2014.03.08

「財政政策に関する政策的・思想的・理論的課題」を巡る討論における、藤井からの再追加コメント

藤井聡 公共政策論、実践的人文社会科学研究

経済 #財政政策

当方が飯田氏のVOICE原稿に対して申し上げました討論について、飯田氏との間で重ねての討論を往復させていただいております[*1]。そしてこの度、飯田氏より、「再リプライ」を頂きました事、改めて御礼申し上げたいと存じます。

お陰様で、何度も飯田氏にお付き合いいただきます内に、論点が絞られてきたものと思います。

さて、この論争の論点は、以下の二つに絞られてきております。

第一の論点:平均的に民間は政府よりも合理的なのか?

第二の論点:一般に言われる「フロー効果」は無視すべきなのか?

以下、この二つについて、それぞれ再々コメント差し上げたいと思います。

[*1]討論の流れ

1.飯田氏より:月刊誌『Voice』3月号での連載「ニッポン新潮流」に関し、

2.藤井からの討論:http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/02/18/fujii-76/

3.飯田氏からのリプライ:https://synodos.jp/economy/7198

4.藤井からの追加コメント:https://synodos.jp/economy/7259

5.飯田氏からの再リプライ:https://synodos.jp/economy/7261

(1)平均的に民間は政府よりも政府よりも合理的なのか?

まず、第一の論点について、再々コメント差し上げます。

当方が、飯田氏の仮定として申し上げた二つをさらに正確なものとすべく、

(仮説1’)民間企業は平均的には、合理的な投資を行う。

(仮説2’)政府は平均的には、民間企業よりも非合理的な投資を行う。

と飯田氏が考えておいでであることを宣言いただき、その上で、この二つを擁護されました。

ここで、この論争がそもそも、当方からどういう「ツッコミ」ではじまったのかを確認致しましょう。

それは、次のようなものでした。

1.飯田氏が、「政府支出は、統計の泣き所だ」という言葉を使い、政府支出は無駄が多い、と言うことを示唆。

2.藤井が、その言い方は、「政府支出を過小評価しているのではないか?」、そして、「民間支出を過大評価しているのではないか?」と指摘。

3.飯田氏が、「いやいや、政民間は主観的価値説により、おおむね合理的だが、政府は非合理だ」と主張。

4.藤井がそれに対して、「その主観的価値説をベースにするなら、民間の不合理性は心理学上、明白だ。一方、政府は長期的合理性を確保しようとする意図があるのであり、政府が非合理だとは言えない」と反論。だから「政府支出は統計の泣き所だ」とはいえないのではないか、と指摘。

5.飯田氏が、「いやいや、私は、政府が常に不合理で、民間が常に合理亭だ、とはいっていない。平均的には、民間の方が政府よりも合理的なのだ、と主張しているにしか過ぎない」と指摘。

さて、ここまで話が及びますと、飯田氏は、今度はなぜ、(仮説1‘)(仮説2’)、簡潔に言うなら、「平均的には、民間の方が政府よりも合理的なのだ」と主張する根拠を示す必要がありますが、それは十分に示されていない様に思われます。

その理由は、以下です。

当方は、政府には政府の合理的になる根拠(政治プロセスで長期的合理性を確保しようとする意図がある等)があり、不合理的になる根拠(マーケットによる退出プロセスが無い等)がある、同様に、民間には民間の合理的になる根拠(マーケットによる退出プロセスがある等)があり、不合理になる根拠(長期プロセスがないがしろにされる傾向がある等)がある、と主張しているに過ぎません。

そして、飯田氏は、これに基本同意したということになろうかと思います。

だとすると、ここまでくれば、論理的には、

(藤井と飯田の官民合理性についての結論)

「民間が合理的であるケースもあれば、政府が合理的であるケースもある」

ということを認めざるを得ないのではないでしょうか?

