2021.11.30

食は都市の問題でもある――食農倫理と環境倫理との対話

太田和彦×吉永明弘

社会 #環境倫理学のフロンティア

食農倫理学の長い旅 〈食べる〉のどこに倫理はあるのか

ポール・B・トンプソン / 太田 和彦(翻訳)

シリーズ「環境倫理学のフロンティア」では、環境倫理学の隣接分野の研究者との対話を行います。今回は「食農倫理学×環境倫理学」として、ポール・B・トンプソン『食農倫理学の長い旅』(勁草書房、2021年)の翻訳者である太田和彦さんと対話を行います。太田さんは、同じトンプソンの『〈土〉という精神』(農林統計出版、2017年)の翻訳者でもあり、これらによって日本に食農倫理学が本格的に導入されたといえます。今回は、これらの内容をご紹介いただくとともに、日本における食農倫理学の意義についてお話しいただきます。

吉永 じつは今回の対話を「環境倫理学の隣接分野の研究者との対話」とするのは少し問題があります。というのも、太田さんはもともと環境倫理学の研究者であり、とくに環境プラグマティズムについてはかなり詳しいのです。さらに、アメリカの食農倫理学の第一人者であるポール・B・トンプソンも環境倫理学者でもあり、『環境プラグマティズム』(邦訳タイトルは『哲学は環境問題に使えるのか:環境プラグマティズムの挑戦』慶應義塾大学出版会、2020年)のなかにも彼の論文が収録されています。したがって食農倫理学は環境倫理学から分岐したともいえるし、内容も環境倫理学と重なる部分があるのです。しかし、動物倫理学がそうであったのと同様に、食農倫理学も独自に展開されていく可能性があるので、思い切って隣接分野と位置づけたわけです。このあたりいかがですか。

太田 ありがとうございます。吉永さんがご指摘されたとおり、「食農倫理学」(food ethics)については、環境倫理学の一部として話すこともできるし、異なる点について強調して話すこともできると思います。日本では、とくに里山論などで、食と農の話題は環境保全と親和的なものとして語られることが比較的多いと思うので、ここでは簡単に、環境倫理学と食農倫理学の違いについてまとめたいと思います。

まず、1990年代半ばまで(つまり吉永さんが挙げた『環境プラグマティズム』が刊行された頃まで)、北米の環境倫理学者は、農業にはあまり着目してきませんでした。より正確にいえば、北米の環境倫理学者の農業への関心は、かなり限定的なものだったのです。1990年代までの学術誌を調べると、たとえば、農家に殺虫剤や遺伝子操作された種子の使用をやめさせることであるとか、家畜の飼育を廃止して菜食主義を普及させるというトピックなどは、環境倫理学者の関心を引いてきたことがわかりますが、そもそも農業への言及そのものがほとんどありません。

さらに言えば、農業従事者をはじめ、フードシステム[図1を参照]に関わるさまざまな職種(流通業者、小売業者、行政部署の担当者、農業化学者など)がどのような現状認識と課題関心のもとで活動しているかについての考察も見られません。1990年代まで、環境倫理学者の主な関心は、動植物への権利の拡張、あるいは人間非中心主義的で包括的な価値体系の樹立にありました。農業への関心は、その主流からはずいぶん離れていたようなのです。

図1:フードシステムの模式図

環境倫理学に隣接する諸分野を見てみると、この「農業の軽視」は、環境倫理学に特有の状況であるともいえます。たとえば、環境歴史学(人間の集団の諸活動や文化的習慣が環境にどのような影響を与えてきたか・与えられてきたかを調査する分野)では、1970年代からドナルド・オースターらが、食料流通網の拡大や農業の機械化、農業従事者の生活や価値観の移り変わりなどが環境に与える影響について検討をはじめていました。これらの分野で蓄積されていた、農業と環境についての広範な知識と考察を、食農倫理学は受け継いでいます。

