2015.03.26

ムスリムが西洋社会で直面する困難――よりよき統合のために何が必要か

辻康夫 政治思想・政治理論

国際 #ムスリム#イスラーム国

「イスラーム国」へ渡航する若者の報道や、フランスの週刊誌「シャルリー・エブド」の襲撃事件がきっかけになって、ヨーロッパにおけるムスリムの統合の問題が、あらためて関心をあつめている。「ヨーロッパで育ったムスリムの若者が、社会から疎外されるのはなぜなのか」。ムスリムのおかれた事情は、出身地の文化や、現在の居住国によって多様であり、一般的な議論は難しいが、本稿では、多くのムスリムの直面する困難と、それに対処する方法を理論的に整理してみたい。

ムスリムの直面する困難

ヨーロッパで生きるムスリムが直面する困難の第一は、「文化」の違いに起因するあつれきである。ムスリムの多くはアジア・アフリカ諸国からの移民とその子孫であるが、彼らの持ち込む文化やイスラームの規範と、西洋社会の規範はしばしば摩擦をおこす。この場合には、両者をすりあわせることが必要になる。一方でムスリムは、自由民主主義や人権の原理を受容する必要がある。他方で、主流社会の側は、これらの原理に反しない範囲で、ムスリムの文化慣行を尊重することが求められる。相互の対話を通じて、このような作業を積み重ねてゆくことが課題になるのである。

第二の困難は、ヨーロッパに存在する「差別と偏見」の構造である。ムスリム移民たちの多くは、移住した当初、社会の下層にくみこまれた。今日、社会的上昇をはたすムスリムも多いが、全体としてみれば、依然として社会経済的な格差が存在している。就職や社会生活における差別も残存している。意識のうえでも、非西洋系にたいする偏見はながい歴史がある。第二次大戦後、人種差別の根絶の取り組みが行われるようになったが、近年では、国際関係の緊張、テロ事件、移民・難民の増加などを背景に、状況の悪化もみられる。差別の克服のためには、いっそうの取り組みが不可欠なのである。

第三の困難は、社会からの「疎外」である。ムスリムの若者の多くは貧しい家庭に育ち、学校の中退率や失業率も高い。つまり学業や就業によって、社会とつながることが難しい。他方、出身国の文化にしたがう年長世代と、ヨーロッパ生まれの若者の間には断絶があり、若者は地域のムスリム・コミュニティからも疎外されやすい。この結果、一部の若者は非行や犯罪、ギャングの世界に入り込んでしまう。疎外の克服のためには、一方では若者の学業や就労を支援し、他方では若者と家族・コミュニティとの対話をうながし、つながりを再建するための支援が必要となる。

文化をこえる対話の課題

これらの困難はいずれも深刻であり、しかもこれらが絡みあうことで、解決がいっそう難しくなる。はじめに「文化」のあつれきの問題をとりあげよう。一般に非西洋系の移民は、保守的な慣行を持ちこむことが多いが、彼らは移住後にリベラルな価値観を身につけてゆくことを期待されている。ところがムスリムの場合には、出身国の慣行とイスラームの規範が結びついていることが多く、このため一部の移民は、保守的な慣習の放棄に抵抗を感じる。とりわけ重要なのが、女性の地位をめぐる問題であり、女性に対して厳格な性モラルを課し、社交を制限し、若年結婚と専業主婦業を奨励する慣習が望ましいかどうかが議論の対象となる。近年では女性の高等教育や社会参加も進みつつあるが、他方では、イスラームの遵守を強調して保守的な方向へ向かう運動もあり、この点をめぐっては、ムスリム・コミュニティの内部の意見は大きく分裂している。

ところでこの問題を論じるにあたっては、イスラームの規範の再解釈という課題をさけて通れないが、ここには「言論の自由」の制約という、第二の障害が存在している。ムスリムも「言論の自由」の一般的な価値を承認するが、これがイスラームの教義の解釈・批判に向けられる場合、それが学術的なものであっても、反発を感じる人が多いのである。また、多くのムスリムには、他の宗教を理解し、対話する志向が弱いとされる。あらゆる宗教は自らの優越性を主張するから、これらの問題はどの宗教にも存在するのであるが、ムスリムにおいては、とくにこうした傾向がつよいことが指摘される。

対話を妨げる原因は主流社会の文化にも存在する。世俗性の強い西ヨーロッパ諸国の文化環境には、宗教一般への不信感が存在する。民族差別を批判するリベラルな知識人も、ムスリムの宗教的なニーズに対しては強い共感を示さないのである。このためムスリムは自己の文化を防衛する必要を強く感じることになる。この点は「ラシュディ事件」(1988年)以来、くり返し指摘されてきたことである。イスラームをパロディ化したラシュディの小説に対して、多くのムスリムが抗議の声を上げたが、リベラルな知識人の多くは、作品の創造性・芸術性を称賛し、これを「言論の自由」として擁護する一方で、これに抗議するムスリムを「不寛容」として批判したのである。本来、イスラームにかぎらず、「宗教的感情」と「表現の自由」の間には緊張関係があり、両者のバランスを考えることが必要なのだが、こうした事情を主流社会が理解しようとしないかぎり、両者の対話の困難は持続すると考えられる。

