「俺がルール」じゃ動かないから――「均衡解」の日韓関係へ

かつてなく冷え込んでいる日韓関係。慰安婦問題や竹島領有権問題など山積する課題が、両国の間に大きな溝を生み出している。しかし日韓は、互いに決して逃れられない「重要な隣国」でもある。この悩ましい関係に、そして変化する現実に、どのように向き合っていけばよいのだろうか。

 

この問題に対して正面から取り組んだのが、今年2月に出版された『韓国化する日本、日本化する韓国』(講談社)だ。著者の浅羽祐樹氏に、変化する日韓関係のこれまでとこれから、そしてより一般的に、ルールに適応してプレーするという戦略について、インタビューを行った。(聞き手・構成 / 向山直佑)

 

 

韓国化/日本化とは?

 

――本書の題名である「韓国化する日本、日本化する韓国」ですが、日本と韓国はそれぞれどのような点で「韓国化/日本化」しているのでしょうか。

 

日本にとって韓国、韓国にとって日本は、「似ているようで違う」「違うようで似ている」ところがあります。どこを見るか次第で、まったく異なって見えてきます。その見方、向き合い方を提示したのが本書です。

 

ともに先進国ですので、「憂鬱な」政治や外交の課題を数多く共有し、それぞれ互いをベンチマーキングしながら取り組んでいるところがあります。少子高齢化や格差の拡大が進む中、福祉の水準や対象と税負担のバランスをどのようにとり、持続可能な社会を構築するのか。中国の台頭や米中関係の変容など「地殻変動する東アジア」の中で、外交戦略の見直しを迫られています。本来、互いに「参照項」として最も活用できる間柄のはずです。

 

にもかかわらず、互いに相手の全体像やロジックを知らずに、ごく一部の情報に基づいて、その時、その場の「最大瞬間風速」のようなものだけに強く反応してしまう、そういう傾向が目立つようになっています。ネットでも、「韓国」ネタが一番「炎上」しますよね。他人事ではありません(苦笑)。

 

これはとても残念なことです。物事を俯瞰して全体像をつかむと同時に、過去からの積み重ねと未来への展望の中に「いま、ここ」を位置づけて、それぞれ適度な比重で臨む必要があるのに、一部にだけ過剰に反応してしまって、相手のことがよく分からない。だから互いに反発しあって負のスパイラルに陥ってしまっているんですね。

 

これをもう一度とらえ直すことで、日韓関係だけでなく、世界の見方、向き合い方に「釣り合い(proportion)」を取り戻したい、という思いがあります。『ゲド戦記』(宮崎吾朗・2006年)ではありませんが、世界の均衡が崩れつつあるのはマズい、と。

 

とはいえ、だからといって日韓関係を即座に好転させたいとか、させられるというわけではありません。関係は悪いんだけれども、この「現状」がこれまでの積み重ねの中では相対的にどういう比重を占めるのか、という全体の文脈に位置づけて理解できるようにしたい、という思いを込めました。

 

 

――このタイトルに対する反響には、どのようなものがありましたか。

 

韓国でも「『外交におけるプラグマティズム』に関する親切な教科書」という書評が出ていますが、一部で「残念な」反響もあります。一般に「日本の韓国化」と言う場合、日本が韓国のように「劣化した」「悪くなった」というような意味で使われることがあるのは事実です。そういう用法と、この本で示している「韓国化する日本、日本化する韓国」という「対照させるという方法」を、同じものだと短絡されてしまっている側面があるように思います。

 

互いに相手の実像ではなく、虚像、つまり自分の中でイメージした相手のゆがんだ姿に対して罵り合っている、負の感情を増進させているのは端的に不毛で、筋が悪すぎますね。「カカシ論法(fighting a straw man)」は議論の禁じ手で、カカシ相手に勝利宣言していて虚しくないですか、に尽きます。論敵こそフェアに再現(=表象 represent)するのは、ストリート・ファイトやネット果し合いではなく、プロが議論するときの大前提です。

 

 

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――つまり、「韓国化する日本」は「日本化する韓国」とセットになっていて、一方的に日本が韓国みたいに「悪く」なっている、というような意味ではまったくないわけですね。

 

もちろんです。相手に照らし合わせて自らの姿、あり方を考え直す、そして現状を改めるきっかけになる一番の相手が、日本にとっては韓国であり、韓国にとっては日本であるということです。そういう存在として互いに設定すれば、相手の悪いところはマネしない、良いところはマネする、といった健全で発展的な関係を築けるはずです。