吉永 なるほど、環境倫理学と食農倫理学の違いが分かってきました。太田さんもトンプソンさんも環境倫理学から出発して食農倫理学を標榜するに至ったわけですが、そのあたりの経緯についてお話しいただけますか。

太田 トンプソンは、もともとジョン・デューイに関心のある環境倫理学の研究者で、より実践的なテーマとしては、原子力技術のリスク評価に関わっていたそうです。食と農に関心を持つようになったきっかけは、1980年に赴任したテキサスA&M大学で担当したコースが「倫理と農業」だったことで、その関心が深まったのは、それまで原子力に関して研究してきた哲学的問題の多くが、農作物や家畜への遺伝子導入技術についての議論に通底することに気がついたからだそうです。(※詳細は、『アグラリアンの洞察』(未邦訳)にて)

キャリアの中盤になって食と農に関心を持つようになった研究者は、じつはトンプソン以外にも少なからずいます。『食農倫理学百科事典』(未邦訳)の著者リストを見ると、1990年代から食農倫理学を牽引してきた研究者の多くが、もともとは、技術哲学、リスク論、地域計画、環境正義、ジェンダー、労働問題などに取り組んでいたことがわかります。

このような研究者たちが食の問題に注目するようになったきっかけを一括りに語ることはできないと思いますが、少なくとも2000年代前半に、食と農が抱える問題を活写したフード・ドキュメンタリーの著作が大人気を博したこと――たとえば、エリック・シュローサーの『ファストフードが世界を食いつくす』(2001年刊行)、マリオン・ネスルの『フード・ポリティクス:肥満社会と食品産業』(2002年刊行)、マイケル・ポーランの『雑食動物のジレンマ』(2006年刊行)など――は、大きな追い風になったと思います。いまでこそ、「環境負荷も搾取も少ない、倫理に適うような食と農のあり方とはどういうものか?」という問いは、アメリカにおいて多くの人々に共有されていますが、このような問題提起にこれらのベストセラーが果たした功績は大きいでしょう。

日本でも、上述の3作品をはじめ、主要なフード・ドキュメンタリーの著作が邦訳・刊行されています。私は2000年代に農学部の大学生・大学院生だったのですが、当時、食と農に関する国内外の文献やドキュメンタリー映画が次々と公開されていたのは興味深かったです。これらの資料にご関心のある方は、安井大輔編『フードスタディーズ・ガイドブック』(ナカニシヤ出版、2019年)などをご参照下さい。ただ、残念ながら、食と農が抱える問題を哲学的・倫理学的に検討する食農倫理学の著作は、日本ではまだほとんど紹介されていません。

吉永 なるほど、それで今年の3月に、トンプソンのFrom Field to Fork(邦題:『食農倫理学への長い旅』)を訳出されたわけですね。この本の概要と読みどころを簡単にご紹介いただけますか。

太田 なんといっても、食農倫理学への包括的な入門書であると同時に、それぞれ異なる問題関心を持つ人々のあいだの対話の場を作ろうとするトンプソンの筆致が本書の読みどころだと思います。「それぞれ異なる問題関心を持つ人々のあいだの対話の場を作る」ことは、トンプソンの最初期の著作から一貫して見られる姿勢です。遺伝子組換え作物やベジタリアニズムなどの物議を醸しているテーマに関して、「対話の場を作る」ための分析を行うことの社会的意義については、『食農倫理学の長い旅』が北米社会哲学協会の選定する「ブック・オブ・ザ・イヤー」を受賞していることからも察せられると思います。

本書で扱われるトピックは、食が社会と環境に与える影響(1章)、社会的不公正(2章)、肥満(3章)、飢餓や貧困の解消への取り組み(4章)、動物福祉や菜食主義(5章)、持続可能な食のあり方(6章)、遺伝子組み換え食品の是非とリスクコミュニケーション(7、8章)です。