つまり、当方の主張(心理学や社会的ジレンマ等の指摘)を認める以上、(仮説1’)(仮説2’)すら棄却し、

(藤井と飯田の官民合理性についての結論)

を認めることが、真理を追い求めて学究の徒となった者達の、誠実な態度なのではないかと、筆者には、思われてならないのであります!

例えば、社会的ジレンマ状況では、民間が短期的に合理的であればあるほどに、長期的にはカタストロフィーの危機が巨大化していきます(金融危機がその例です)。一方で、そういう状況を把握した政府が、適切な規制をかければ、そのカタストロフィーが回避されることは、往々にしてあり得るではありませんか。

そして、いずれのケースが多いのか、ということは、不確実性が高い社会では政府の合理性の方が優越したりする、といった形で、マクロな環境に依存するのであり、飯田氏のように(仮説1’)(仮説2’)を主張することは、困難となるのではないかと思われるのです。だからこそ、(藤井と飯田の官民合理性についての結論)に至らざるを得ないのではないかと、考える次第であります。

だとすると、飯田氏は、

「政府支出はGDPの泣き所」

「政府支出では、無駄が横行する」

というのみを指摘するのではなく、それらを指摘する場合には、

「民間支出においてもGDPの泣き所のケースがある」

「民間支出でも、無駄が横行する事が往々にしてある」

という事を主張しなければ、誠実な態度とは言い難くなる、ということになるのではないでしょうか?

なぜなら、政府支出の問題だけを指摘していれば、政府支出が過小評価され、最終的に国益が毀損することになるからであります。

以上、飯田氏、ならびに、読者の皆様方は、いかがご判断されますでしょうか?

(2)一般に言われる「フロー効果」は無視すべきなのか?

さて次に、第二の論点について、再々コメント差し上げます。

この議論のポイントは、飯田氏がおっしゃってられる、

β:10億円分の穴を掘って埋める工事を発注した

γ:定額給付金10億円を支給した

が同じかどうか、ということであります。この点について飯田氏は、

「10億円のうち、5億円が労働者に、3億円が重機のレンタル代に、1億円が事業主に、1億円が交通費に用いられるとしたならば、これは労働者に5億円、レンタル業者に3億円、事業主と運輸会社に各1億円の給付金を支給したのと同じことではないでしょうか。」

とおっしゃっています。

これは、一般的な学術用語である、公共事業のストック効果とフロー効果という言葉を用いるなら、公共事業のフロー効果は、「所得再分配の効果」以外は存在しない、という立場の議論です。

しかし、もしも、フロー効果がない(つまり、β=γだとするなら)、当方がhttps://synodos.jp/economy/7259/3にて指摘した、下記三点に対して、「YES」と言わなければならないはずです。

1)ひょっとしますと、我々は「無駄なモノ=ストック効果がゼロのモノが作られた場合、それが作られる際に投入された全ての付加価値はゼロである」という強い仮定を引き受けなければならないのでしょうか?

2)あるいは、JR山手線に乗っている人々を、無駄なものに従事している人々と、そうでない人々に分類し、後者の移動サービスだけが「価値」あるものであり、後者の移動サービスは「無価値である」という強い仮説を我々は引き受けなければならないのでしょうか?

3)さらにあるいは、仮に、受注した仕事が最終的には「無駄になる」とうい事が確定していたとしても、取引先から「来てくれ」と言われたら、やはり、その受注業者は、「目的地に行きたい」という(飯田氏がおっしゃる)主観的価値を形成する以上、その受注業者にJR山手線が提供する移動サービスは「価値がゼロ」であるとは言い難いのではないか、という論理を、我々は棄却しなければならないのでしょうか……?

