせた「総需要」と常に一致しているというものです(人々がみな収入をきっちり全部支出にまわすならばこうなります)。このときには、需要不足で売れ残るモノやサービスはあるかもしれませんが、その場合は別のモノやサービスが需要超過で品不足になっていて、全部合わせると相殺されます。

 

それに対してケインズは、全部のモノやサービスで需要が不足して供給よりも少なくなってしまうことがあり得ると言いました。働きたい人をみんな雇って「完全雇用」したときの総生産に比べて、総需要が不足しているならば、働きたいのに雇ってもらえない失業者が必ず生じて、そのまま経済が落ち着いてしまいます。

 

このとき、ケインズ以前の新古典派が言ったように、賃金(正確には「貨幣賃金率」)が下がったら企業がもうかると思って雇用を増やすかというと、そうはいきません。もともと売れる量が少ないわけですから、賃金が下がった分、自社の製品だけは売れるようにと、売値を下げる方に走ります。ところがライバル企業もみんな同じことをしますので、結局物価全体が貨幣賃金率と同じだけ下がって何ももうからないだけで、売り上げは増えません。

 

だから、そんなときには政府が総需要を増やす政策をとって失業者をなくすべきだということになったわけです。

 

戦後ケインズが死んでから、ケインズのこんな議論が成り立つ原因は、「貨幣賃金率が下がらないせいだ」という解釈が一般的になりました。これはおおまかには、「物価がなかなか下がらないせいだ」と言い換えてもかまいません。

 

これは、ケインズ以前の新古典派が「賃金が下がったら企業がもうかるようになって雇用を増やすはずだから、失業が減らないのは賃金が下がらないのが悪い」と言っていたことと似ているようでちょっと違います。賃金と物価が同率で下がっても、企業は直接には何ももうからないはずですが、それでも総需要が増えて雇用が増えるというのです。

 

モジリアーニという経済学者が言っていたのですが、物価が十分下がれば、同じ設備投資プロジェクトでも以前よりすくない資金ですみます。よっておカネを借りようとする力が弱くなって、金利が下がります。すると、新たにおカネを借りて設備投資しようとする企業が現われてきます。かくして、機械や工場建設資材が売れて、それが波及して総需要が拡大していきます。専門用語で言うと、「物価下落で実質貨幣供給が増えて利子率が下がって設備投資が増えて総需要が増える」と言うことです[*9]。

 

こういうルートがあることはケインズ自身も気づいていた[*10]ので、これは「ケインズ効果」と言われます。ですがケインズはこの効果はあまり効かないと思っていました[*11]。不況で誰もが他人におカネを貸すのを怖がっていたら、余ったおカネは全部自分で持っておこうとするので、いくらおカネが余っても金利が下がりません。これは「流動性のわな」と呼ばれます。このせいで、完全雇用に必要な総需要が設備投資などでおこってくるまで金利が下がるのが妨げられてしまうと、やっぱり失業が出たまま経済は落ち着いてしまいます。

 

だから、モジリアーニによれば、ケインズの話が成り立つのは、流動性のわなにあるか、さもなくば貨幣賃金率(一般物価水準)が下がらないかどちらかの場合だということになります。

 

それに対してパティンキンという人が、一般物価水準が十分下がったら、流動性のわなでも完全雇用になれると言いました[*12]。人々のもともと持っていたおカネでたくさんのモノやサービスが買えるようになるから、総需要が増えるというわけです。これを「ピグー効果」と言います。たしかに、賃金も売値も利潤額も何もかもみんな同じ率で下がれば、デノミと同じただの数字の読み替えですので人々の行動に何の影響もないはずですが、前から持ち越したおカネの額面だけは下がりません。その分は購買力が増して何か買おうという気になるでしょう。

 

この議論が決定版になって、総需要不足というケインズ理論の前提は、賃金や物価がなかなか下がらないことにあるという認識が一般的になりました。そして、ケインズ政策を唱える「ケインジアン」という人たちは、世の中賃金や物価が下がらないのは当り前と受け入れて、失業をなくすために積極的な総需要拡大政策をとるべきだと主張しました。

 

 

価格を硬直的と見るかどうかで陣営を分けた時代

 

以前見ましたとおり、1970年代のインフレ時代になって、フリードマンやサプライ・サイド派や合理的期待形成学派が反ケインジアンののろしをあげ、その流れを引く「新しい古典派」と呼ばれる経済学の立場が学会を制覇することになったわけですが、こっちはこっちで、やはり物価や賃金がなかなか下がらないと見るのがケインジアンの前提だと考えていました。そして、ちゃんと市場メカニズムにまかせれば賃金や物価は首尾よく下がって完全雇用は実現するんだと言って、その妨げになっているとされる経済規制や労働組合などを批判したわけです。

 

この時代、片や新しい古典派の背後には財界や保守政治家がひかえ、片やケインジアンは労働組合や左派・リベラル系の政治家をバックに、ガチンコの闘いが繰り広げられたわけですが、そのただ中では、物価や賃金の決まり方をどう見るかが「陣営」を分けるメルクマールになっていたように思います。ケインジアンの陣営では、需要が高いと価格が上がり、需要が低いと価格が下がるというような、ミクロ経済学の教科書みたいな見方をする奴らは、新しい古典派側の人間で財界の代弁者だと見るような傾向もあったように思います。

 

需要が高くなれば価格が上がるのは、生産を増やそうとしたらますますコストがかかるようになる場合ですから、ケインジアン側の論者はそれを否定して、コストは生産量に比例するので単位コストは一定だ、価格はそれに一定のマージンを上乗せして決まるのだと言ったりしました。単位コストが生産量によらず一定ということは、生産するために投入するモノや労働の組み合わせかたが固定しているということにもなります。だから、それらの組み合わせの技術がスムーズに切り替わると想定するのは、新古典派の市場万能論を支える間違った見方だともされました。

 

ついでに言えば、ケインジアンよりももっと激しく資本主義批判していたマルクス経済学では、「生産価格」と言って、生産量にかかわらず一定の単位コストに、「平均利潤」(どこの部門でも同じ率のもうけになる利潤)を足し上げた価格が成り立つとされています。これは本来、需要が高い部門では価格が上がって利潤率が高くなり、需要が低い部門では価格が下がって利潤率が低くなるので、利潤率の低い部門から高い部門へ商売替えする企業がたくさん現われて、利潤率の高かった部門の供給が増えて価格が下がり、利潤率の低かった部門の供給が減って価格が上がり、かくして利潤率がイコールに向かうという、長期的な市場調整の結果成り立つ話です。だから、マルクス本人の想定では、短期的には需要の変動で市場価格は上り下がりするとみなされていたのです。

 

ところがこの時代、マルクスの生産価格も、需要にかかわらず生産費だけで決まる話だからというわけで、ケインジアンの固定価格と同じものだとみなして「共闘」する誤解もあったようです。

 

[*9] Modigliani, F., “Liquidity Preference and the Theory of Interest and Money,” Econometrica, vol.12, 1944, pp. 45-88.

 

[*10] 全集前掲巻261ページ。

 

[*11] 同上書264ページ。

 

[*12] Patinkin, D., Money, Interest and Price, Evanston, Illinois, 1956, p.81.

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

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