本書の読みどころは、それぞれのトピックを扱う際に、トンプソンが“良い食”と“良くない食”に線引きをすることを徹底的に避け続けるところにあります。一般的に、“良い食”といえば、栄養価が高く、オーガニックで、ナチュラルで、ローカルで、スローで、持続可能性と動物福祉に配慮した、社会と健康と生態系に悪影響を与えない食べ物というキーワードが想像されることと思います。逆に“良くない食”は、栄養価が低く脂肪と糖質と添加物にまみれ、工業的で、ファストで、アンフェアで、不衛生で、違法就労と資源の浪費によって成り立つ、社会と健康と生態系を害する食べ物、というイメージですね。

このように“良い食”と“良くない食”を線引きして、“良い食”を選び、“良くない食”を避ける、という話であればとてもわかりやすいのですが、そう簡単にはいきません。フードシステムは、多くの人々によって担われ、その複雑さによって成り立っています。そのため、食農倫理学が引き受けなければならないのは現場の複雑さであると、トンプソンは述べています。たとえば、『食農倫理学の長い旅』の冒頭では、次のような事例が紹介されています。

〔事例①〕ある学生Aは、大学でミールパス[学生の欠食を防ぐための定額券]を利用しているが、ベジタリアンであるため、おやつとして受け取ることができるスナックや菓子パンなどの加工食品を自分で食べることはない。そこで、同じくベジタリアンの友人と共に、おやつの割り当て分の食品を地元のフードバンクに寄付する取り組みを始めた。このような食品はフードバンクの利用者にも人気があるので、フードバンク側も歓迎しており、一見誰にとっても良い行いのように見える。しかし、学生A には、ある戸惑いがあった。自分では口にしたいとも思わない不健康なジャンクフードを寄付することは、果たして倫理的に正しい行いなのだろうか? フードバンクの利用者が、このような加工食品ばかりを好んで食べるのではないかと心配すること自体が、大きなお世話なのかもしれないが…。

〔事例②〕 豚肉生産を産業の柱としているある地方の市議会議員Bは、先日、養豚業者から次のような話を聞かされた。近所の養豚場で雇われていた大学生が、動物愛護運動家の仲間と共に、その養豚場で豚を虐待しているという動画を撮影し、YouTubeで拡散させてしまった。その養豚業者によれば、それは酒に酔ったスタッフが学生にそそのかされて悪ふざけで撮った偽の動画だと言うのだが、その動画のせいで、その地域の養豚場全体で日常的に虐待が起きているかのようなイメージが広まり、製品へのボイコットにまで発展している。養豚業者らはBに、Ag-gag法[畜産場で許可なく撮影することや、入手した画像や動画の配布や複製を取りしまる法律]の可決に賛成して欲しいと要求している。しかし、Bは迷っている。件の動画の真偽は確かめようがない。このような動画で、この地方の産業に打撃を受けることは避けたいが、虐待に関する画像や動画の公開を制限することは、動物愛護団体の活動を無闇に抑制することにもつながってしまう…。

このような、個々の現場の複雑さを前にしたときに、どのように推論と議論を進め、より良い判断にたどり着くかをトンプソンは各章で実演しています。これは、食と農の抱える問題について多少でも知識のある人にとってはとても面白いと思います。一方で、食農倫理学のトピックに馴染みのない方にとっては、ある程度の前提を頭に入れておく必要があるかもしれません。食と農が抱えている問題について、この記事で興味を待たれた方は、ロナルド・サンドラーの『食物倫理入門』(ナカニシヤ出版、2019年)や、私の所属していたプロジェクトで発刊した『みんなで作る「いただきます」』(昭和堂、2021年)をお読みいただけると良いかと思います。