なぜ、『「β=γ」というためには、上記1~3についてYESと言わなければならないのか』という点については、「経済学」について真面目に取り組んで来られた方ならば、必ずご理解いただけるものと、思えてなりません。

なぜなら、もう一度繰り返しますが、飯田氏のこれまでの言説には、以下の二つの仮定があるように思われるからです。

(飯田氏仮定1) 飯田氏は、「価値」をGDPに計上すべきである、と考えている。

(これは、飯田氏の「SNAの原則の一つが市場取引原則です。これは市場である商品が1万円で取引されたことが「少なくともその商品に1万円の価値があると思った人がいた」ことの証明になるという考え方に由来します。」という言説から直接示唆されています)

(飯田氏仮定2) そして、「価値」は「主観的価値」に由来する、と考えている。

(これは、飯田氏の「このような論理の前提となる主観価値説とその正当性については飯田(2012)または一般的な経済学のテキストを参照ください。そして、事後的にも市場価格が主観的な価値とおおむね一致するという点については、以下のように説明されます。」という言説から直接示唆されています)

そして、「この二つの仮定が正しい」という前提に立った上で、β=γである(つまり、フロー効果は所得分配効果以外にはない)、というためには、論理的に考えれば、1)、2)、3)に対してYESと言わなければならない、ということになるのです。

……ということを当方が前回の再コメントにおいて提示したにも拘わらず、

「10億円のうち、5億円が労働者に、3億円が重機のレンタル代に、1億円が事業主に、1億円が交通費に用いられるとしたならば、これは労働者に5億円、レンタル業者に3億円、事業主と運輸会社に各1億円の給付金を支給したのと同じことではないでしょうか。」

とおっしゃるというからには、当方には次の二つの可能性しか、論理的には考えれないように思います。

可能性1:当方の指摘が間違っている(つまり、論理学的に考えて、上記1、2,3の強い仮定を引き受けずとも、(飯田氏仮定1)と(飯田氏仮定2)の下でβ=γと断定する事が可能である、あるいは、飯田氏は、飯田氏仮定1と飯田氏仮定2を主張しているわけではない)

可能性2:飯田氏が、当方が申し上げている論理の構造を理解できていない。あるいは、理解しているが、その公言を回避している。

ついては、いずれの可能性が正しいのでしょうか?

なお、以上の議論が分かりづらい……という方のために、できるだけ簡潔に事の顛末を解説いたしたいと思います。

1.飯田氏が、「穴を掘って埋める事業をやっても、オカネを配るのと同じ」だと主張

2.藤井が、それは違う、と指摘。

3.飯田氏が、再度、「やはり同じだ」と主張。

4.藤井が、それでは答えになっていない、と指摘。そして、さらに詳しく、なぜ、同じにならないかを指摘。つまり、「飯田氏は、経済的価値は、主観からくる、と言っている。その仮説に従うなら、穴を掘って埋める事業でも、産業連関の中で、主観的価値を形成する人がいるのだから、経済的価値があるではないか」という「ツッコミ」を入れる

4.しかし、飯田氏は再度、「やはり同じだ」と主張。

5.これに対して、再度藤井が「それでは、全く答えになっていない。私は、なぜそれが答えになっていないかを、あなたの主観的価値仮説に基づいて説明しているではないか。ここまでくれば、私が間違っているか、あなたが間違っているかのいずれかだと思う。」と指摘。

なお、この5.の証明のポイントは、当方は「当方の論理」から出発しているのではなく、「飯田氏の論理」から出発して、飯田氏の主張を論駁している、と言う点です。当方が当方の論理から出発してβとγは違う事を主張するには、次で事足ります。

「最終的な目的はどうあれ、そこに電車に乗りたい、重機をリースしたい、と考える人がたくさんいれば、そこにはたくさんの仕事が生まれ、内需が拡大し、デフレ脱却へと繋がるではないですか!」

この言い方は、多くの理性ある方々の納得を引き出しうるものと思います。

いずれにしても、以上の解説を、ご判断される際の参考にしていただければと思います。

なお、繰り返しますが、β=γかどうかは、経済政策を考える上で、極めて重要な論点であるため、当方は徹底的に、この点にこだわっているのだ、という事を、再度、申し添えたいと思います。

