スポーツに暴力は必要か

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体罰で育った選手は社会でも生き残れない

 

近年、スポーツはバブルとも言うべき盛り上がりを見せている。一般紙の一面をスポーツ記事が飾ったり、NHKのトップニュースにスポーツが報道されることも珍しくない。スポーツ選手の書いた本は、小説やビジネス本を凌ぐ勢いで売れている。その一方で、経営状態の悪化等を理由に歴史ある名門企業スポーツの休部や廃部が相次いでいる。

 

年間の運営費が負担になることも大きな理由だろうが、それ以上に企業の成長戦略の中でスポーツを支援していく明確な存在意義が示せないことに問題の核心がある。企業スポーツもかつてのスタイルとは大きく形を変えている。以前は社員として午前中は勤務し、午後を練習にあて、引退後は職場に戻って一般の社員と同様に終身雇用のケースが多かった。しかし、競技が高度化したことで選手はほぼフルタイムで強化に専念することが求められ、企業もその実態に合わせてなのか、選手活動期間中のみの契約社員として雇用するスタイルも増えている。選手を取り巻く環境は大きく変化しており、トップアスリートとして活躍した選手でも、引退後のセカンドキャリアを築くことが容易ではない時代になった。

 

このように、スポーツに熱狂する一方で、なぜ企業はアスリートを選手の間だけ雇用し、その後は放り出してしまうのだろうか。

 

少し前までは、「体育会出身者」というだけで就職が有利と言われた。今は、「体育会=勉強していない、即戦力にはならない」といったマイナスイメージもあるようだ。おそらく、前述したような以前の日本とは必要な人材に差が生じていることに要因はあるのだろう。我慢や献身的な労働が求められた時代には、厳しい訓練に耐えられる従順なスポーツ選手は有用であったが、現代社会ではそういった単純な人材は求められていないということなのだ。

 

スポーツの夢や目標は、金メダルのように明確で、物質的な豊かさを求めることに近い。しかしながら、社会に出れば金メダルという目標は消滅し、自らが目標設定をして誰に促されることも強要されることもなく、取り組んでいかなければならない。殴られても蹴られても、‘強くなる‘というたった一つの価値観に向かってひたすら進んできた人間が社会に出たとき、コーチも具体的な目標なしでやっていけるのか? 企業は利益を追求することに正直だ。トップアスリートが本当に有用で能力が高ければ引退後に手放すわけがないし、その会社が手放したとしても引く手数多のはずである。

 

IPS細胞の研究でノーベル賞を受賞した山中伸也教授はなぜあのような研究に取り組み、成果をあげることができたのか。80歳にしてエベレスト登頂に成功した三浦雄一郎さんの原動力は何なのだろうか。大きなことを成し遂げる人に共通しているのは、常識や慣習に囚われない自由でクリエイティブな発想と、「誰かにやらされて」やっているわけではないことだ。苦しいとき、辛いときこそ、自らの夢の実現であったり、未開の境地に達したいという、湧き出るような欲望があるから突き進んでいける。体罰に頼って作り出される人間は体罰によってしか動かない。そんな人間を社会は必要としていないことを指導者もスポーツ界も認識する時期にきている。

 

 

国際社会で活躍する人材を育てるために

 

「日本人がある競技で活躍するとルールを変えられてしまう」ということが一般的に良くいわれる。確かにヨーロッパ発祥のスポーツの場合には、彼らが勝つのが当たり前で、日本人やアジア人が勝つというのはルールが間違っているという発想があることは否定できない。

 

しかしながら、各競技団体の国際組織は独裁的に支配されているわけではない。各国の委員で構成された委員会での議論の上でルールの決定や変更が行われていることを忘れてはならない。もしも日本人に不利なルールが作られているとしたら、相手を責める前に、そういった議論の場に日本は適切な能力のある‘人‘を送り込んでいるのか、その人間が公の場できちんと自らの主張を展開しているのかということを検証する必要がある。

 

正直に言って柔道界では目上の人間に「はい」しか言わない人間が出世する印象が否めず、自分の意見を持ち、主張する議論好きの人間は遠くに追いやられていくのが現実だ。上層部に従順で「はい」しか言わない人間を養成して国際の舞台に出しても、その人に何が訴えられるのか。とつぜん、豹変して自分の意見を述べたり、活発な議論をすることはないだろう。

 

スポーツは今や指導者と選手だけが頑張ればよいのではなく、サポートスタッフ、組織力などが融合し、機能してこそ勝利を勝ち取ることができる。スポーツが国際舞台で結果を残すためには選手の国際競技力をあげることと、情報収集や国際組織の意思決定機関に人を配置する等の国際競争力が必要である。日本は国際競技力を高めることには熱心だが、国際競争力をつけるための人材の育成、養成は遅れていると言わざるを得ない。日本スポーツ界の上意下達の伝統を大切にしていては、残念ながら世界で通用する人物が発掘される可能性は低い。

 

さらに、組織のマネージメント能力もスポーツには不可欠である。スポーツにおいてルールが変わるということは、それまでの努力が無になってしまうリスクがある。柔道でも、昨年、歴史的にも大きなルールの改正があった。ヨーロッパ、ロシア系の選手を中心にタックルのように足を掬って投げる技が多く見られるようになり、レスリングと柔道の棲み分けがしにくいという理由から、帯から下の柔道衣を直接持つことが禁止された。

 

このルールが決まったとき、日本では“日本選手に有利か不利か”といった議論が起こった。しかし、問題の本質はそこではない。こういった大きなルール変更を事前に情報としてつかんでいたかどうかという、組織の情報マネジメント力にある。これができていれば、早い段階から強化に反映させるからだ。上下関係の中で従順であるだけではなく、このような能力を育成することも、今後の日本のスポーツ界の発展に大切である。

 

スポーツにおいて体罰や暴力が必要かという議論は、スポーツに何を求めるのか、目指すもの、目指すところの前提を合わせて話をしなければ議論が噛み合ないように思う。現場にいる指導者は目の前の生徒や選手を強くしてあげることが最大の目標であるかのごとき視野狭窄に陥ってしまう可能性があり、熱心な指導者ほど危ない。指導者自身が、ときにはスポーツだけではなく、顔を上げて社会を見渡してみて、スポーツに求められているものについて考えてみることが必要なのかもしれない。

 

(本稿は、「α-Synodos vol.125(2013/06/01) 『誰がための「暴力」か』(https://synodos.jp/a-synodos)」からの転載です。)

 

サムネイル「Judo Europameisterschaft」Bundeswehr-Fotos Wir.Dienen.Deutschland.

http://www.flickr.com/photos/augustinfotos/7703435644/

 

 

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誰がために「暴力」か

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「スポーツに暴力は必要か」山口香

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