吉永 ありがとうございます。私には5・6・7章の内容が興味深いものでした。5章は動物倫理学の議論に一石を投じていますね。野生(本能)の残酷さをどう考えるのか、というのは大きな論点です。6章は環境倫理学や風土論にも関わり、本書の中心的な章だと思いました。農業には他の産業にはない特別な要素がある、という理解があるからこそ、食農倫理学が成り立つわけですね。それがなければ環境倫理学でいいわけですから。7章では、STSでさかんに論じられていた遺伝子組み換え論争に、緑の革命をわりあい肯定的に評価する側からコメントされていて、批判もあるでしょうけれども、これはこれで興味深いものでした。このように、動物倫理学や風土論、STSとも関連があるので、幅広く読まれてほしい本だと思いました。

さて、ここまでは北米の環境倫理学と食農倫理学の関係についてお聞きしてきましたが、ここで日本の環境倫理学との関係についてお話しいただければと思います。北米の環境倫理学では、農業は環境破壊産業のような位置づけもなされています。土地を開墾することによって森林を減少させるし、劣化した農地が放棄されることもあるからです。それに対して、日本には「里山の環境倫理」という議論があります。農業には多面的機能があり、里山は生物多様性が豊かな場であり、かつ人と自然が共生している場であるとして積極的に評価されています。このように、環境倫理学のなかでも農業の評価は多様です。このあたりについてはどのようにお考えでしょうか。

太田 そもそも一口に「農業」と言っても、日本とアメリカでは前提としている農業そのものの実態が大きく異なっています。アメリカで一般的にイメージされる農業と言えば、地平線まで広がるトウモロコシ畑やジャガイモ畑のような、大規模・少品目の農場の光景でしょう。ロッキー山脈の東側に広がっていた見渡す限りの大草原を開拓して作られた広大な農場です。その一方で、日本でイメージされる農業と言えば、吉永さんがお話されたような里山に代表される小規模・多品目の農業や、水田のある風景でしょう(もちろん、じっさいにはアメリカでも小規模の農業や畜産は盛んに行われていますし、日本でも北海道をはじめ単一品種の大規模農業はなされています)。

重要なのは、「農業」という言葉で一括りにして語ることはできない、ということです。同じ農法でも、その土地の生態系や、コミュニティの状況との関連の中で評価されるべきであって、どのような現場を想定するかによって内容が大きく変わるのではないかと思います。

この「農業を一括りに語ることはできない」という前提をふまえたうえで、状況を整理するために、私は〈工業としての農業〉と〈造園としての農業〉という補助線を引くことを考えています。〈工業としての農業〉のイメージは、工場としての農地に必要な資材を投下し、それを製品として出荷していくのが農業であるというものです。このような農業では、農薬と化学肥料の使用を前提として、単一の品種だけを育てる場合がほとんどです。

これと対になっているのが、〈造園としての農業〉です。農地にはトウモロコシなどの換金作物だけでなく、害虫避けの強いにおいを発する植物や、受粉に必要な益虫を呼びよせる花を一緒に植えたりします。他にも、日差しや風の強い畑では、日陰を作ったり風を防いでくれる低木を一緒に育てたりもします。つまり、その土地の自然と協働する形で、さまざまな植物を育て、「食べられる庭」を作るのが農業であるというイメージです。アグロエコロジーや有機農業、環境再生可能型農業、パーマカルチャー、自然農法などがその実践例としてあげられます。

〈工業としての農業〉と〈造園としての農業〉のどちらにも、長所と短所があります。当然ですが、人間にとっての短期的な生産効率は、〈工業としての農業〉の方が間違いなく良いです。大量に生産し、大量に供給する。このシステムによって、世界中の多くの都市の食が賄われています。しかし、環境負荷を考慮すると、今後20年、30年後に間違いなく、土壌や水の枯渇をはじめとする生態系サービスの劣化が不可逆的な仕方で生じます。〈造園としての農業〉は、生産性では劣りますが、相対的に環境負荷が低く、持続可能性が高いと言えます。さらに、農業の多面的機能(たとえば、単なる食料生産にとどまらない、自然の中の人間の様々なふるまい方を知る場という、農業の文化的側面)に目を向けさせる効果があるでしょう。しかし、土地ごとに異なる生育条件や、生体的防除の仕組みを知るには時間がかかりますし、必要となる人的なコストも膨らみます。