実際、飯田氏は、

「私は「γ=βである」と信ずる政策担当者の方が経済厚生の観点で優れた政策を実施できると考えます。」

とおっしゃっています。

筆者には、なぜ、飯田氏がそう主張されるのか、残念ながら理解できません。なぜなら、筆者は(上記結論の理由として飯田氏が提示した)「δ:価値の高い公共事業ほど、経済厚生を大きく向上させる」という命題については、一切反対していないどころが、大いに賛同しているからです!(なお、筆者と飯田氏の相違は、筆者が、その「価値」は、フローとストックの双方を勘案すべきだということを、何度も何度も繰り返し主張している一方、この点については合意に至っていない、という点にあるものと思います)。

であるとするなら、「私は「γ=βである」と信ずる政策担当者の方が経済厚生の観点で優れた政策を実施できると考えます。」と飯田氏がおっしゃった今となっては、筆者は残念ながら、次の様に主張せざるを得ないのかもしれません。

すなわち、ストック効果とフロー効果の双方を見据えるのなら、「私は「γ=βである」と信ずる政策担当者の方が経済厚生の観点で優れた政策を実施できると考えます。」と考える論者のアドヴァイスが政策に反映されると、デフレ不況が脱却できる可能性が低減し、国益が大きく毀損する可能性が、増進してしまう───。

その理由は、上記の文章内容を理性的に理解される方々には、自明と感じられることを、当方は確信していますので、ここでは繰り返しません。

以上、飯田氏、そして読者の皆様方、いかがでしょうか?是非とも、ご検討ください。

最後に、本当論に重ねてお付き合いいただきました飯田氏、ならびに読者各位と、本稿を掲載いただいた関係者皆様方に、心より御礼、改めて申し上げたいと思います。

ありがとうございました。

追伸1:

当方が飯田氏の主張を、

「A)政府だけが無駄な投資をしているかのように論ずることは正当化し難いし、

B)民間が無駄な投資をしていないかのように論ずることも正当化し難いし、

C)「無駄な投資」が仮に(官民問わず)存在したとしても、それによって景況感は得られない」

ととりまとめたことについて、「これは全くの誤解です。私は文中でこのような限定的な主張は全くしておりません。」と主張しておられます。しかし、今回の討論は、そもそも、飯田氏の「政府支出はGDP統計の泣き所なのだ」という主張に対する、疑義を申し立てた所から発するものです。そしてこの発言は、A)、B)における「かのように論ずる」という主張そのものであると、筆者は認識しています。つまり筆者は、飯田氏が「政府だけが無駄な投資をしていると論じている」「民間が無駄な投資をしていないと論じている」とは、一切断じておらず「かの様に論じている」ことを批判している次第です。とりわけVOICEは、一般誌でありますのでそうした専門家側からのレトリックが極めて重大な意味を帯びることを危惧しての指摘であることをご理解いただければと思います。

追伸2:

ネット用語のスラングである「自宅警備事業」の定義については、ご解説、誠にありがとうございました(!)。

プロフィール

藤井聡公共政策論、実践的人文社会科学研究

1968年生。京都大学大学院教授、京都大学レジリエンス研究ユニット長、ならびに安倍内閣内閣官房参与(防災減災ニューディール担当)。京都大学卒業後、同大学助教授、東京工業大学教授等を経て現職。専門は公共政策論および実践的人文社会科学研究.日本行動計量学会林知己夫賞、日本学術振興会賞等受賞、文部科学大臣表彰等受賞多数。著書「大衆社会の処方箋~実学としての社会哲学」(北樹出版)、「プラグマティズムの作法」(技術評論社)、「社会的ジレンマの処方箋~都市・交通・環境問題のための心理学」(ナカニシヤ出版)、「列島強靭化論」(文春新書)、「土木計画学―公共選択の社会科学」(学芸出版社)など多数。

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