 

例えば、これがスウェーデンなんかだとちょっと遠すぎて、照らし合わせて日本のあり方を考える、ということはなかなか難しいだろうと思うんです。日本とスウェーデンでは、いろんな条件があまりに違いますので。少子高齢化問題や、TPPなどのグローバルな競争レジームへの参画と第一次産業の保護・再編といった、似たような政策課題を共有している日韓は、そういう意味で学び合いをしやすい関係にあるはずなのです。

 

かつては日本のほうがほとんど全ての分野で先を行っていたのでしょうが、今では分野によっては韓国のほうが進んでいるので、日韓は相互に学び合える絶好の「ペア」なのだと思います。

 

 

――前半部分でセウォル号の事件や、徴用工の裁判についての事例が挙げられていますが、ではこれらは韓国のマネするべきではないところ、として挙がっているのでしょうか。

 

そうではなくて、文化論や国民性で韓国、他国を安易に論じてはいけない、他のアプローチをとるとこうも分析できるということを示しました。

 

何か事が起きると「韓国人が◯○なのは韓国人だからだ」と時事解説されることが多いのですが、こんなのはトートロジーにすぎません。それでもこれで相手をなんとなく分かった気になってしまう人が少なくない。こうした残念な議論の仕方が日本社会で今、広く見られます。

 

セウォル号が沈没したのは韓国人の「パルリパルリ(はやくはやく)文化」「ケンチャナヨ(いい加減な)精神」のせいだとか、したり顔で言う人がいますが、こういう議論の立て方では、なぜ海難事故だったのか、なぜセウォル号だったのかの説明がつきません。「何でも説明できる」のは、実は「何も説明していない」「当該対象を説明できない」のです。それなのに、「韓国人だから」と言われると、分かった気になってしまう人があまりに多いという現状があります。

 

そうした現状を踏まえた上で、文化論や国民性ではなくて、制度的な理由、つまり業界団体や規制官庁、さらには大統領をめぐるルール、その中でプレーヤーそれぞれにとってのインセンティブ構造に注目して、本来規制すべき官庁が業界団体に取り込まれてしまった「規制の罠」の典型である、という理解の仕方を提示しました。そうすると、東電の原発事故との類似点も見えてくるわけです(高校生のための教養入門「比較政治学」編「比べてみないと、相手も自分も、分からない――物差し同士も照らし合わせて」)。

 

 

――理解の仕方を変えたい、ということですね。

 

30センチしか測れない物差し(スケール)に継ぎ接ぎして50センチにするのか。それとも、物差しそのものを変えるのか、はそのつど見極めないといけませんね(「ボリュームアップか、スケールシフトか」については「地方からの教育イノベーション(浅羽祐樹×斉藤淳×飯田泰之)」を参照)。すでに無用になった枠組みに「ゴミを入れてもゴミしか出てこない(garbage in, garbage out)」のはある意味当然ですよ。

 

この「理解」という言葉がよく誤解されていて、「理解する」=「共感する」、つまり全面的に受け入れるという意味だと思い込まれていることが少なくないようです。

 

本来、「理解する」というのは、「物事がいま、どのようにあるのか(what it is)」と現状を認識し、「なぜそのようになったのか(why it is as it is)」という原因を推論することです。なので、共感できないからといって理解できないわけではないし、むしろ共感できない行動や相手に対してこそ理解する必要があります。そしてもちろん、理解するからといって必ずしも友達にならないといけないわけでもありません。

 

日韓関係についても、確かに現状は「史上最悪」かもしれないし、朴槿恵大統領の対日政策には到底「共感」できないとしても、だからといって理解することを諦める必要はまったくありません。そういうときこそむしろ、相手がこういうゲームのルールの下でこう考えながらプレーしている以上、こちらがこうプレーすれば、相互に協力できてこういう結果を得られやすい、ということさえ理解していれば、それなりに見通しは立つじゃないですか。

 

首脳会談が長らく途絶え、互いに悪感情を強めている中でも、どうしたら「正常化」できるのか、そもそも国家間関係における「正常」とはどういう状態なのか、冷静に探ることができるはずです。情緒的にならず、「理解」という言葉を、「共感」としっかり分けて使うことが重要だと思います。

 

 

我慢できない日本?