このような整理の仕方は、私の独自のアイディアというわけではなく、トンプソンの著作でもたびたび登場する、「工業的な見方(industrial vision)」と、「アグラリアン的な見方(agrarian vision)」に分ける農地や農業についての観点があります。アグラリアンは、「篤農家」に近い意味の言葉です。トンプソンは、多くの人は「工業的な見方」と「アグラリアン的な見方」のどちらかにあまりにも深く絡み取られているために、もう一方の考え方の論理や良いところが、全く見えなくなっていることを指摘しています。

吉永 なるほど。〈工業としての農業〉と〈造園としての農業〉という整理は、農業を評価する際の視点を考えるうえで重要ですね。それでは、次に食農倫理学のなかの「食」についてお聞きしたいと思います。

私は環境プラグマティズムの主唱者であるアンドリュー・ライトの「都市の環境倫理」に注目して研究を進めています。トンプソンとライトは、環境プラグマティズムから出発して、その後はだいぶ違う道を歩いているように思いますが、他方で共通点もあります。それは、現実の身近な問題から議論をスタートさせるという観点です。ライト自身は気候変動のようなグローバルな課題にも取り組んでいますが、彼はその一方で、身近な場所や都市に着目しています。そこには、市民に環境問題への動機づけを与えるという目的があります。じつは食農倫理学のとくに「食」というテーマには同じ問題意識を感じています。「農」には距離感を感じる人でも、「食」には関心を持っていますからね。「農業倫理学」だと遠い話に感じる人も、「食農倫理学」だとぐっと近寄りやすくなる。

太田 「現実の身近な問題から議論をスタートさせるという観点」の重要性については、とても共感します。「農業倫理学」という言葉からは、生業の倫理=職業倫理を扱う分野のようにイメージされることが多いのではないかと思います。それとは別のものとして「食農倫理学」と言い表すことで、そこに消費者の存在が立ち現れるのではないでしょうか。食の話は、もちろん生産者だけでは成り立ちません。消費者、そして、加工・流通を含めた、フードシステム全体を扱うものとして、食農倫理学という分野を捉えています。

吉永 都市と農村が対比的に描かれることが多いので、「農」というテーマは「都市の環境倫理」には入ってこないように思われがちですが、じつは「市民農園」やドイツの「クラインガルテン」を通して、都市内での農の重要性を提起することができます。また「食」についても都市の食料自給や食品廃棄物(フードロス)という問題を提起できます。他の観点からも、都市における食農倫理を論じることができるでしょうか。

太田 むしろ、ここは声を大にして、「食は都市の問題でもある」と主張したいですね! 世界の全人口の半分以上は「都市」に居住しており、都市への人口の集中は今後も(コロナ禍で多少減速はするにしても)続くでしょう。都市は、社会の持続可能性の要です。それはつまり、フードシステムの持続可能性を左右する要であることも意味します。

ここで、「フードポリシー・カウンシル」という組織をご紹介したいと思います。1990年代から、アメリカやカナダなどで、「食」を出発点として地域の持続可能性を向上させるために問題を総合的に捉え、行政と連携して解決をめざす取り組みが増えています。この活動の担い手となっているのが、フードポリシー・カウンシル(以下、FPC)です。構成メンバーは、食品産業に関わる人のみならず、地域の企業、研究者、議員、非営利団体などが含まれます。ある程度共通した問題意識を持ちながら、立場の異なる関係者が集まることで、地域内外のフードシステムをより良いものにするための意見交換と政策提言を行っています[図2参照]。