「批判」と「侮辱」のあいだ

「差別と偏見」が存在することも対話を難しくしている。一般に、ことなる文化の理解のためには、相互の批判や討論も必要である。こうした理解に立って、ヨーロッパのリベラルな知識人の多くは、「人への侮辱」と、「思想・信条への批判」を明確に区別したうえで、「ムスリムへの侮辱」を戒める一方で、「イスラームへの批判」の自由を擁護する。しかしながら、「差別と偏見」が蔓延する状況においては、このような二分法がつねに適切であるとはかぎらない。ある思想・信条が特定の集団のアイデンティティの中核になっているとき、「思想・信条」への批判は、容易に、「集団への侮辱」に転化するからである。

実際のところ、イスラームに対して向けられる批判は、思想への批判にとどまらず、それを信奉するムスリムへの露骨な侮蔑を伴っていることが多い。たとえば「ラシュディ事件」においても、多くのムスリムが問題にしたのは、涜神のもたらす宗教的な苦痛よりも、ムスリムが集団として受けた侮辱である。ラシュディの著作は、西洋人がムスリムを侮辱するために用いてきた表現をそのまま使用しており、ムスリムにとって容認できるものではなかった。主流派はこれを言論の自由として擁護するばかりか、これに抗議するムスリムに対して侮蔑的なことばを浴びせかけた。リベラルな知識人も、宗教一般への不信感のゆえに、こうした侮蔑を黙認する態度をとったのである。

さらに主流社会は諸宗教を扱う際に、ダブル・スタンダードを用いていることが指摘される。キリスト教徒やユダヤ教徒の抗議によって、小説の出版や映画の上映が妨げられる事例は多数存在するが、これに対して主流社会はさしたる批判を行わない。ムスリムの抗議に対しては、激しい非難を浴びせる。ここには社会内の力関係と、ムスリムへの偏見が現れているのである。このような状況においては、ムスリムはその思想・信条を、批判に対して断固として擁護する必要に迫られるのである。イスラームをめぐる批判や討論が成果をあげるためには、まずはその前提として、社会に蔓延する差別・偏見をおさえ、相互を尊重する環境を整えることが必要なのである。

疎外による急進化

対話の困難は、若者の「疎外」の観点からもとらえる必要がある。ムスリムの若者の多くは学業・職業を通じて社会に参加するごとができず、他方で、ローカルなコミュニティからも疎外されている。イスラームはこうした状況において、アイデンティティを支え、退廃から逃れるために利用できる数少ない資源のひとつである。こうして高学歴の若者のなかには、親の世代の慣習的なイスラームに甘んじずに、洗練されたイスラームを自覚的に学ぶ者も多い。彼らはその脆弱なアイデンティティを守るために、イスラームへの強いコミットメントにこだわる。このため彼らは西洋的制度との妥協をこばみ、その価値観は親世代より反西洋的になる傾向がある。さらに世界のムスリムと連帯することで、アイデンティティを支えようとする。こうして、主流社会との対話は一層困難になる。人間は通常、複数の世界に所属し、これによって特定のアイデンティティが先鋭化することが防がれる。これに対して、これらの若者においては、アイデンティティ形成がもっぱらムスリムであることを中心に行われるため、バランスが失われやすいのである。

国際関係の影響

西洋諸国による中東への軍事攻撃や、イスラーム過激派によるテロの発生は、これらの困難をいっそう悪化させた。西洋諸国による攻撃や介入は、結果として中東地域の秩序を崩壊させ、多くの犠牲者を生みつづけている。他方において、西洋諸国に住むムスリムは、悪化する偏見にさらされ、自国への忠誠を疑われ、自国の戦争行為を明確に支持することを要求される。このようにして生じる義憤や疎外感、中東のムスリムへの共感が、一部の若者を過激な運動に向かわせる。グローバル化の進んだ現代において、政府が他国を「悪魔化」したり、他国のひとびとの痛みを無視したりすれば、それはただちに国内の統合に悪影響を与える。政策担当者はこの事実をあらためて認識する必要がある。

このように、ムスリムの統合の問題は、複合的な原因によって生じており、改善のためには、それぞれの要因に対処する政策を適切に行う必要がある。実際、各国はこれまで政策実践を積み重ね、一定の成果をあげてきた。今日、ヨーロッパでは、状況が改善しないことへのいらだちや、反移民感情の高まりのなかで、より強圧的な「統合」を求める声が生じているが、こうした転換はむしろ問題を悪化させることが危惧される。それは「文化」の相互理解を妨げ、敵対と急進化を引きおこす可能性がつよく、また「差別・偏見」と「疎外感」はいっそう深刻になるであろう。いま求められているのは、問題を適切に理解し、ねばり強い取り組みを続けることであろう。

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プロフィール

辻康夫政治思想・政治理論

1963年生まれ。北海道大学大学院法学研究科・教授。専門は政治思想・政治理論。主な論文に「多文化主義と宗教的マイノリティ:ムスリムの統合の問題をめぐって」日本政治学会編『宗教と政治』、「多文化主義をめぐる論争と展望:カナダを中心に」日本移民学会編『移民研究と多文化共生』、「宗教的なるものと社会的つながり」宇野重規編『つながる』、などがある。

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