 

――ここ数年で顕著に、日韓の間で相手に対しての非常に感情的な言論が増加したように思われますが、これはなぜなのでしょうか。

 

1965年に国交を正常化してから、日韓関係は長い間「非対称的」でした。経済的にも政治的にも、基本的に日本のほうが「進んでいた」ためです。しかし韓国が経済成長をし、民主化することで、関係が「対称的」になり、相手に照らし合わせて自分を考える、「対照」させるという方法がリアルになりました。

 

これが10年前だったら、「韓国化する日本、日本化する韓国」なんて言っても、「韓国とはまだまだレベルが違うでしょう」と受けとめる向きも少なくなかっただろうと思います。それは「民度」などという話では決してなく、経済発展の度合い、民主主義の定着度といった点で、いまやごく普通の「先進国」同士なのに、すっかり変わっ(てしまっ)た現実を受け入れられずにいつまでも上から目線のままいるからなのかもしれません。

 

 

――本書ではまた、「いま頃になって政治家や影響力のある有識者たちが、本音でものを言い始めた」と書かれていますが、これはどういった変化なのでしょうか。

 

外交にせよ政治にせよ、前提となっている「擬制(フィクション fiction)」があって、「~~ということになっている」ことを受け入れた上で、それぞれ期待された役割を各アクターが演じるからこそ、「アリーナ(舞台/競技場)」が成り立っています。

 

なので、たとえ個人的には靖国神社に参拝し哀悼の誠を捧げたいと思っていても、首相という一国の政治リーダーたるものはこう行動するものだとか、あるいは国内外の政治状況を冷徹に見極めた上で、それこそ「国益」を最優先させて行動選択を比較衡量することが重要なわけです。

 

東京裁判やポツダム宣言について、不平不満があったとしても、それを「受諾した」というのは、その枠組みの中で期待されている役割を粛々と演じるということまで受け入れたということです。「戦後70年」はその前提の上に成り立っていて、だからこそ「戦前」とは決別したと受け入れられているわけです。たとえ個人的には忸怩たる思いがあったとしても、これまでの経緯や周りからの期待との間にズレがあるのはデフォルトで、その上でどういう選択をするかです。

 

その「フィクション」がうまく継承されず70年にもなると、いつまで敗戦国のままなのか、という「ホンネ」を段々と我慢できなくなっているのではないかと思います。それは私も心情的には分かる部分がないわけではないのですが、やはり不平不満を言うにしても、今のルールに則って言い通さなければいけません。ロシアや中国の例を見ても分かるとおり、現状を力で一方的に変更しようとしても、国際社会の中で受け入れられません。

 

安倍談話が注目されていますが、歴代首相が繰り返して確認してきた発言のラインから外れるとなると、はたして「一方的な現状の変更」としてみなされてしまうのではないか。談話の正否はそこにかかっています。

 

日本は冷戦においては明らかに「戦勝国」の側に入っていましたが、残念ながら(?)冷戦は講和条約なく終わったので、今でも「戦後」と言ったら「冷戦後」ではなく、「第二次世界大戦後」を意味します。このように、日本の中にある「冷戦の勝利者」としての意識、もっと言うと「自負」と、「第二次世界大戦の敗者」という扱いの間に著しいギャップが生じていて、「ホンネ」と「タテマエ」が徐々に乖離していることも、不満が募る原因だと思います。

 

不満があるのは、ある意味当然です。70年間でパワーバランスは大きく変わりましたから、それを反映して仕組みを変えてほしい、という要望が、国連安全保障理事会の改革問題などにも現れています。中国が西太平洋に出たいというのも、そうした例なのでしょう。ただ、フィクションと現実がズレていて、そのズレをどう埋めるんだというときには、「平和的変革」しかありえないわけです。歴史家でもあり、国際関係学の創始者でもあるE・H・カーはこう述べています。

 

 

「実際、われわれは次のことを承知している。すなわち平和的変革は、正義についての共通感覚というユートピア的観念と、変転する力の均衡に対する機械的な適応というリアリスト的観念との妥協によって初めて達成される、ということである。成功する対外政策が実力行使と宥和という明らかに対立する二極の間で揺れ動くのはなぜか、その理由はここにある」(原彬久訳『危機の二十年─理想と現実』2011年、岩波文庫、420ページ、原著の刊行は「戦間期」「第二次世界大戦」直前の1939年)

 

 

現状を一方的に変えようとするのではなくて、その中で役割を演じつつ巧く変えようとしないと、「勝ち組」の側から「修正主義者」に映ってしまうことになります。【次ページにつづく】

 

 

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