図2:フードポリシー・カウンシルに関わる人々や組織

たとえば、「失業」に対しては、働き口を失った人たちが食べられる場所と職業相談所を組み合わせることでドロップインできる場所を提供したり、「貧困」に対しては、ファーマーズ・マーケットでフードスタンプを使えるようにしたりなどの取り組みが見られます。福祉や介護、コミュニティへの移民の受け入れや多民族間の交流の促進、ヒートアイランド対策を兼ねた屋上緑化など、地域が抱える食が関わるさまざまな課題に対応しています。

貧困や労働搾取、生活環境の悪化など、自分の住む地域の課題や疑問に気付いたとき、それを一人だけで解決することは極めて困難です。そこで、誰にとっても身近な「食」という手がかりから、それらを改善するための公共政策への提言につなげていくための場がFPCであるといえます。2018年の時点で、アメリカとカナダだけで339のFPCが活動しています。

日本では、「食と農の未来会議・京都」が、FPCとして活動しています[図3参照]。「フードポリシー・カウンシル」は、直訳すれば「食料政策委員会」ですが、「食と農の未来会議」となっているのは、食が関わるさまざまな課題への取り組みを通じて、望ましい未来のあり方を探る会議、という意味合いが込められています。このように、多様な価値観や問題意識を持つ人たちが集まるところで意見の交通整理をすることも、食農倫理学に期待されている役割であるといえます。

図3:「食と農の未来会議・京都」の活動指針

吉永 たくさんのお話をありがとうございました。このシリーズでは、前回、動物倫理学との対話を行いました。太田さんは以前、応用哲学会の研究報告で、「食べるもの」「食べられるもの」「食べさせるもの」という3項で問題を考えるという枠組みを示していましたね。「食べるもの」(人間)と「食べられるもの」(とくに動物)との関係を考えるのが「動物倫理学」で、「食べられるもの」(食料)と「食べさせるもの」(生産者)との関係を考えるのが「食農倫理学」で、「食べるもの」(消費者)と「食べさせるもの」(生産者)との関係を考えるのが「ビジネス倫理学」という位置づけだったかと思いますが、この説明は鮮やかだなと思いました。

太田 覚えていていただき、ありがとうございます。日本では「食べさせるもの」への着目が相対的に弱くて、食の話が社会問題と重ねられることがあまりありませんでした。先述したフードシステムの観点は、「生産」と「消費」のあいだにある、「流通」や「加工」、「廃棄・再利用」という側面にも光をあてるものです。

また、「AのBに対する倫理」と「BのAに対する倫理」は異なるものになると思います。「食べるもの」「食べられるもの」「食べさせるもの」という3項も同じで、「消費者の生産者に対する倫理」と「生産者の消費者に対する倫理」は、別の問題群を扱うことになるはずですが、まだきちんと整理できていません。ぜひ近いうちに、この図式についてまとまった資料を作りたいと考えています。

吉永 ありがとうございました。太田さんとは以前に、環境倫理学の最新の教科書を一緒に要約紹介したことがあります(雑誌『環境倫理』ウェブサイトhttps://peraichi.com/landing_pages/view/kankyorinri)。今後もいろいろとご一緒できればと思っています。

プロフィール

吉永明弘環境倫理学

1976年生まれ。2006年千葉大学大学院社会文化科学研究科修了。現在、法政大学人間環境学部教授。専門は、環境倫理学、公共哲学。著書『都市の環境倫理――持続可能性、都市における自然、アメニティ』(勁草書房、2014年)、『ブックガイド 環境倫理――基本書から専門書まで』(勁草書房、2017年)、編著に『未来の環境倫理学』(勁草書房、2018年)。

この執筆者の記事

太田和彦食農倫理学、環境倫理学、シリアスゲーム

専門は食農倫理学、環境倫理学、シリアスゲーム。主な業績に、『〈土〉という精神』(ポール・B・トンプソン, 農林統計出版, 2017年)、『食農倫理学の長い旅』(ポール・B・トンプソン, 勁草書房, 2021年)など。

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